第五章 『宇宙の真珠』の物語(後)
長い間、本当に待たせてしまって申し訳ありません。お陰様で、これでやっと完結します。頭に浮かぶのは反省と謝罪の言葉ばかりで、皆様には本当に申し訳なく思っています。つたない作品ではありますが、少しでも皆様に楽しんで頂けるよう心から願っています。m(_ _)m
12
「リーナ!」
サファイアは、倒れているリーナのもとへ急いで駆け寄った。
「リーナ! しっかりして、リーナ!」
「サファイア様、御無事で……良かった」
口元から血を溢れさせながらも尚、リーナはサファイアの身を気遣った。
「どうしてリーナ、何故ここに……」
「わたしは……わたしは最長老様やカイン様から……サファイア様をお護りするよう命じられている身です……」
身代わりになるのは当然のことと、リーナは言った。
「駄目! 駄目よリーナ、死んでは駄目!」
涙をこぼし、サファイアは叫んだ。
「いいのです、本当に……サファイア様から、大切なお母様を奪ってしまったわたしは……こんなことでしか償う方法はないのですから」
「嫌、リーナ! 死なないで、リーナ!」
死んでいく。また一人、サファイアが大切に思う人が死んでいく。どうして、こんなことになってしまうのだろう。サファイアが望んでいたのは、愛する人達が幸福に生きることだったのに。
「泣かないで下さい、サファイア様……わたしは今、とても幸福なのですから」
リーナの顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「ずっと夢見ていた……わたしにとってとても、とても遠い存在のはずだった……そんなあなたに出逢えて、しかも姉代わりにまでなれて……その上、ずっと憧れていたカイン様のおそばにもいられて……本当に、わたしはとても幸福でした」
「リーナ……」
「それなのにわたしは……よりによって、わたしは皇妃様を……サファイア様のお母様を殺してしまった……」
「リーナのせいじゃない。リーナのせいなんかじゃないわ」
「いいえ、わたしにもっと強い心があれば……そんなことにはならなかったはずです……御赦し下さい……御赦し下さい、サファイア様……」
「リーナ……!」
サファイアがリーナにしがみ付いて泣いている間、イルマは短剣を握りしめたまま茫然としていた。
「……リーナ」
イルマの顔も身体も、自ら手をかけたリーナの血に塗れていた。
「大嫌い!」
振り向きざま、サファイアが叫んだ。
「あなたはわたしが大好きだった、優しい最長老様なんかじゃない! みんなの心を操って、みんなを苦しめているあなたは、巫女でも何でもないわ! 消えて! 今すぐここから消えてしまってよ!」
「……どうか、そのようなことを仰らないで下さい、サファイア様」
最後の力を振り絞って、リーナがサファイアを諫める。
「あなたには、そんな言葉を決して言って欲しくはない……あなたはいつも、お父様やお母様を……カイン様を……わたしを……心から愛して下さったのですから」
「リーナ……」
「……どうか、最長老様を助けて下さい……愛して下さい……あなたはわたしの……わたし達巫女すべての誇り……わたしの巫女姫様……」
「リーナ! リーナ、リーナ!」
そこまでだった。サファイアの腕の中で、リーナは静かに息を引き取った。
「……どうして」
泣いていたサファイアは、うめくように漏れたその声にはっとして顔を上げた。
「どうしてなの。どうしてわたしは、何度も同じ過ちを繰り返してしまうの。わたしは幸福になりたかった、幸福になりたかったのに」
体を震わせ、イルマはまるで子供のように激しく泣いていた。
「他人の心を読み、操る力なんて望んでいなかったのに。初めて心から愛した人と、一緒になりたかっただけなのに。父を殺し母を殺して、挙句の果てに息子まで死に追いやり、わたしは、わたしという女は……!」
そのまま地面に崩れるように倒れ、泣き続けるイルマの姿を、サファイアは半ば茫然として見詰めていた。
巫女でありながら救われず、己の力に振り回されてきた一人の女。他人を恨み、他人の心を操って、それで一体何を得たと言うのか。何のために、このイルマという女はこれまでの人生を歩んで来たのだろう。
「御救い下さい……!」
イルマが叫んだ。
「どうかわたしを御救い下さい、巫女姫様。もうこれ以上、生きてなんかいたくない。わたしのそばには、誰もいないのです。皆、わたしを残して逝ってしまった。わたしは独り、この世にたった独り。愛してくれる者が誰もいないこの世に、これ以上縛られるのは残酷です……!」
重い。
重過ぎる。どうあってもこの人は、サファイアを普通の女の子とは認めてくれないのだ。イルマにとって、あくまでもサファイアは女神の生まれ変わり。それ以上にも、それ以下にもなれない。
サファイアは叫びたかった。あなたの前にいるのはまだ七歳の、ごく普通の女の子だと。どんなにあなたが望もうとも、わたしのような小さな女の子に『女神の代理人』が務まるはずがないと。
それなのにあなたは、わたしにすがり付いて泣き叫ぶ。お願いだから助けてくれと、子供のように泣きわめく。本当に泣きたいのは、わたしの方なのに。
サファイアは天を仰いだ。どんなに逃れたくても、どんなに拒み続けてもサファイアは、女神の生まれ変わりという運命から逃れることは出来ない。女神と同じ青い髪の、リステーニイ皇帝のたった一人の皇女として生まれた以上、イルマのみならず誰もがサファイアを女神そのものとして扱う。
「……逝きなさい」
ようやくの思いで、サファイアは口を開いた。
「あなたは、自分の力に縛られていたの。力に振り回されて、自分を見失って、あなた自身が操られていたのよ。でも、もう大丈夫だから」
イルマの涙が止まった。
「みんなもきっと、わかっているわ。逝ってしまった人達みんな、あなたがずっと苦しんでいたことを理解しているはずよ。だから大丈夫、あなたのアルレスもあなたが来るのを待っているわ」
「アルレスが……」
半ば茫然とした様子で、イルマはサファイアの顔を見上げた。
「アルレスが……あの子が、本当にわたしを待っていてくれるでしょうか……」
「あなたが心から誤れば、誰も拒む人はいないわ。アルレスもシャルロットも、それにあなたの父さまも母さまも、きっとあなたがそうしてくれると信じているわ」
