第五章 『宇宙の真珠』の物語(中)
ごめんなさい、またも中編です。m(_ _)m でもこれでやっと、次回の投稿でこの物語も終わります。それにしてもひとつの作品に二年近くもかかってしまって、心から申し訳なく思っています。こんな愚かな作者のために辛抱強くブックマークを付けて待っていて下さる皆様には、本当に感謝の言葉が見つかりません。ああ、でもこんなに待たせた割にはつまんねー話、なんてことになったらどうしよう。(∩´﹏`∩) いや、そうならないように頑張らなきゃいけないんだ。ああ、ますますプレッシャー…(;一_一)(自分が悪いんでしょ!)
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「母……?」
「カイン、あなたが……あなたがシャルロットの子供……?」
これには、ハーシェルもサファイアも絶句する他なかった。
「ええ。ですが、あの亡霊はわたしの母ではない。断じて、母などではない。何故なら母には、他人に危害を加えなければならないほどの恨みは微塵もないからです」
「だからか……!」
ハーシェルが声を上げた。
「だから皇帝陛下は一度も、シャルロットを消そうとはしなかったのか。陛下ほどの能力者であれば、あのような亡霊を一瞬で叩き潰すことは容易なのに」
サファイアも思い出した。母アレキサンドラの、シャルロットへ対する同情の言葉を。
「すでにこの世の者ではないことも知らず、ああして森の中を彷徨っているの。とても可哀想な人なのよ」
「母ではないのです。あのような怨念の虜になっている者が、わたしの母であるはずがない」
苦しそうな表情を浮かべ、カインは繰り返した。
「我ながら迂闊だったな。あなたの瞳は皇族出身であることを十分物語っていたのに、少しも気付かないでいたなんて」
ハーシェルが自嘲的に言い、サファイアも茫然とした様子で訊ねた。
「それじゃカインの父さまは、わたしの父さまの前の……」
「そうです。先帝アルレス=ファヴィエ一世は、わたしの実の父ということになります。ですがわたしには、皇族を名乗る資格などありません」
「でも……」
「お聴き下さい、姫。わたしの母は、父と他の姫君との婚約を告げられて絶望し、自らの身体に火を放って死のうとしました。父は、それを助けようとして亡くなったのです。母も瀕死の重傷を負い、森の中で倒れていた処を助けたのが、キアスの義父母でした」
あまりにも衝撃的な告白に、サファイアは言葉も出ない。
「その時すでに、母のお腹にはわたしがいました。母は自分の生命と引き換えにして、わたしを産んだのです。けれど何度でも申し上げますが、母は、シャルロットは誰のことも恨んでなどいません。不幸な生涯ではあっても父とめぐり逢い愛し合ったことは、母にとって最上の、唯一得ることが出来た幸福です。それを逆恨みして怨念を抱くなど、母には決してあり得ないことなのです」
「そして両親を失ったあなたを、キアス家は後継ぎとして育てた。キアス家は代々皇帝の側近として仕える、リステーニイでも名門中の名門貴族だ。けれどあなたの義父母は、なかなか実子に恵まれなかったと聴いている」
「ええ。あの時も二人は子宝祈願のため、大神殿へ参拝に訪れていたそうです」
ハーシェルの言葉に、カインが頷きながら答えた。
「本来であれば皇帝への絶対の忠誠を誓う者として、キアス家はわたしを水晶宮へ引き渡すのが当然です。けれど何よりも子供を切望していた義父母は、それをしなかった。そのために水晶宮は、父の遺体から皇帝陛下を造り出すという、決して赦されぬ過ちを犯したのです」
カインは、茫然としたままのサファイアを見詰めた。
「わかりますか、姫。ですからわたしには、皇族を名乗る資格はないのです。わたしがいなければ義父母は皇帝を裏切ることもなく、水晶宮も過ちを犯さずにすんだでしょう。わたしが生まれてさえ来なければ……」
「生まれて来なければ良かったなんて、絶対にそんなことない」
サファイアが悲痛な声を上げた。
「わたしもカインも、それに父さまも、生まれてはいけない生命なんて、そんなものはひとつもないのよ。カインだって父さまだって、二人が生まれて来てくれたからわたしがここにいるの。二人がいるから、わたしはここにいられるの」
「……姫」
