39話 『彼岸へ咲に』
デブリ――
それは享楽の霧を媒体として、享楽者と同調した“生ける屍”。
本来、死した肉体では、同調の起点となる"呼吸"は行われない。
享楽者による肉体細胞の掌握は、生命活動の停止と共に拒絶される。
だがーー
逆にそれは、外部から送られる物体を、"拒むことができない"ということでもあった。
一度死んだ肉体は、呼吸と同様に、防衛反応も機能しない。
つまり、霧が体内に流れ込めば、 意識を無視して細胞組織を無理やり動かす。
それは生命の再生ではない。
ーー死そのものの再稼働
支配に蝕まれた屍は、再び舞台で"役者"となる。
***
なーー灰の舞う劇場。
糸の支配から逃れた死体は、光を受けて動き出す。
焦げた皮膚が軋み、装備が擦れる音が鳴る。
沈黙していたステージに、再び“心臓の鼓動”が戻った。
「カナンが……主役?」
リオンは、驚きを隠せぬ様子でこちらを一瞥する。
再び動き始めたデブリや
反逆者が主役の第二幕など
飽和した情報が流れ込み、思考は混乱する。
だが、これだけは言える。
「……なんの冗談だ。」
静かに怒りを込めた言葉。
「ヴァルツ……
俺は、お前の演者なんかじゃねぇ……!」
告げられたその声は、怒号でも悲鳴でもなかった。
ただ、ひとつの“意志”として、劇場に木霊する。
燃え残る炎がカナンの影を伸ばし
陽炎に揺らぐ反乱因子。
その背に宿るのは、誰の脚本にも縛られぬ――反逆者の輪郭だった。
沈黙。
空間を一拍遅れて、スピーカーをノイズが揺らした。
『……いいや、君は演者さ。
少なくとも、"彼"にとってはね。』
「彼……」
カナンは目を細めた。
『共演といこう。仲良く、主役同士……!』
ヴァルツの言葉と共に、舞台上で金属の軋む音が響いた。
ーー灰を纏うように、トルヴァが立ち上がる。
皮膚の裂け目から、血とも霧ともつかない液体が滲み出し、壊れた人形のように動き出した。
焦点の合わない眼が、それでも確かに“生者”を捉えている。
呼吸のない体が、命令に従うように剣を持ち上げーー
不自然な角度に曲げた腕で、血の滴る刃をこちらへと走らせた。
「…………ッ!」
ギンッ!!
金属が悲鳴を上げる。
「カナン!!」
リオンが横から滑り込み、トルヴァの剣を受け止めた。
刃と刃が火花を散らし、二人の足元に焦げた灰が舞う。
「ふざけるな……何が“演者”だ……!」
リオンの怒声が、炎の中で響く。
「こんなもの!……演劇なんかじゃない……!」
ギンッ!!
トルヴァを押し返し、そのまま壁へと突き飛ばす。
剣を強く握りしめて彼は叫んだ。
「これは……死者を使った――悪趣味な、見世物だ!!」
その言葉に応えるように
『おやおや……』
ヴァルツの声が、軽く笑うように劇場全体へ響く。
『“死者”を使った……? いいや、違うね。
これは演技さ、“死”を演じさせているんだよ。
彼を勝手に死人扱いしているのは、君たちの方じゃないか。』
焦げた天井の照明が一つ灯り、トルヴァの顔を照らす。
その影はまるで、糸で吊るされた操り人形のようだった。
『今の舞台も素晴らしいけれど……
失楽園は、神へと抗った堕天使ルシファー
反逆者の物語なんだ。
役者以外はお呼びじゃないよ。』
ヴァルツの声が響くと同時に――
ガガガッ……!と、天井の照明装置が唸りを上げた。
それと同時に、舞台から強風が吹き上げ、リオンが観客席へと飛ばされる。
「くっ……!」
リオンが体勢を立て直して駆け出すが、重い防音幕が落ちて、その進路を遮った。
「カナン!!!!」
リオンが叫ぶも、音は厚い鉄に吸い込まれる。
間に挟まった壁と煙が、まるで結界のように二人の間を隔てた。
そして、ヴァルツはスピーカー越しに囁く。