「……父上……母上……!」
イルマが再び泣き出した。
「ごめんなさい……ごめんなさい……赦して下さい、父上……母上……!」
「だから、逝きなさい」
苦しい。今にも吐いてしまいそうなくらい苦しい。
「あなたを待っているみんなの処へ、早く逝ってあげなさい。もう苦しむ必要はないのだから」
「……最後に、ひとつだけ教えて下さい」
イルマは更に言った。
「サファイア様は、巫女姫様は、わたしのことが御嫌いになってしまわれたでしょうか。本当のわたしを知って、わたしがこんな情けない愚か者だと知って、巫女姫様は……」
「言ったでしょう。わたしは最長老様のことを、本当のおばあさまのように思っていたのよ」
サファイアは微笑んで答えた。
「さっきはとても哀しかったから、思わずあんなことを言ってしまったけど、本当は違うわ。リーナだってシャルロットだって、きっとそう思ってる」
「……有難う。有難うございます、巫女姫様。わたしはずっと、あなたのその御言葉が欲しかったのです」
イルマが初めて顔を輝かせた。
「わたしのような者でも蔑むことなく、巫女姫様は御救いをお与え下さる。だからこそあなたは、生まれながらの斎宮でいらっしゃるのです。女神様の生まれ変わりなのでございます。有難うございます。これでようやくわたしも、息子達のそばへ逝くことが出来ます……」
涙と共にイルマが握りしめていた短剣が、その喉元をまっすぐ貫くのを、サファイアは眼をそらさず見詰めていた。飛び散った血しぶきを浴びても、逃げ出すことさえなかった。
「最長老様」
血だまりの中に倒れたイルマの顔は、サファイアがよく知っている老いた頃に戻っていた。
「ひどいわ、最長老様」
あなたは結局、自分のことだけしか考えていなかった。自分の苦しみも哀しみもすべてわたしに投げ出して、この世から逃げ出してしまった。
残されたわたしはどうなるの。あなたから託された思いを、どう受け止めればいいの。わたしは何も、何も出来ないのに。何も出来ない、ただの普通の女の子なのに。
「父さま……助けて」
踵を返し再び森の中へ向かうサファイアを、ミフォン達が慌てて追い駆けた。サファイアは振り返りもせず、逃げるようにその場を離れた。
13
これが、運命なのか。
ただ女神と同じ色の髪を持っているというだけで、七歳になったばかりの幼い少女が、何故『女神の代理人』という重荷を背負わなければならないのか。
「父さま」
涙ながらにサファイアは叫んだ。
「父さま、助けて」
苦しい。苦しくてたまらない。まるで重い足枷をはめられているかのように、サファイアの足取りも重かった。引きずるようにして、燃え残った森の残骸の中を歩いていた。
わかっている、これは義務だ。斎宮に選ばれた以上、果たすべき当然の義務。けれど。
斎宮である前に、リステーニイの皇女である前に、サファイアも一人の女の子であることをわかって欲しかった。いくら父親が強大な能力者であっても、サファイア自身は何の力も持たない、本当にごく普通の女の子だということを、どうして誰もわかろうとしない。どうして、こんなにも苦しい思いをしなくてはいけない。幼い身にすがって来る弱者の思いを、すべて引き受けよとでも言うのか。
「父さま」
もう一度、声を上げて叫んだ。涙が溢れて止まらなかった。逢いたい。今すぐ、父さまに逢いたい。
突然、眼の前が開けた。と言うより、周囲の景色が一変したと言うべきかも知れない。灰色の焼け残りばかりだった森が、不意にしたたるような緑一色の世界へと変わった。
そしてその鮮やかな緑の中に、一本の白い道が続いている。サファイアは立ち止まった。道もそれを彩る木々も、不思議な光に満ち溢れていた。
「呼んでいるわ。湖が、わたしを呼んでいる」
サファイアは確信した。
「父さまに逢える、逢えるのよ」
そう思うと同時に走り出し、ミフォン達も必死にその後を追い駆けた。ようやく父に逢えるという思いで心がいっぱいになり、もう何も考えられなかった。だからどんなに息が苦しくても、ドレスの裾が絡んで転がってしまっても、少しも苦にはならなかった。道は想像以上に長く果てしないように思えたが、サファイアの足が止まることはなかった。
「父さま……!」
父への思いを胸に、どれだけ走っただろうか。突然、サファイアの前にあの湖が現れた。
14
湖だ。今、サファイアの眼の前に、何度も夢に見ていたあの湖の光景が拡がっている。いや、夢じゃない。これは夢なんかじゃない。サファイアは確かに今、小さな頃から憧れ続けていた湖の前に佇んでいる。
母から繰り返し聴いていたとは言え、実際に見る湖の美しさは想像以上のものだった。湖は深く、何処までも青く澄み渡って、梢から差し込む陽の光に輝いている。その光を受けて湖ばかりでなく周囲の木々でさえ、同じ森の中の他の場所とも違うように思えた。何よりここは、音というものが全くない。水音はおろか木々の囁きさえも聴こえず、静寂と清浄な空気だけがこの場所を支配していた。
しかしサファイアの顔は晴れず、小さな口からは吐息が漏れた。ようやく湖に辿り着いたと言っても、それですべてが解決した訳ではない。湖の輝きはサファイアに一時の慰めを与えてはくれたが、心が重いことに変わりはなかった。
「父さま……」
一体何度、その名を呼んだことだろう。
「苦しいの。苦しいの、父さま。お願い、助けて」
父はいない。誰よりも強く抱きしめ、慰めて欲しい人が現れる気配はやはりない。
「一生懸命やったの。大神殿の火事も、シャルロットや最長老様のことも、わたしに出来ることは一生懸命したの」
姿の見えないその人に向かって、苦しい胸の内を打ち明ける。
「父さまのような力はなくても、女神様を信じて心を込めてやっていれば、きっといつか斎宮であることに自信が持てる。そう思っていたの。ヘレナ達の、力になれると思ったの」
そうだ。あの時確かにサファイアと少女達は、女神のすぐそばにいた。
「でも、それだけじゃ駄目なの。それだけじゃ、誰かを本当に助けることなんて出来ない。わたしはやっぱり、斎宮なんかじゃない」
母が逝き、父も帰って来ない。その上、サファイアの眼の前でリーナも死んだ。
「父さま、わたし嘘を吐いたの。最長老様に、最長老様の息子のアルレスが待っているから、早く向こうへ逝きなさいって。でも本当に、アルレスが最長老様を待っているかなんてそんなこと、わたしにはわからない」