「お願いだからそんなこと、絶対に言わないで。父さまがいて母さまがいて、それにカインもいたから、わたしは生まれて来たのよ。カインがそんなひどいこと言ったら、わたしも生まれてはいけなかったことになる。お願いだからもう二度と、自分を責めたりなんかしないで……!」
カインの腕の中で、サファイアは再び激しく泣き出した。サファイアのみならずカインもまた、閉ざされた左の眼に涙を浮かべた。
「姫はやはり、斎宮なのですね。女神に選ばれたただ一人の、生まれながらの『女神の代理人』」
しばらくして、カインが再び口を開いた。
「だからこそ女神は、あなたにその御髪をお与えになったのでしょう。女神の御声を我々に伝えるため、わたしのような者にも救いをお与え下さるために」
「……父さまに初めて逢った時、カインはどう思ったの」
「水晶宮へ上がる時、義父はわたしに『キアス家の人間であることを誇りとし、陛下への忠誠を絶対のものとせよ』と言いました。あくまでもわたしは義父母の子であり、皇帝に忠誠を誓うキアス家の後継ぎであることを忘れるなという意味です。けれど正直に申し上げればわたしにも、実の父に逢ってみたいと思う気持ちがありました。ですから陛下に初めて御逢いした時は、心から嬉しく思いました。父の面影を留める、されどそれが故に永遠の孤独を背負うあの御方に、わたしは己の身命を捧げることを誓ったのです」
「有難う」
カインの肩に顔を埋めて、サファイアは言った。
「有難う、カイン。父さまに心から仕えてくれて、わたしと母さまを護ってくれて本当に有難う。だからわたし、あなたが好きなの。小さい時からずっとずっと、カインのことが大好きなの」
「わたしも、あなたのことを大切に思っています。何度も申し上げるようにあなたはわたしが永遠の忠誠を誓った御方と、わたしが唯一愛した御方との間に生まれた、たった一人の姫君なのですから」
「わたし、行くわ」
サファイアがもう一度言った。
「父さまに逢いたいから……そして出来れば、カインの母さまのことも助けてあげたいから……だから今度はきっと、竜も女神様もわたしのことを呼んでくれていると思うの」
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「どうしても、一人で行くの」
ハーシェルが繰り返した。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ、兄さま。火は消えているし、それにほら、兄さまからもらったこの子達も一緒だもの」
二人は庭の外れにある、『聖なる森』への入口にいた。その周りではミフォン達が、じゃれ合って遊んでいる。
「それより、大神殿からの連絡はまだなの?」
「残念ながらまだのようだね。最長老様が君と皇妃様を捜すため、森へ入って行った姿を複数の巫女が目撃しているけれど」
「もしかして最長老様も、シャルロットの説得に行ったのじゃないかしら。シャルロットを捜せば、最長老様も見付けることが出来るかも知れないわ」
サファイアが明るい声で言った。
「ねえ兄さま、これもきっとわたしに与えられた役目よ。わたしが、斎宮として果たさなくてはならない役目」
ハーシェルは先程から、サファイアをずっと見詰めたままだ。その視線も、いつもより更に強い光を放っているように感じられる。
「これは、わたしにしか出来ないことなの。わたしでなくちゃ駄目なの。カインだって、わたしを信じて待っているって言っていたでしょう」
「本当に、カインのことが好きなんだね」
「うん、だってカインは優しいの。すごくすごく優しいの。わたしが生まれた時からずっと、カインはわたしと母さまを護って来たの」
答えながらもサファイアは、送り出す時カインが語り聴かせてくれた話を思い起こしていた。
「歴代の斎宮も、女神に匹敵するような力を持っている訳ではなかったのですよ」
カインの話は、意外な言葉から始まった。
「いや、仮にも巫女ですから何がしかの力はあったでしょう。しかし伝説にあるほどの強大な力となると、甚だ疑問です。もし、そんな力のある巫女が数百年ごとでも実在していたのなら、今の時代にも多少の影響は残っているはずです」
「でも」
サファイアは動揺せざるを得ない。