『舞台転換-完了。
これで邪魔ものは――居なくなった。』
照明が一つだけ灯る。
カナンの立つステージ中央を冷たい白光が照らした。
周囲は闇に沈み、トルヴァと彼、二人だけが光の中に立っている。
彩ろれた舞台が用意され、ステージの上は彼らだけの決戦場となった。
『主役は一人でいい。
神へと挑む反逆者――これこそまさに、堕天使伝説だろう?』
カナンはゆっくりと、何かを決断し言葉を吐き捨てる。
「……あいにく、脚本通りに動く趣味はねぇんだよ。
俺も……"あいつ"も……。」
その声に、焦げた照明が一瞬だけ明滅した。
まるで舞台そのものが、次の一幕を承認するかのように。
《Mode:Dominionn》
機構が唸り、黒き刃が展開を始める。
『悪いが、公演中止だ。
ここは既に、逆転劇の舞台だからな……。』
その言葉と同時に、トルヴァの身体が糸に引かれるように立ち上がり、硬直した関節を軋ませた。
滑らかだが、どこか“人間ではない”。奇怪な動き。
それはまるで、死をも踊りへ変える“操り人形の舞踏”の様だった。
その異様な光景を前に、カナンは小さく息を吐く。
「わざわざ人形の演技をさせるなんて……
ずいぶん悪趣味なことをするんだな……。」
その声には怒りでも、悲しみでもない。
ただ、理解を超えたものへの“静かな軽蔑”が滲んでいた。
『台本に従わない演者ほど、悪趣味では無いと思うよ。』
声は柔らかく、そして底の見えない愉悦に満ちている。
まるで観客席のどこかに、ヴァルツが座っているかのようだった。
『それよりも、お話してて大丈夫なのかな?』
ヴァルツの声が劇場全体に反響した。
途端に、空気が変わる。
舞台の上で――トルヴァが動いた。
糸はもう存在しない。
それでも彼の身体は、まるで見えない指に操られるかのように、ぎこちなく足を踏み出す。
「……ッ!」
キンッ!!
金属音が弾ける。
カナンは反射的に刃を構え、トルヴァの剣を受け止めた。
衝撃が走り、後ろへ飛ばされる。
――速い。
思考よりも先に、剣が、腕が襲いかかってきた。
打ち合って気づかされる。
彼の異常な速度と力に……。
筋肉の限界を超えて、死体を“燃料”にするように、人間の細胞を、無理やり“動かして”いる。
人を超えた動きを、人を使って行ってきた。
ガキッ……!
外れた関節を繋げるように音を鳴らし、トルヴァは再び刃を向ける。
死を超え、肉体を削られても尚
彼の強さを愚弄し、人形は踊る。
「ーー許さねぇ……!」
カナンは歯を食いしばり、力の限りを尽くして刃を振った。
ギンッ!!
刃が激しくぶつかり、火花が飛び散る。
トルヴァの剣を弾き飛ばし、その隙に胴へと蹴りを叩き込んだ。
崩れ落ちるように彼の身体が後退する。
カナンの肩が上下する。
荒い息の中に、怒りでも悲しみでもない、ただひとつの“誓い”が宿る。
「ヴァルツ……」
その名を吐き出すように呟き、拳を握りしめた。
「……望み通り反逆してやるよ。
この演劇ごと――お前の全てに……。」
影の操者は、ゆっくりと口角を上げた。
燃え残る炎がその笑みを照らし、まるで観客席に語りかけるように呟く。
『いいね、それでこそ――反逆者だ。』
***
一拍の静寂。
舞台の照明が一つだけ灯り、ヴァルツの声がスピーカーから響く。
『でもね、カナン君。』
声のトーンが柔らかく落ちる。
『ルシファーは、神に反逆はせども――勝ちはしなかったんだよ。
君は原書に、抗えるかな……?』
カナンの視界が、赤と白の光で歪む。
まるで脚本のページが、空中でめくられていくように、照明が再点灯する。
目眩しをするような照明のさなか、トルヴァの影が再び動いた。
ギィ……ッ!!