苦しかったから。本当はイルマの思いを受け止め切れず、苦しいあまりに早く終わりにしてくれと願ったから。
「どうして父さま、どうしてなの。女神様と同じ色の髪を持っているからって、どうしてそれだけでわたしが斎宮に選ばれたの。望んでなんかいなかった、なりたくなんかなかった、なかったのにどうしてわたしが……!」
望んだのはただひとつ、父が母と自分の処へ帰って来ることだけだったのに。
「助けて、父さま。お願いだから今すぐここに、わたしのそばへ帰って来て」
音ひとつない世界の中で、幼い少女の悲痛な叫びが響き渡った。
しかしそれでも、湖には何の変化も起こらなかった。やはり駄目なのか。どんなに願っても、湖はサファイアを助けてはくれないのか。
サファイアは、湖に映る自分の姿を見下ろした。当然ではないか。イルマの血を浴びた姿で神を求めても、救いなど与えられるはずもないものを。絶望したサファイアはもう声を上げることもなく、そのまま静かに涙を流し続けた。ミフォン達が鳴き声を上げ始めても、サファイアは身動きひとつしなかった。
ふと、温かな息遣いを感じてサファイアが顔を上げると、青く澄み渡るような輝きを帯びた、大きな大きな眼がサファイアの顔を覗き込んでいた。いつの間にか音もなく、泣いているサファイアのすぐそばに、あの白竜が姿を現していた。
サファイアは、声を上げなかった。涙は止め処もなくこぼれ落ちていたけれど、激しく泣くこともなくただ、自分を見詰めているその大きな眼をずっと見返していた。
吾子よ。我が愛し子よ。
間違いない。自分を愛おしむその温かく優しい声を、サファイアは今はっきりと耳にした。
サファイアは竜の細長い顔にしがみ付き、その時初めて声を上げて泣いた。泣いて、泣いて泣いて、本当に小さな身体の何処にこれだけあったのかと思うほど、涙は流れた。そしてそれと共に、それまでサファイアの中に抱えていた多くの思いが、涙と共に溢れて来た。もはやどんな苦しみも哀しみも、すべてが洗い流され清められて、あれほど重かった心の重荷からようやく解放されていくのを、サファイアは感じていた。
「……白竜さま」
そして初めて、サファイアの顔に微笑が浮かんだ。
「ずっと、ずっとあなたに逢いたかったの。あなたに、有難うって言いたかったの」
今よりずっと幼かった日より、繰り返し母から聴かされてきた湖の物語。この湖で父アルレスと母アレキサンドラが出逢い、恋に落ちてサファイアが生まれた。だからここは、サファイアの故郷。竜神の導きで、サファイアという一人の少女はこの世に生まれた。
「父さまを、わたしの父さまにしてくれて有難う。母さまを、わたしの母さまにしてくれて有難う。そしてわたしを父さまと母さまの子供にしてくれて、本当に本当に有難うございます」
感謝します、白竜さま。父さまと母さま、カインやリーナやハーシェル兄さま、それにヘレナ達みんなも、愛する大切な人達にめぐり逢うことが出来たのは、すべてあなたのおかげ。
深い、何処までも深く澄み渡るような青い眼差しを、サファイアは見詰め返した。もう、何も言葉はいらなかった。言葉はなくても竜神のこの眼差しが、サファイアの想いを受け止めてくれていた。
しかしようやく重荷から解放されたとは言え、幼い少女の心と身体は想像以上に疲れ果てていた。安堵したのと同時にサファイアの身体は、その場で崩れ落ちるように倒れた。
15
それから、一体どれほどの時間が過ぎたのか。
サファイアは、誰かの腕の中にいた。けれど激しい高熱に浮かされて、瞼を開くことも出来なかった。
「眠っていて下さい。大丈夫、もう何も心配することはないのですから」
耳元でカインの囁く声が聴こえ、サファイアを抱きしめる腕に力が入った。するとここは、水晶宮なのだろうか。
そこへもう一人、二人のそばへ近付いて来る気配がした。
「やっと高官達が解放してくれたよ。サファイアを返してくれ、カイン」
その声は……! カインから娘を受け取って、同じように力強く抱きしめたその人の顔を、サファイアは何とか確かめようともがいた。
「お前はまだ休養が必要なんだよ。眠りなさい、サファイア」
待って。待って、父さま。
歌が聴こえてくる。
サファイアは抗う間もなく、深い眠りに落ちて行った。
16
ようやく意識を取り戻した時も、サファイアはやはりカインの腕の中にいた。
「お目覚めですか」
カインは、いつもの優しい笑顔を見せてくれた。でもサファイアが本当に求めていたのは、カインではない。
「姫!」
何とか身体を動かそうとするが、思うようには動かない。
「危ない、無理をしてはなりません」
寝台から落ちそうになるサファイアを、カインは慌てて抱えた。
「父さまは? 父さまは何処にいるの、カイン」
尚ももがくサファイアだったが、カインが答えようとしたちょうどその時、寝室の扉が開いた。
「謁見の儀は終わりましたか、皇帝陛下」
入って来たその人に、カインが声をかけた。サファイアも口を開こうとしたが、肝心の声が出ない。
「ああ。喜んでくれるのは有難いが、こうも毎日続くとたまらないな」
「無理もありません。皇帝陛下が姫を抱いて水晶宮へ御生還された時の御姿は、我々水晶宮の者の眼に今も焼き付いております」
「それはわかるが、これでは娘のそばにいたくてもいられないではないか」
初めて、アルレスがサファイアの方へまっすぐ視線を向けた。サファイアは、先程から身体の震えが止まらなかった。
駄目よ、どうして涙が出るの。止まってよ、お願いだから。だって、見えなくなるじゃない。父さまの顔が見えなくなるじゃない。
「姫!」
安定を崩していたサファイアの身体は、ついに寝台からずり落ちた。それでも衰弱している身体を必死に動かして、アルレスのそばへ行こうともがいた。
父との間のわずかな距離が、サファイアにはもどかしいくらいの長さに思えた。いつそんな傷を負ったのかサファイアの身体に激痛が走り、一刻も早く父のそばへ行きたいのに、思わぬ傷の痛みが邪魔して進むことが出来なかった。
しかしサファイアには果てしない時間に思えても、実際にはほんの一分もかからなかったに違いない。何故なら娘が寝台から落ちるのを見た瞬間、カインの手も払い除けて、アルレスがサファイアを抱きしめてしまったのだから。