「それならどうして、そんな巫女を立てたりしたの」
「時代が必要としたからです。斎宮が出現する時代は、決まって戦争や疫病など世が乱れた時に限られる。乱れた世を治めるため、そして水晶宮に対抗するため当時の巫女達が仕立てた、『女神の代理人』だったのです」
茫然とするサファイアを、カインは穏やかな眼で見詰めた。
「それほどに、人間というのは弱い生き物なのです。神であれ斎宮であれ、常に絶対的な存在を必要とするものなのです」
「どうしてそんなに神にすがるの……いないのかも知れないのに」
サファイアの声は震えていた。
「信じるものがなくては生きていけないからです。人間によっては、それが愛であったり夢であったりするでしょう。信仰もそのひとつです。神が実在しているのか、本当は誰にもわからない。けれど、信じることでバランスを取る者は限りなく多い」
カインの言葉。誰もが弱さや哀しみを抱えて、それでも精一杯生きている。サファイアは顔を上げて、ハーシェルに言った。
「わたし、大神殿の火事の時に巫女達にこう言ったの。護られるだけの存在なんて嘘、わたしは護られるためだけに生まれて来たのじゃないって。あの時のようにもう一度、誰かの役に立つことが出来るのなら、カインや父さまのように誰かを護ることが出来るのなら、わたしは全力でそうしたいの」
「強くなったね、サファイア。本当に強くなった」
ハーシェルが微笑んだ。
「ついこの間まで僕にしがみ付いて泣いていたのに、今の君は誇りと自信で輝いていて、まるで別人だ。皇妃様がおられない今、独りになった君がまた混乱するのじゃないかって、内心心配していたけれど」
「母さまのことを考えると、やっぱり辛いわ」
一転して、サファイアは沈んだ声で答えた。
「でも今は、わたしに出来ることを精一杯やるしかないの。それにわたしは、これから父さまに逢いに行くのよ。独りなんかじゃないわ」
「そうだね、君は独りなんかじゃない」
「兄さまだって、母さまがいないのだもの。わたしだけが寂しい訳ではないでしょう」
「そのことだけど、君に話しそびれていた。母が、亡くなったんだ」
「え……?」
サファイアは一瞬、声を失った。
「先日、反乱軍との秘密交渉のためルアレティスへ行く機会があってね。そこで偶然、母の二度目の夫だった男に逢ったんだ」
淡々とした声で、ハーシェルは言葉を続けた。
「母が亡くなって、もう三年は経つそうだ。流石に驚いたよ、そんなことも知らなかったほど遠い存在になっていたなんて」
「兄さま」
「それより驚いたのは、その男の言葉だ。『あなたの母上は最期まで、あなたとあなたの御父上を忘れることはありませんでした』」
ハーシェルの眼差しは、何処か遠くを見詰めていた。
「おかしいとは思わないか。夫も子供もすべてを捨てて、その男との恋を選んだのは母の方だ。新しい別の家庭を築いて、こちらのことは全く忘れた生活をしていたはずなんだ。僕の方は、捨てるくらいなら初めから産まなければ良かったのに、別れてしまうなら父と結婚などしなければ良かったのにと、散々罵っていたのに」
「やっぱり恨んだの、母さまのこと」
「うん、まあ当然だよね」
「可哀想だわ、兄さま。兄さまの母さまも」
「だけど、この頃は思うんだ。幸福だとか不幸だとか、そんな簡単な固定観念で片付けられるほど、人間は単純な生きものじゃない。人生っていうのは、幸福と不幸を織り重ねていくものじゃないかって」
何が幸福で、何が不幸なのか。
「人間なんて、本当にわからないよ。母のように、他人から見れば幸福な人生そのもののはずが、捨てて行った者への想いを抱えたまま、哀しみのうちに死んだなんてね。一個人の幸福の価値観なんて、誰にもわからないものさ」
幸福の裏には、常に不幸の影がある。完全な幸福もなければ、完全な不幸もない。
「良かった」
不意に、サファイアがそう言った。
「兄さまの母さまが、兄さまのことを忘れないでいてくれて。そして兄さまもそれを知ることが出来て、本当に良かったと思うの」
「有難う」
ハーシェルは一瞬、戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに笑顔になった。
「僕も信じるよ、サファイア。君は今度も、君が君であることを証明することが出来る。皇帝陛下もきっと、それを信じて君を待っておられるはずだ」
