#34 「甘美な毒」
結論から言うと、隼人が眠りから目覚めても世界は元通りになっていなかった。
十一月二十日の午前七時。
この日、姉の春奈によって起こされた隼人は二つの意味で頭を抱えた。
一つはいつも通り、今から支度をして学校へと行かないといけない事。
もう一つは、隼人からすれば異変そのものでしかない姉の存在。
死んだはずの姉が生きていて、居たはずの妹が存在しないこの世界。
目が覚めたら元通りになっていますように という隼人の願いは笑顔で部屋を訪ねてきた春奈の姿で打ち砕かれた。
隼人とて、その事実は悲しいだけではない。
春奈が生きていてくれて嬉しい。
長年の呪縛から解放されて消えた姉を想いながらも、その願いを叶えた自分を時折責めたりもした、悔やんだりもした。だからこそ、二度と会えるはずのないと思っていた姉が生きているこの状況は、妹を失った絶望に囚われるだけではない。
けれど、そんな気持ちすらも乗り越えて昨日までは生きてきた。それを、理由も分からないままに蔑ろにされ、歪んだ形で心の何処かで理想にしていた幸せ家族の夢を見せられている。
これは夢か、もしくはこれこそが現実で今までが夢だったのか。
答えは出ないまま、隼人は取り敢えず支度をする事にした。
リビングへと向かえば、昨日と同じように本来なら居ないはずの父が新聞を読みながらコーヒーを啜っていて、その奥では、春奈がテレビを見ていた。
彼女の視線の先には、5⭐︎STARSの山下夏希が映っている。
隼人の五人目の友人。人の心を読むことが出来る少女。
改変されたこの世界でも、上坂隼人と山下夏希には接点があった。一昨日まで居た世界と同じように、上坂隼人はストーカーから夏希を救っている。
そして、それは神崎瑠香も同じ。彼女もまた、上坂隼人によって命を救われ、共に未来を変えた。
変わっているのは、由希が居ない事だけ。少なくとも、現状で把握している事は。
自身がまだ知らないだけで、また違う異変がある様なそんな感じがしている。
考えれば考える程おかしくなりそうな気がしたので、隼人は取り敢えず朝食をかき込み、支度を済ませてから家を出た。
◇◆◇
家を出て、隼人は駅へと向かう。
視界に映る景色はどれもこれまでとは変わらないもの。変わらないのに、この世界の誰もが、上坂由希という存在の消滅には気付いてない。
冬葵も梨花も。姉である春奈も、父も母も。
上坂隼人という人間だけが、上坂由希という存在を観測している。でも、自分だけが知っているだけでは精神の異常によって生み出された妄想と受け取られても仕方はない。現に、隼人自身は由希の存在を証明出来るものは何も無い。ただ、記憶にあるというだけ。
本当に由希を取り戻すのなら、何としてでも見つけ出さないといけない。元の世界へと戻るきっかけを。手遅れになる前に。
「一応、結衣にも伝えとくか」
スマホを取り出して、隼人は結衣へとメッセージを送る。
“目覚めても、世界は元通りになってなかった“
直後に既読がついて、メッセージが返ってくるのかと思えば何も返ってこないまま、隼人は駅へと辿り着いた。
改札を抜けて、やってくる電車を待つ列に並んでいる間にポケットに入れていたスマホがバイブし、隼人は手に取る。
“そう、残念。“
“既読無視は酷くないか?“
“朝から違う女に連絡とか、彼女に怒られるよ“
結衣からのメッセージを見て、隼人は困惑した表情を浮かべた。
違う女に連絡をすると、彼女に怒られる
隼人の記憶によれば、現在の恋人は結衣自身の筈。そんな結衣に返信して、誰に怒られるというのだろうか。
困惑したまま返信を考えていると、突如として背中を叩かれた。
「おはよ!隼人!」
驚きながらも隼人が振り返った先に居たのは、幼馴染の梨花。
冬葵かと思っていたので、尚更梨花に声をかけられ驚いた。
「珍しいな、梨花とこんな時間に会うなんて」
「…?別に珍しくないでしょ?いっつも一緒に学校行ってたじゃん昨日は用事があって早く行ってたけど」
感じる違和感。改変されているもう一つの事実を前にしたようなそんな感覚。結衣のメッセージを見てからもそうだった。そしてその違和感の正体を、梨花は口にする。
「大体、一緒に行くのは当たり前でしょ?私たち付き合ってるんだから」
「…っ!?」
梨花の言葉を聞いて、隼人は目を丸くした。
付き合っている… 自分と梨花が…?