父の腕の中に深く収められた時、サファイアの頭の中は真っ白になった。夢じゃない。これは何度も夢に見た、哀しい夢の続きじゃない。父さまがわたしを抱いている。生きて、ここにいて、わたしを力強く抱きしめている。
「父さま……父さま、父さま!」
父が寝台まで運んでくれたが、サファイアは父にしがみついたまま、決して離れようとはしなかった。アルレスもまた、娘を抱く腕に力を込めた。そんな父娘の姿を確かめて、カインは静かに部屋を出て行ったが、サファイアは繰り返し父の名を叫んだ後は、言葉もなくただむせび泣いていた。たとえ今死んでも、サファイアは本望だったかも知れない。もう二度と逢えないと思っていた父が、こうして生きて帰って来てくれたのだから。
「……何でもいい。何か言ってくれないか、サファイア。お前の声が聴きたい」
アルレスが涙声で訴える。
「これは夢ではないのか。お前が、わたしの腕の中にいる。もう二度と、この手に抱くことは出来ないと思っていたお前が……」
「……父さま」
サファイアの声も、やはり涙に濡れていた。
「父さま、父さま、夢じゃないのね。本当に、本当に帰って来てくれたのね」
「ああ、夢ではない。これは確かに、夢ではないんだ……」
それからしばらくは二人とも言葉を失い、ただ涙を流し続けていた。実際、言葉など必要なかった。言葉はなくともその温もりが、長い間引き離されていた父娘の絆を深めていた。
「……父さま、ごめんなさい」
けれどもその後で、サファイアがようやく口にすることが出来たのは謝罪の言葉だった。
「母さまを、死なせてしまってごめんなさい。護るって約束したのに、護れなくてごめんなさい。ごめんなさい……」
「謝らなくてもいい、お前が謝る必要はない」
アルレスは娘の髪を撫でながら、急いで言った。
「大丈夫、母さまは無事だからね。もう何も心配する必要はないのだよ」
その言葉に、サファイアは眼を瞠った。
「……ほん……と?」
サファイアの声は震えていた。
「……本当……本当なの、父さま……母さまは……母さまは生きているの……?」
「逢いに行くかい」
アルレスは優しく微笑むと、娘を抱き上げて寝室を出たが、サファイアは父の言葉がにわかには信じられず、その腕の中で茫然としていた。
母アレキサンドラはあの花に埋もれていた部屋から、もとの寝室へ移されていた。しかし前の部屋と殆ど変わらず、母の周りに沢山の花が飾られているのは、父の指示によるものなのだろう。あの時と同じように母は微笑みを浮かべ、花の中で横たわっていた。
「アレキサンドラ」
父は母の枕元に近付くと、そっと声をかけた。
「サファイアを連れて来たよ。眼を開けなさい、アレキサンドラ」
娘の前で、アルレスが妃の唇に口付けたその時である。
「母さま……!」
「サファイア」
アレキサンドラの瞼がゆっくりと開き、涙に濡れた娘の顔を、微笑みと共に見詰め返した。
「前にも、お話ししたでしょう。母さまは、父さまがそばにいて下されば大丈夫なの」
サファイアは再び、自分を罵るはめになった。一体どれだけ流せば、涙は止まってくれるのだろう。
「愛しているわ、サファイア。母さまは誰よりも、あなたと父さまを心から愛しているわ」
「サファイア!」
父が叫んだ。父と母の腕の中で、サファイアは再び気を失った。
17
「お前もまだ休養が必要だ。わたしがそばにいるから、ゆっくりお寝み」
「はい」
父と母のそんな声を耳にしながらサファイアが瞼を開けると、母の安らかな寝顔がすぐ眼の前にあった。
「眼が覚めたかい、サファイア」
耳元で父の囁く声が聴こえた。
「父さま」
「顔色もいいね」
母と同じように、サファイアの頬にも父が口付けてくれた。
あれからサファイアは、死んだように眠り続けていた。父に強要されなくても、自分から貪るように眠りを欲した。それほどに、サファイアが受けた心の傷は深かった。心も身体も衰弱しきって、一時は本当に生命も危なかったのだと、後日知った。
けれど、不安はなかった。眠っている間、サファイアは母の腕の中にいたし、父も二人のそばを片時も離れることなく、ずっと娘の髪を撫でてくれていた。そして何より、母がサファイアの頬に優しく口付ければ、父も負けじと娘の額にそれを与える。もう哀しいことも、苦しいこともない。サファイアは今、両親の愛情に包まれて揺るぎない幸福の中にいた。
「お前は、もう起きても大丈夫だろうね」
父が娘を起こして自分の腕に抱き上げたので、サファイアは少し慌てた。
「母さまが」
「心配しなくていいよ、母さまから離れたりはしないから」
そう言ってアルレスは、寝台の前の窓を開けて庭へ出た。そして池のそばの椅子に娘を抱いたまま腰を下ろすと、それまで母やサファイアの周りで丸くなっていたミフォン達が、飛び起きて周囲に集まって来た。振り返ると眠る母の姿がそこから見え、ほっとしたサファイアは父の胸に顔を埋めた。
「食事を運ばせよう。お前はずっと、何も食べていないのだから」
「ううん、まだこのままがいい」
父さまに、もっともっと抱きしめていて欲しいの。
「やっぱり、甘えっ子だと思う?」
心配そうにサファイアが訊ねる。
「まあね。でも、父さまもひとのことは言えない」
「どうして」
「父さまも子煩悩だから」
二人は声を合わせて笑った。
父は先程から、サファイアの髪を撫で続けていた。
「こんなにも短くなって……辛い思いをさせてしまったね」
「髪なんかすぐに伸びるわ、父さま。それにこれは、ヘレナ達の役に立ったのよ」
サファイアは、父の顔を見上げた。
「父さまは、青い髪の方がいいの?」
「どんな髪の色でも、わたしがお前を愛していることには変わりがないよ」
「わたしはずっと、父さまか母さまと同じ色の髪になりたいと思っていたの」
すると父はそれに答える代わり、サファイアの髪に口付けてくれた。
少し躊躇ってから、サファイアは囁くようにもう一度訊ねた。
「リーナと、それに最長老様は」
アルレスも、少しの間を挟んでから答えた。
「二人の遺体は、大神殿の者達に引き取られて行ったよ。わたしも見送ったが、リーナはまるで眠っているかのようで、幸福そうに微笑んでいた」
その言葉に少しは安堵したものの、サファイアの心は晴れなかった。
「ねえ父さま、どうしてなの。どうしてわたしは、こんな風に生まれてしまったの」
サファイアの身体がかすかに震えた。