「有難う、兄さま」
サファイアも微笑みを返した。
「ねえ兄さま、いつかわたしをアドルーニアへ連れて行って。見てみたいの、わたしが生まれた処」
「もちろん、約束するよ」
ハーシェルが嬉しそうに答えた。
「そのためにもきっと無事で、必ずここへ帰っておいで」
「うん、きっと」
きっと必ず、父さまと一緒に。
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森は、以前と変わらなかった。木漏れ陽を受けて輝く鮮やかな緑、小鳥達の歌声を届けてくれる優しい風。本当にここが、あの激しい炎を一身に浴びた処なのかと思うほど、森は穏やかな姿をしていた。ハーシェルの言葉通り、サファイアと少女達は確かに森を護ることが出来たのだ。
けれど間もなく焼け焦げた匂いと共に、無残に焼かれた無数の大木の姿が現れ、サファイアの心は痛んだ。
「ごめんなさい」
黒焦げた樹皮を撫でながら、サファイアは涙をこぼした。
「あなた達を、護ってあげることが出来なくてごめんなさい。精一杯頑張ったけれど、それでも全部は助けてあげられなかった。本当にごめんなさい」
女神への清らかな信仰に護られ、数千年もの長きに渡り太古の姿を留めて来た『聖なる森』。それがたった一人の巫女の怨念から創り出された炎によって、瞬く間にその半分を失ってしまった。
大神殿も、聖堂は辛うじてサファイアと少女達の協力で火災を逃れたが、跡形もなく焼き尽くされた斎宮御殿を初め、被害を受けた神殿も少なくない。どうして、何故こんなことになってしまったのか。
「シャルロット」
サファイアは声を上げて呼びかけた。
「何処にいるの、シャルロット」
どうしてあなたは、そんな風になってしまったの。
「母ではないのです。あのような怨念の虜になっている者が、わたしの母であるはずがない」
カインの言葉が甦る。
サファイアは、森の奥へ向かった。その周りをミフォン達も、前へ後ろへと行き交いながらついて行く。灰燼と帰した森は音もなく、生きものの気配さえない。聴こえてくるのはサファイア自身の、焼けた小枝を踏みしめる音だけ。
不思議だ。母と二人、この森を散策した時からさほど時間は経っていないはずなのに、まるであれはとても遠い過去のように思えてくる。母は優しくこの上なく美しかったのに、今はもうこの世の人ではない。そしてサファイアは一人、つい先日まで輝くように美しかった、しかし今は無残な焼け跡と化した森を歩いている。
「どうしたの」
前を歩いていたミフォンが立ち止まり、燃え落ちた葉の下をしきりに嗅いでいる。不思議に思ってサファイアがそれを外してみると、そこから芽生えたばかりの、小さな小さな幼木の鮮やかな青葉が現れた。
サファイアの頬に、ひと筋の涙が流れた。嬉しかった。本当に、心から嬉しく思った。焼き尽くされたと思っていた、灰燼に帰してしまったはずの森の正にその下で、こうして新しい生命が脈々と受け継がれ芽生えている。森は死んでいない。死んでなんかいない。どんな危害が森を襲おうとも、永遠の生命を与えられた森は何度でもこうして甦る。
「だから大丈夫。きっと大丈夫」
涙を拭きながら、呟くようにサファイアは言った。
「湖も無事よ。父さまが待っているわ」
自らを励まし、再び歩き始めた。
森は変わらず静かだ。サファイアはミフォン達に護られながら、黙々と歩いて行った。怖くはなかった。怖れるものは何もない、サファイアは湖へ、父に逢いに行くのだから。竜と女神は確かに、サファイアを呼んでいるのだから。そして。
「やっぱりあなたは、ここにいたのね」
初めて逢った時と同じように薄暗い森の焼け跡の中で、シャルロットが一人泣いていた。
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「巫女姫様……」
振り返ったシャルロットが、サファイアの小さな身体にしがみ付いた。
「お助け下さい、巫女姫様……」
「シャルロット。しっかりして、シャルロット」
「わたしは、わたしはこうして次々と罪を重ねていく……他人を恨み、この世のすべてを恨んで繰り返し繰り返し……わたしは一体、何のために生まれて来たのか……」
「お願い。眼を覚まして、シャルロット」