肉体の限界を超えた速度。
身体の肉が引き裂かれるような音を立てて、こちらへ襲いかかる。
その剣筋は、糸のように正確で、死者とは思えない。
「……ッ!!」
貫く剣先が頬を掠めた。
汗と共に傷跡から、血が流れる。
再び、構え合う二人。
かつて笑いあった友人の面影は、その死骸にはもう存在しなかった。
「……あいつは、もう“トルヴァ”じゃない。」
カナンは息を吐く。
「それは分かっていても……
分かってても……簡単に割り切れるわけねぇだろ!!!!」
叫びが、焦げた劇場の天井を震わせた。
反響音がいくつも跳ね返り、観客席の奥で壊れたスピーカーがかすかに鳴る。
『美しい……感情ってやつは、実に“舞台的”だ。』
ヴァルツの声が、笑いを含んで響いた。
「……黙って見てろよ、演出家。
今すぐ、ふざけた劇を終幕させてやる。」
カナンは吐き捨て、構える。
その瞳に、もう迷いはなかった。
二人の間で、一つの呼吸が重なる。
そしてーー
ギィン!!!
再び刃が交わった。
火花が散り、金属が悲鳴を上げる。
一瞬の拮抗。
互いの力が軋み、世界が止まったように静まり返る。
その刹那、カナンの足が床を蹴り抜いた。
焦げた板が弾け飛び、灰が舞い上がる。
ーー跳ぶ。
トルヴァの剣筋上へと。
交差した二つの刃を支点に、カナンは身体をひねり、
自らの剣と相手の剣を軸に、回転をかけて宙を裂いた。
「……ッ!!」
鋼と鋼が擦れ合う音。
光の軌跡が走り、刃が閃く。
反撃の一閃。
空気を裂く音。
それらを皮切りに、トルヴァの右腕が、回転しながら宙を舞う。
燃え残る舞台の光を浴びたその腕は、
まるで“糸の切れた操り人形”のように揺れーー
着地と同時に、床に叩きつけられた。
ーー劇場がひと呼吸、静まる。
灰がゆらりと舞い、その場の余韻に浸ったその瞬間――
遅れて響いた、凍りつくような刃鳴り。
スッ、という細い風のような音。
それは確かに、刃が空気を切る音だった。
だが刃の出所は見えない。
刃を振るった者の姿はなかった。
次の瞬間、トルヴァの胴体が真っ二つに裂けた。
血と体温の重さが床へと垂れ、膝から崩れ落ちる。
彼はもう動かない。
劇場に残ったのは沈黙と、彼岸へ送られた"彼"の友人だけだった。
ーー灰が宙に漂い、崩れた天井から木片がゆっくりと落ちる。
……カツ、カツ。
乾いた音がどこからともなく響いた。
木片……いや、瓦礫が落ちた音かと最初は思った。
ーーだが、違う。
それは、規則正しく、まるで――拍手のように……。
こちらへ歓声を送っていた。
『――ブラボー。実に見事だ、カナン君。』
低い声が、闇の中から笑いとともに響いた。
拍手は増えていく。
スピーカーから、天井から、壁の奥から。
幾重にも反響し、劇場全体を“喝采”で満たしていった。
『けれど、何か勘違いしているみたいだ。』
ヴァルツの声が、今度は優しく、囁くように響く。
『トルヴァ君を倒した程度じゃ劇は終わらない。
僕は――殺せないんだよ。』
ノイズ混じりの笑い声が、照明の明滅とともに劇場を包みこむ。
その声は遠く、しかし耳の奥へ染み込むような不気味さを感じさせる。
だが、カナンは怯むことなく、ゆっくりと言い放った。
「……そっちこそ勘違いしてるみたいだな。
お前を殺す作戦は――もう、終わっている。」
短い言葉を、確固たる刃として……。