「こんな色の髪に生まれたからって、どうしてわたしが斎宮にならなくちゃいけないの。父さまのような力なんて何もないのに、わたしは何も出来ないのに。母さまも、リーナも、最長老様も、わたしは誰のことも助けてあげられなかったのに……!」
「サファイア」
「ねえどうして、どうしてなの。どうしてわたし斎宮なんかに、皇女なんかに生まれてしまったの……!」
口にするべき言葉ではなかったかも知れない。皇女であることを否定することは、父アルレスの娘であることを否定することだ。
そのまま声を上げて泣き出した娘を、アルレスは力強く抱きしめた。そうして繰り返し、黙って娘の髪を撫で続けていた。
「父さまも、お前と同じだったよ」
やがて、ゆっくりと語り始めた。
「何故自分はこの世に生まれて来たのか、何故皇帝という特殊な立場を与えられたのか、ずっと悩み苦しんでいた。ましてや父や母と呼べる人もない、まがい物に過ぎない異質な人間に、生きる資格があるのかと」
「父さま」
「答えを捜して辿り着いたのが、あの湖だ。泣き叫ぶ父さまを前に、竜神はこう呼びかけた。『我が血族からはぐれし者よ、されど確かに我が血に連なる者よ』と」
ああ、そうだ。サファイアにも竜神は、『吾子』と優しく呼びかけていた。
「そして竜神はわたしに、この世で最も美しい、かけがえのないものを与えると約束してくれた。それが、母さまとお前だ」
アルレスは娘の涙を拭ってやりながら、静かな口調で語り続けた。
「わかるかい。どんなにお前がわたしにとって、何ものにも換えがたい特別な至宝であるのか。わたしだけではない、アレキサンドラやカイン、お前の周りにいるすべての人々にとっても」
アルレスの娘を見詰める瞳の色は、深く澄み切っている。
「この世に生まれて来てくれた。わたし達一人一人を、心から愛してくれた。お前にとってはそれだけのことが、どんなにわたし達の救いとなり慰めとなったか。お前は先程から力のないことを嘆いているが、お前には、わたし以上に強大な力が備わっているよ。心の底から誰かを愛し受け入れるという、この世で最も尊く優れた力が」
そしてアルレスは、心を込めた深い眼差しでこう続けた。
「わたしの娘に生まれて来てくれて、有難う」
サファイアの身体が震えた。
「ずっと、ずっとそれが言いたかった」
もう、一体どれくらい泣いたのだろう。いい加減、涙などなくなってしまってもいいはずなのに、後から後から涙が溢れてきて止まらない。
サファイアは何も出来ない。瞬間移動力も精神感応力もなければ、風を起こすことも雨を降らせることも出来ない。それなのにただ髪が青いというだけで、何故自分が崇められる存在となるのか、ずっと戸惑い苦しんできた。でもここに、サファイアがいるだけでいいとそう言ってくれる人がいる。愛してくれる人達がいる。
「だから、だから帰って来ることが出来たのね、父さま。白竜さまが父さまのことをずっと護っていてくれたから、だから……」
「お前が竜神に、感謝の気持ちを伝えてくれたからだよ。竜神は、お前の言葉を待っていたんだ。お前から、わたしとアレキサンドラの娘に生まれて来たことへの想いを」
「父さま……!」
「最長老も、そうだったんだよ」
娘の泣き声が小さくなってくると、アルレスは囁くように言った。
「お前から斎宮としての言葉を与えられることで、最長老は初めて救われたんだ」
「わたし、最長老様に噓を吐いたのよ。最長老様は助けてくれと言ったのに、わたしには何も出来なかったのよ」
「最長老の唯一の救いは死ぬことだ。最長老はお前自身から、そのきっかけを与えて欲しかっただけだよ」
「でも、死ぬなんて卑怯よ。わたしに何もかも押し付けて、最長老様はひどいわ……!」
サファイアの眼に、再び涙が浮かんだ。
「やり直せばいいのに。間違えたのならやり直せばいいのに。それなのにどうして死んでしまうの、どうして」
「人間というのはね、とても弱い生き物なのだよ。確かに最長老にも、やり直す機会はいくらでもあった。けれど最長老には、そのための勇気と覚悟が欠けていた」
「でも」
「でも、お前は大丈夫だね」
アルレスの声は優しかった。
「人生は、何度でもやり直せるものだということをお前は知っている。何があろうと、自分の人生は自分自身のために生きていくものだということを、お前は知っているんだ。これはとても大切なことだよ」
「父さま」
「わたしもあの時、お前をこの手に初めて抱いたあの時、生まれ変わった」
アルレスは娘の瞳を見詰め、サファイアも父の瞳から視線を離さずにいる。
「お前を得て初めてわたしは、自分の人生をやり直す勇気を持てた。そしてすべてを赦し、受け入れることでわたしは生まれ変わったのだ。他の誰でもない、わたしはわたしという一人の人間に生まれ変わることが出来たのだよ」
どうしてこんなにも、父は優しいのだろう。優しくて、ただ優しくて、サファイアを大きく深く包み込んでしまう。
「ハーシェル兄さまが」
「え?」
「ハーシェル兄さまが言ってたの。戦場って、容易く人殺しになれる処だって」
「王子は軍人だからね」
「みんな死ぬのに、どうして戦争なんかするの。そんなことをして何になるの」
「父さまにもわからない」
民や国家を護るための軍人が、何故ただの人殺しになってしまうのか。
「でもだからこそ、眼の前の小さな生命を自分のすべてをかけて護りたいと、父さまはいつも思っている」
その思いこそが、すべてを護ることに繋がっていく。
「お前にも、出来たじゃないか」
「わたしも?」
「巫女達が憧憬して止まない髪まで切り落として、巫女見習いの少女達と一緒に大神殿の聖堂を護り抜いたこと、わたしは父親として誇りに思っている」
「……父さま」
「皇女として斎宮として、すべてを護ることは確かに難しい。今の自分に、出来ることを精一杯すればいいのさ」
「……はい……はい、父さま……」
サファイアは父の胸に顔を埋め、そのまましばらく泣き続けた。
「サファイア」
再び娘の髪を撫でながら、アルレスは口を開いた。
「お前は、もうひとつの神話の存在を知っているか」
「もうひとつの……?」
「神話や伝説とは、単なる架空の物語ではない。遥かな過去にあった事実が脚色され、あるいは歪められて後世に伝えられたものなんだよ」
「それじゃ、女神様の神話も本当にあったことなの」