サファイアは息苦しさを覚えた。シャルロットはまるで、サファイアの身体に食い込むようにしがみ付いている。
「あなたは、本当は誰のことも恨んでいないはずよ。あなたの恋人は、アルレス=ファヴィエ一世は、あなたを心から愛していたのでしょう」
「ええ、そうです……あの方はわたしだけを愛していた……心からわたしを、わたしだけを……アレキサンドラ、決してお前なんかじゃない!」
ひと声叫んで、シャルロットは突然サファイアに襲い掛かった。
「わたしのこの苦しみが、お前なんかにわかるものか。実の親に捨てられ、誰からも愛されたことのないわたしの永遠の哀しみが、お前のように大切に護られ誰からも愛されている者に、わかってたまるものか……!」
サファイアは地面に叩き付けられ、その細い首にシャルロットの指が食い込んだ。
「……やめて……シャル、ロット……」
ミフォン達が小さな牙をむき出して、次々とシャルロットに襲い掛かった。
「……わたし……母さま、じゃ……な……い」
「何もかもお前が、お前がわたしから何もかも……!」
すると今度はミフォンがけたたましい声を上げ、再びシャルロットを襲った。いつもの愛らしさは消え、毛を逆立てて牙も更に大きくむき出し、鋭い眼差しで何度もシャルロットに飛び掛かって行った。
「やめよ! やめぬか、汚らわしい獣どもめ!」
小さくとも絶え間なく続くミフォン達の攻撃に、シャルロットも流石に敵わず、その隙を衝いてサファイアも何とか離れることが出来た。
「眼を覚まして、シャルロット!」
激しく息を吐きながら、サファイアが叫んだ。
「本当はわかっているのでしょう、わたしは母さまじゃない。母さまも、あなたの敵じゃない。そして父さまも、あなたの恋人なんかじゃない。あなたが愛しているのは、あなたの恋人はアルレス=ファヴィエ一世、あなたを助けようとして身代わりに死んだ人よ!」
「身代わり……?」
「そうよ、あなたの代わりに死んだの。きっと、あの人はあなたを待っているわ。向こうの世界で、あなたが来るのをずっと待っているのよ。お願い、これ以上罪を犯すのはやめて。あなたの恋人の処へ早く行ってあげて」
「……アルレス、わたしの……」
「あなたは哀しみのあまり、恋人の死を受け入れられないだけなの。でもよく聴いて、あなたは独りなんかじゃないわ。あなたは、亡くなる前に子供を産んでいるの」
「子供を……?」
「その子は無事に育って、キアス家の後継ぎになったの。そうよ、カイン=イスハル=キアスはあなたの本当の子供なのよ!」
「……子供……」
シャルロットの身体がゆっくりと崩れ落ちた。
「カインが言っていたわ。あなたは、本当は誰のことも恨んでいない。他人を恨まなければならない理由なんて、あなたにはないの。だってあなたは、幸福だったのよ。恋人に愛されて、その人の子供を産んで、あなたは確かに幸福だったのよ……!」
「……カイン……わたしの……」
薄闇に沈んだ森の中を、引き裂くような泣き声が響き渡った。その場に座り込んだシャルロットは、両手に顔を埋めて激しく泣いた。
消えていく。シャルロットの身体を包んでいた得体の知れない何かが、シャルロットを捕え、足枷となっていた憎悪や悲哀の感情が、水のように流れ去り消えていくのを、サファイアは静かに見守った。
「……わたしは、母さまじゃない。母さまは、あなたの敵じゃない。父さまは、あなたの恋人じゃない」
呟くように、サファイアは先程の言葉を繰り返した。
「そしてシャルロット、あなたもあなたじゃないわ」
シャルロットを捕えていたすべてのものが消え去った時、サファイアの前には全く別の、銀色の髪をした娘が、やはり両手に顔を埋めて泣いていた。
「最長老様。あなたは、最長老様でしょう?」
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「……どうして、わたくしだと」
顔を上げた最長老、いや、イルマ=アストリッドは驚いて訊ねた。
「眼よ」
シャルロットを説得していくうちに、その眼が憎悪に満ちた炎のような色から、懐かしい見覚えのある灰色へと次第に変わって行ったのだと、サファイアは説明した。
「最長老様だったら、すぐにわかるもの」