「隼人ー?どうしたの?なんか、昨日からちょっとおかしいよ」
「…悪い、何でもない。ここのところ寝れてなくて」
「心配だから、ちゃんと寝てよ?隼人が体調崩したら、私も悲しいんだから…」
「ちゃんと休める時は休む、ほら電車来たぞ」
夢乃原高校行きの電車がゆっくりと停車する。
ゾロゾロと乗り込む人々の波に乗るように、隼人と梨花の二人もそれに続いた。
やがて扉が閉まり、電車はゆっくりと動き出す。
そんな車内で、隼人は吊り革を掴みながら目の前に広がる景色を見つめて状況を整理した。
姉が居て、妹が居ない。単身赴任の父も家にいて、付き合っていたはずの結衣とは友人の関係のままで、代わりに幼馴染の梨花と付き合っている。情報の量に、頭がパンクしそうになる。けれど、どうもこれで終わりでは無さそうな気もした。
揺れる車内。隼人が隣を見れば梨花が同じように吊り革に掴まって景色を見ていた。
隼人からの視界を感じ、梨花も隼人を見ると僅かに微笑む。
この状況に困惑しながらも付き合っている相手が梨花で良かったと思う自分もいた。
幼稚園からの幼馴染で、家も隣。親ぐるみで仲も良く、何かをするにも梨花か冬葵が居た。夢乃原高校に通っているのも、二人が行くからという理由もあった。
隼人には初恋とされている相手が居るが、それよりも前に隼人自身も梨花に惹かれていた時期もあった。
それは梨花も同じで、共に過ごした隼人に惹かれた時期もあった。けれどそれは互いに実らないまま、幼馴染という関係で成長した。
あの時の自分は今になって思えば、仮にその仲が終わった•実らなかった場合、この関係が壊れるのを恐れていた。だからこそ、一歩引いた壊れる事のない幼馴染という関係性のままで居る事を望んだ。
そして、その結果がこれ。
この世界とやらは、どうにも自分の心の奥底にあった“もしも“を現実にしてくるらしい。
隼人は車窓からの景色を眺めながら、不満げにそう感じた。
電車は駅へと辿り着き、降りていく人の群れに倣うように隼人と梨花も電車を降りる。
駅から学校へと着く間、隼人は梨花と薬にも毒にもならないような会話を繰り広げながら歩く。
会話をしながら同時に、やはりこの世界での付き合っている相手が梨花で良かったと隼人は改めて思った。
相手が幼馴染である以上、会話の地雷を探すように探り探りの会話をする必要がない。故に変に取り繕わなくて済む。
そんなこんなで会話を続けている内に学校へと辿り着き、二人は玄関で靴を履き替えて教室へと向かう。
途中、隼人が尿意を催し梨花だけ先に教室へと向かわせて自らはトイレへと向かった。
ようやく訪れた一人の時間。
トイレを済ませ、手を洗いながら鏡に映る自分を見る。
上坂隼人。見た目も、性格も記憶もそのままでこの世界へと迷い込んだ。
故に、間違っていると知っているからこそ、その矛盾が苦しい。そして、この偽りの幸福に浸かり続けたいと思い続ける自分もいる。
姉の春奈は死んだ。
父は単身赴任で居ない。
梨花とは付き合っておらず、本当の恋人は結衣。
ただ、そう否定すればいいだけのはずなのに、この甘い毒のような夢がそれを拒もうとする。
だとしても、元に戻るのならそれすらも捨てなくてはならない。例え、元の現実が救いようがない結末が待つ物だとしても。
トイレを出て、廊下に出る。
教室へと戻ろうとしたその時、隼人の前を二人の女子が歩いていた。
そして、その二人の光景が、更に隼人の意思を鈍らせる。
「悠未…!」
隼人の六人目の友人、そして結衣が見えない物が見える力を発現した根源的理由。
つい最近、園崎悠未は自らの願いを叶えて、安らかな眠りについた。
けれどこの世界では生きている。
隣に居る、上野結衣と共に。
「…マジでタチが悪いな、本当」
吐き捨てるように隼人はそう呟いて、一旦この甘い毒の様な夢に倣う様に教室へと戻る事にした。