「そうだ。あの神話の中で人々が漂っていた海というのは、実は宇宙のことを指している」
サファイアは眼を瞠った。
「エルヴァレートやアドルーニアを初め、他の惑星に住む人々が、かつてはリステーニイからの移住者だったことは知っているね。リステーニイももともとは、ある惑星から逃げて来た人々が住み着いた星だったのだよ」
「どうして逃げたの。何故、自分の星を捨てるなんてしたの」
「住めなくなったからだよ。欲望や無知によって自分達が生まれた星を散々穢した上、最後は破壊してしまったんだ」
その言葉に、サファイアは半ば茫然として父の顔を見上げた。
「わずかに生き残った人々は、新たなる星を求めて宇宙を彷徨う旅に出た。それは果てしなく続く、長い長い旅だった。故郷の星を知らぬまま宇宙の中で生まれ、死んでいった者も沢山いたに違いない。そんな、気の遠くなるほど長い旅の果てに辿り着いた星は、まるで長い放浪に疲れ切っていた人々の心を癒すかの如く、偶然にも故郷の惑星に酷似していた」
「その人達、きっと夢を見ているような気持ちだったでしょう」
「そうだね。人々にはきっと、この星そのものが美しい女神に見えたことだろうね。そして二度と同じ過ちを繰り返すまいと、女神と称えた星に絶対の忠誠を誓い、いつしか本物の神話となって……」
アルレスは話を続けるうちに、その眼は遠いものになっていた。
「……どうしてお前の髪が女神と同じ青い色をしているのか、それはわたしにもわからない。だが恐らく、ひとつはわたし自身への戒めなのだと思う。神々の領域を冒して生まれたわたしへの、二度とそのような真似をするなとの、女神からの戒告だ」
「そんな……父さま」
「そしてもうひとつは、生まれながらに罪を負ったわたしのような者にも、女神は人の子の親となれることを諭されたのだ。どんな者にも心から誰かを愛し、愛される権利はあるのだと」
「父さま」
「サファイア、愛しているよ。お前はこの世の何よりも大切な、わたしの大切な娘だ。アレキサンドラが生命を賭けて産んでくれた、この世でただ一人の、わたしだけの……」
「父さま……!」
父と娘は、強く抱き合った。これ以上はないというくらいに強く、いつまでも抱き合っていた。
18
「……お前もいつか、恋をする日が来るのだろうね」
夢心地で父の胸に顔を埋めていたサファイアは、アルレスの呟くようなその言葉に、はっとして顔を上げた。
「青い髪を持つ皇女として生まれ、女神の生まれ変わりと崇められることは、確かに生まれながらに授けられたあなたの運命なのでしょう。でも、運命というのは変えられるものなのよ」
森の中で聴いた、母アレキサンドラの言葉がありありと思い出されてくる。
「母さまは父さまと出逢って、生まれながらに与えられた自分の運命を変えたわ。そしてそれと同じことが、娘のあなたにも起こらないはずはない」
恋というものがこんなにも人を変えるものだということを、サファイアはその時初めて知った。
「覚えていて、サファイア。あなたにも必ず、あなただけの本当の運命が訪れる時が来るの。母さまの前に父さまが現れたように、あなたの前にもいつか誰かが現れる。その時は母さまの言葉を思い出して、自分の心の声に従いなさい。竜神は娘のあなたにも、あなただけの運命を用意してくれているはずだから」
そこまで思い出して、サファイアは激しく首を振った。
「嫌。わたし、絶対恋なんかしない」
「どうして」
「だって怖いもの」
サファイアはあんなにも激しい様子の母を、それまで見たことがなかった。母アレキサンドラが娘の前で初めて見せた父への執着は、サファイアを十分以上に戸惑わせた。
思えば、イルマやシャルロットの人生を大きく狂わせてしまったのも、たったひとつの恋故だと言える。自分にもよもやそんなことが起きるとは、サファイアにはとても考えられなかった。
「そうか。だがいつかはきっと、お前の前にも誰かが現れるよ。母さまもそう言っていただろう」
「そんなこと、なくてもいい」
「父さまは嬉しいがね」
アルレスはくすくす笑った。やがてサファイアは眠気を覚えて、小さな欠伸をした。
「あんなに沢山眠ったのに」
「それだけ過労がひどいということだよ。無理もない、ことに水晶宮に移ってからのお前は、本当に心休む暇がなかったのだから。疲れが取れるまで、好きなだけ眠りなさい」
「父さまお願い、このままでいて。何処にも行かないで」
サファイアは慌てて父にしがみ付いた。
「心配しなくてもいい、わたしはずっとお前と母さまのそばにいるよ。でもこの次眼を覚ましたら、少しは栄養を摂るようにするんだね。こんなに痩せたままでは、母さまがまた心配してしまう」
「母さまは、本当にもう大丈夫なの?」
「お前が元気になった顔を見せてあげればね」
眼をこするサファイアを膝に抱き直しながら、アルレスは娘が寒くならないように、マントによくくるんでやった。
「カインは何処? それに、ハーシェル兄さまにもお礼が言いたい」
「カインは執務室にいるよ。王子には今、水晶宮の者達と一緒に大神殿の様子を見に行ってもらっている。水晶宮からも、支援を送ることが決まったからね」
「わたし、ヘレナ達の処にも行かなくちゃ。ずっと前から約束をしているのに、まだ一度も一緒に遊んでいないの」
「お前と母さまがもう少し良くなったら、三人で大神殿へ行こう。さあ、もう何も心配することはないからゆっくりお寝み」
サファイアはすぐに眠りについた。アルレスはしばらく娘の寝顔を見守っていたが、やがて不意に顔を上げた。
「いつまでそんな処にいる。いい加減に出て来なさい」
その言葉に、大木の陰から現れたのはハーシェルだった。
「どうして隠れているんだね。サファイアも逢いたがっていたのに」
「ようやく再会出来た父娘の邪魔をするほど、やぼではありません」
「意外なことを言うね。わたしの面前で、サファイアに求婚してみせた君が」
「何のことでしょうか」
「白を切るつもりか。サファイアに、アドルーニアへ来いと言っていたのは何処の誰だ。それにこのミフォン達は、アドルーニア王家を象徴する動物だ。そのアドルーニアの象徴をサファイアへ贈ったのは、己こそリステーニイ皇女の夫にと目論む、他の星の王族や政府の高官達を抑止するためではないのか」
アルレスは笑っているが、ハーシェルは無表情のままだ。