館で暮らしていた頃、定期的に訪れてはいつも母やサファイアを慰め、相談相手にもなっていたその人ならば、サファイアにわからないはずがない。たとえサファイアも両親も知らない、今よりずっと若い頃の姿に戻っていても、その優しい灰色の瞳を見ればすぐにひと目でわかる。
「……まことでございますか、サファイア様」
イルマは更に質問を重ねた。
「キアス宰相が……キアス宰相閣下がまこと、このわたくしの孫であると……」
「そうよ。シャルロットは自分の生命と引き換えにして、カインを産んだの」
再び何かを引き裂くような哀しい声を上げて、イルマは激しく泣き出した。
「愚かな……わたくしは何という愚かなことを……愚かなことを……」
「話してくれるでしょう、最長老様。あなたのような人が、どうしてこんなことをしたのか」
イルマを泣かせたいだけ泣かせてから、サファイアはゆっくりと口を開いた。
「最長老様は、シャルロットのことが嫌いだったの?」
「違います、そうではありません!」
激しく首を振って、イルマが叫んだ。
「あの子は、シャルロットはわたくしと同じでした。サファイア様に以前お話し申し上げましたように、わたくしもあの子と同じ、望まぬ力故に愛も家族もすべてを失って、心ならずも巫女となった一人です。愛からも幸福からも見捨てられたようなあの子の姿は、かつてのわたくしそのものでした」
イルマが、最長老が老いた姿ではなく若い頃の姿でいるのは、斎宮であるサファイアへ過去の懺悔をするためだろうか。
「けれどまさか、まさかシャルロットがわたくしの息子と、わたくしが産んだアルレスと愛し合うようになるとは……親も後見も何もない、自分の力すら制御出来ない巫女が、あろうことか皇帝と恋に落ちるとは、神々は何という運命をお与えになったのでしょう!」
「どうして反対しなくてはいけないの。二人は、心から愛し合っていたのでしょう」
「反対して当然ではありませんか、サファイア様! あなたのお父様には、お母様のような素晴らしい御方がいらっしゃるのに、どうしてわたくしの息子にはあのような娘が……!」
自らの激しい言葉に驚き、イルマは口をつぐんだ。
「……ええ、そうです。わたくしはシャルロットのことを、本当は憎んでいたのです。かつてのわたくしの姿をありありと見せ付ける、あの子を見るのが嫌だったのです……! でも、だからこそ息子のアルレスは、あの子を愛するようになったのかも知れません。あの子の中に、母親の面影を求めて……」
「前に話してくれたわよね、最長老様。あなたには、他人の心を読む力があるって」
「それだけではございません。わたくしは、他人の心を操ることも出来るのです」
この言葉に、サファイアは息を呑んだ。
「シャルロットが皇妃になるなんて、そんなことはあってはならない……ですからわたくしは、あの子が自らの生命を絶つよう仕向けました。夢にも思わなかったのです、アルレスがシャルロットを追うなんて。あの子を助けるために、まさかアルレスが自ら炎の中へ飛び込むなんて……!」
イルマは顔を両手で覆った。
「わたくしはシャルロットが憎い。わたくしから息子を奪ったシャルロットが憎い……! そうです、憎悪と怨念に囚われていたのはシャルロットではなく、わたくし自身だったのです」
「だから、何もかもシャルロットのせいにしたの……? 信じられない、どうしてそんなことが出来たの」
サファイアの身体が震えた。
「他人の心の中がわかる力があるから、家族も何もかも失ってしまったのだって、前に話していたことがあったでしょう。それなのにどうして、同じ過ちを繰り返すようなことをしたの」
「ええ、そうですわ。わたくしが操ったのは、何もシャルロットだけではありません。父も母も、愛した御方でさえも、わたくしは己の意のままに操ったのです。そうして望んだものすべてを得ようとして、すべてを失ったのです」
「最長老様……」
「愚かな女とお思いになるでしょうね、サファイア様。まだ七歳の幼いあなたに、こんな話を聴かせるなんて。けれどどうか、わたくしの懺悔に耳を傾けて頂きたいのです。何故ならわたくしにはもう、あなたにしかお話しすることが出来ないからです。巫女姫様、千年振りに出現なさった斎宮であるあなただけしか……」
罪を犯した者の懺悔を受け入れることも、斎宮としての大切な役目のひとつだ。サファイアは深い吐息を吐いてから、ゆっくりと頷いてみせた。