「サファイアはずっと、あなたを恋しがっていました」
「ああ、何しろまだ子供だからね。わたしもアレキサンドラも、この子のことになるとつい甘やかしてしまって」
「たとえもう一度申し込んだとしても、サファイアは僕を受け入れてはくれないでしょう」
「そうかも知れないね。自分の身分を受け入れることさえあんなに時間を要したこの子が、その上アドルーニアの王太子妃候補になっているなどと知ったら、ますます混乱するだけだろう。それに、カインが初恋だという自覚も全くないときているし」
安らかに眠っている娘の顔を、アルレスは深い愛情と共に見詰めた。
「満足ですか」
ハーシェルの方は、やはり顔色ひとつ変えずに質問を投げかけた。
「すべて、あなたが思い描いていた通りになった。皇妃様もサファイアも、夫であり父であるあなた一人のものだ。もう、あなたの邪魔をする者は一人もいない。満足なさいましたか」
「……どういう意味だ」
「最長老、いや、イルマという巫女があなたを憎悪していると知った時、あなたはむしろそれを利用することを考えた。あなたほどの強大な能力者ならば、イルマが作り出したシャルロットの亡霊など、一瞬で消してしまうことも容易なはずだ。なのに、あなたはあえてそうしなかった」
アルレスは口を結び、ハーシェルの顔を見詰めた。
「イルマに心を操られていたとは言え、最愛の皇妃と信頼厚き宰相に裏切られたことは、何より皇妃様があなたを心から愛している一方で、カインにも心惹かれていたことは、あなたの自尊心と皇帝としての誇りを大いに傷付けた。だが、そんなことをあなたが絶対に赦すはずがない。たとえわずかであろうと、皇妃様の心に残るカインの影をすべて消し去ってしまわなければ、あなたの心は休まらない」
ハーシェルは臆することもなく、淡々と言葉を重ねていく。
「皇妃様を永遠に、その身も心もすべて手に入れるにはどうすればいいか。簡単だ、あなた御自身が皇妃様の前で死んでみせればいい」
アルレスは動じない。ハーシェルと同じ無表情のまま、何処か泰然としている。
「あなたが皇妃様やサファイアの前から姿を消してしまえば、二人の心はあなたへの想いでいっぱいになる。皇妃様はカインを拒み、サファイアはあなたを恋しがって泣く。もう誰も、あなた以外に二人を自分のものにすることは出来ない。イルマがどんなにあなたを憎み、二人を奪うため画策しようと、あなたの籠から二人が抜け出すことは決してない」
「……愛してやまない二人を永遠にわたし一人のものにするためなら、こんな穢れた身体など幾度でも消し去ってみせるさ」
凄みのある声で、アルレスが再び口を開いた。
「自業自得もいい処だ、あの女。すべてはあの女の、心の弱さが招いたことだ」
「イルマの遺体は大神殿とは無関係の者として、実家の墓地へ埋葬されるそうです。とは言えその実家もイルマ自身によって絶えてしまっているし、縁戚に当たる者達も世間を憚って、墓碑に名を刻むことさえないでしょう」
大神殿の最長老ともなれば、本来その葬儀は盛大に行われるはずだが、イルマの場合は公に弔われることはおろか、大神殿内にある墓地に埋葬されることも叶わず、その遺体は人知れず実家の方へ送られる処置が取られる。その上、イルマの名は大神殿の記録からすべて抹消され、最長老の地位まで登り詰めたイルマ=アストリッドという名の巫女は、初めから存在しなかったことになる。
「それにしても犬猿の仲のはずの水晶宮が、よく大神殿へ支援をする気になりましたね」
「先帝の実母という立場を利用し、巫女達を牛耳っていた女のいなくなった大神殿に、もはや政治に口を出すような力はない。被災した神殿や森の復旧も、水晶宮の支援なくてはとても無理だ。巫女達の権力を抑止出来るこんな好機を、みすみす逃すような連中ではないさ」
憎悪の色を帯びたアルレスの眼は、異様な光を放っている。
「あの女、巫女でありながら己を律することもせず、女神を恨みわたしを憎んで、挙句の果てにあのような亡霊を作り出した。その上このわたしから、アレキサンドラとサファイアを奪おうとするとは……! 愚者の極みと言う他はない。しかしわたし自身、それを利用させてもらったのだからお互い様か」
アルレスは自嘲的な笑い声を出した。
「だがサファイアをこれほどまでに傷付けたことは、やはり赦せない。愛することしか知らなかったこの子が、初めて他人を憎んだ」
「それもイルマの自業自得でしょう。第一それも、あなたの予定に入っておいでだったのではないのですか」
「『聖なる森』の奥深く、穢れを知らずに育った子だ。だがわたしの唯一の後継者として、いつまでも清らかなままでいることは出来ない」
「その通りです。籠の中の鳥も、いつか飛び立つ日が来ます」
ハーシェルの言葉に、アルレスが顔を上げた。
「皇妃様は永遠に、あなたの囚われ人であり続けるでしょう。何より皇妃様御自身が、それを望んでおられるのだから。でも、サファイアは違う。いつまでもそうして、あなたの腕の中にいる訳ではない。そしてあなたも、永遠にサファイアを閉じ込めておくことは出来ない。いずれサファイアが本当の恋を知り、あなたの腕から飛び立つようになる日まで、僕は待つことにします」
「……幼いながらも危険な存在と予感し、嫉妬するわたしを君の父上は笑ったが、やはり君は、善良の塊のような父王とはだいぶ違うらしい」
「今更何を。反乱軍の後ろにあなたがおられることくらい、初めからわかっています」
互いの瞳に、憎悪の色が浮かぶ。
「サファイアから僕を引き離すため、反皇帝を掲げているような連中を陰から操り、アドルーニアの優秀な軍人を殺して軍を窮地に陥れ、幼い僕を司令官に祭り上げた。可愛い娘のためとはいえ、あまりにひどいやり方ではありませんか」
「だから代わりに反乱軍の幹部を殺させた。おかげで予定より早く、連中は休戦交渉の席に着いたではないか」
アルレスは意地の悪い笑みを浮かべた。
「だが忘れるな、君はまだ十四だ。護るべきものがあるのに、己のことさえ護れぬというのが君の年代だ。ましてや君は、病弱な父王の代わりにアドルーニアを護らねばならない義務がある。己の星も護れぬ人間に、わたしは大切な娘を渡すつもりはない」
「はい」
「リステーニイは宇宙に住むすべての人々にとって母なる星であり、女神リスタニアの象徴でもあるが故に、すべての惑星国家の頂点に立つ。だからこそその統治者は、唯一皇帝と呼ばれている。サファイアは皇帝であるわたしの唯一の後継者であり、更にはエルヴァレートの王位を約束され、大神殿の斎宮ともなっている。つまりこの子を手に入れる者は、宇宙のすべてを手に入れるということになる。この子を狙って、どんな輩が画策してくるかわからない。それを避けるためにわたし達は、サファイアを人知れぬ離宮で育ててきた。本気でサファイアを愛そうというのなら、君はそれらの敵とも闘わなくてはならない。君には、それだけの覚悟が本当にあるのか」
「わかっています」
ハーシェルは揺るがなかった。
「あの時、サファイアを助けようとしなかったのは、サファイアは僕を必要としていなかったからだ。僕にも自尊心はあります。サファイアが僕を本当に必要としてくれるようになるまで、僕はもっと成長しなくてはならない。でもいつか、僕がサファイアを本当に護れるようになったら、その時はサファイアをアドルーニアへ連れて行ってもいいですか」
「……男というものは複雑だな」
しばしの沈黙の後、アルレスは再び溜息を洩らした。
「本当は君を殺してでも止めたいが、あいにくわたし自身、エルヴァレートからアレキサンドラを奪った過去がある。同じことをしようとする君を、止める権利はないのかも知れない。だがこの子の父親として、サファイアを不幸にする者は誰であろうと赦さない。その時はたとえ、君が友人の息子でも容赦はしない」
「はい」
「それから、これは忠告だが」
アルレスは不意ににやりと笑った。
「サファイアは『美の女神』と讃えられるアレキサンドラが産んだ、唯一の娘だ。父親のわたしが言うのも何だが、恐らくサファイアは将来、母親を凌ぐほどの美女になることだろう。そうなれば君は、わたし以上に競争者の数に苦労するはずだ。そのことも覚悟しておくのだね」
「それは初めから覚悟しています、陛下」
そこで二人は、初めて声を合わせて笑った。
「しかし、僕にはまだわかりません。今回のあなたの所業、どうして竜神は御咎めもせずむしろ御助けになったのか」
「わたしよりも神と呼ばれるものこそ、過酷な宿命を背負った存在であるのかも知れない。生もなく死もなく、この世の初めから終わりまで見届けねばならぬ、全くの孤独の中にあるのだから」
悪い夢でも見ているのだろうか、眠っているサファイアがうなされて涙をひとつこぼした。
「大丈夫だよ、サファイア。わたしがそばにいる。お前の傷が癒えるまで、ずっとこうしてあげるからね」
アルレスは囁いて娘を優しく抱きしめると、やがて歌を口ずさみ始めた。
「それは何という歌なのですか、陛下」
「大神殿に伝わる古歌のひとつだが、かつては滅んだ星の、かなり古い時代から歌われていたものらしい。アメイジング=グレイスというんだよ」
「意味はわからないですが、とても綺麗な歌ですね」
「今ではもうその言語を知る者もいないが、神を尊び讃える歌として、巫女達の間で守られ歌い継がれてきたものだ。でもわたしには、サファイアとアレキサンドラのことを歌っているように思えてね。わたしにとっての神の恵みは、正しく二人のことだから」
アメイジング=グレイス 麗しきその調べよ
わたしのような愚者にも神は救いを与えたもう
ああ、この歌だわ。わたしを護り、わたしを愛しんでくれる歌。わたしの子守唄。
歌声と共に父アルレスの心の声が、サファイアの中へ静かに流れ込んでくる。
これからお前の行く先には、何が待っているのだろう。人生は、幸福と不幸を織り重ねていくもの。想像することも出来ないような幸福もあれば、それ以上の不幸も待っているかも知れない。わたしのように、生きるより死ぬ方がどんなに楽かと思うようになるかも知れない。
それでもきっと、お前は強く生きて行くことだろう。どんな人生でも、どんな運命でも、わたしとアレキサンドラの娘である誇りを胸に、精一杯生きて行ってくれるだろう。わたしと同じ、あの白竜の血が流れ続けている限り。
はい、父さま。
誓います。わたしの中に流れている白竜さまの血に、強く生きて行くことを誓います。父さまと母さまの、たった一人の娘として。
でも父さま、今だけは。今だけは、このままでいて。父さまの胸に眠るこの幸福を、壊さないでいて。そうしてずっと歌っていて下さい、わたしだけのために。
そうすればきっと、わたしは生きていける。これから先、何があってもこの歌を思い出しさえすれば、わたしはきっと強く生きていける。
だってこれは、わたしの歌だもの。父さまがわたしに歌ってくれる、わたしのための子守唄。わたしだけの、大いなる神の恵み。
これを読んで下さっている皆様にも同じような思い出があるのかも知れませんが、わたしも物心つく頃からお姫様が大好きでした。母が作ってくれたネグリジェを着てお姫様ごっこをしたり、子供の本のイラストに描かれたお姫様の、綿密に描かれたドレスを食い入るように見入っていた思い出があります。
そんな幼い頃の夢や憧れは、成長してからもいつもわたしの中にあって、鉛筆やサインペンで描いた漫画も小説も、殆どは姫と呼ばれる少女が主人公でした。
大人になった今でも、あの頃の幼いわたしがわたし自身の中にいて、これまで投稿した作品も、その幼いわたしのために書いていたような気がします。「お姫様だって苦労するのよ、美和ちゃん」って言いながら。
今回の作品は、ものを書くことを夢に見始めた頃に書いたものです。しかしながらあらすじにも書いたように、一度は投稿してみたもののあまりにつたなく、そのため書き直すことを決めた訳ですが、まさか完成までに二年以上もかかるとは思いませんでした。
書き直しを始めた頃と前後して、母の介護が始まったことや仕事のことなどもありますが、何よりわたし自身が書けなかったことが原因です。正直、こんなにも書くことが苦しかったのは初めてです。
それでも、苦しみながらも書くことを諦めなかったのは、サファイアを初めとする登場人物達に思い入れがあったことと、ブックマークを付けて待っていて下さった方々がいらしたことだと思います。本当に皆様には、心から感謝しています。
思いがけず長くかかった作品ではありますが、少しでも皆様の心に何か残すものがあることを、今はひたすら願っています。
ここまで読んで下さって、本当に有難うございました。