「この姿をしていた遠い昔、わたくしは皇妃候補の一人であり、即位前の先々帝の恋人でもありました。少なくともわたくしは心から、陛下をお慕いしておりました。ですから未来の皇妃には当然、わたくし自身が選ばれるものと思い込んでおりましたが、あの方と水晶宮が選んだのは、当時の宰相の一人娘でございました……!」
イルマの瞳に、憎悪の色が燃え上がる。
「あろうことか、その頃から目覚め始めたわたくしの力に怖れをなした両親が、陛下に諫言したのでございます。ひどいとお思いになりませんか、サファイア様。わたくしのような娘は陛下の御妃にふさわしくはないと、実の両親がそのようなことを申し上げるなんて。娘の幸福を誰よりも願うはずの父と母が、娘のたったひとつの望みを踏みにじるなんて……!」
再び激しく泣き出したイルマを、サファイアは重苦しい思いで見詰めた。
「自ら望んでそうなった訳ではないのに、このような力など消し去ってしまいたかったのに、苦しみのあまり打ち明けたわたくしを父も母も助けようともせず、ただ忌み嫌い遠ざけることしかしなかった。しかもそのことを一番知られたくなかったあの方に、わたくしが初めて愛した陛下に、両親は話してしまったのです。わたくしは二人を憎みました。実の両親とは申せ、血の繋がりがあるとは申せ、だからこそより一層憎しみは増すというもの……」
「……殺した……の?」
サファイアの声が震えた。
「……最長老様、あなたが……あなたが自分の父さまと母さまを……殺したの……?」
「すべてが夢の中の出来事のようで、あの時のことは何も覚えてはおりません。ただ何もかも失ったわたくしには、もはや大神殿へ入る他はなかったということだけでございます」
重い。息をしていることさえ重くなる。
「それでも大神殿へ入って厳しい修練に励んでいる間は、辛いことも哀しいことも忘れることが出来ました。けれど数年後、御妃と共に即位されたばかりの陛下が御参拝にいらした御姿を見た時、封じ込めたはずのわたくしの力は再び目覚めたのでございます」
冷静に戻ったイルマの眼は、何処か遠い処を見据えている。
「なかなか御子に恵まれぬ御二人の間を裂き、陛下の御心にわたくしへの愛情を甦らせるのは容易なこと……だからわたくしは、先帝アルレス=ファヴィエ一世の母となれたのでございます」
イルマは苦しくはないのか。サファイアが息をするのも苦しいほど、心が重く感じているのに。それでもサファイアは、これだけは訊かずにいられなかった。
「……他にもいるの、最長老様。あなたが誰よりも憎んで、心を操ろうとした人が」
「おります。この手で殺した父と母よりも、わたくしから陛下を奪った皇太后様よりも、そしてシャルロットよりも憎い者が」
躊躇いもなく、イルマは言い放った。
「現皇帝アルレス=ファヴィエ二世陛下、サファイア様のお父様でございます」
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「父さま……を?」
サファイアの身体の震えが大きくなった。
「どうして……! どうして最長老様が父さまを憎むの。だって最長老様、言っていたじゃないの。暗黒の闇を彷徨うような人生を送る父さまを、女神様が御救い下さるよう祈っているって、そう言っていたじゃないの……!」
「救われず永遠に彷徨っていればいい、わたくしはそう祈っておりました!」
イルマが叫んだ。
「最長老様……!」
「御赦し下さい、サファイア様。けれどわたくしは、わたくしの息子から皇位を奪った皇帝陛下を憎まずにはいられないのです。わたくしの息子の遺体を穢して生まれた皇帝陛下を、この手で八つ裂きにしてやりたいほどなのです」
「父さまのせいじゃないわ」
「わかっております。どれほど皇帝陛下が苦しんでおられるのか、痛いほどよく知っていながらそれでも憎んでしまう自分が、どれほど愚かな人間かよくわかっているつもりです。けれど、どうしてなのでしょう。同じ姿、同じ運命を背負ったはずの皇帝陛下だけが救われて、わたくしの息子は何故あんな無残な最期を遂げなくてはならなかったのか。何故、どうして、神々はわたくしの息子を救っては下さらなかったのか……」
「どういうこと……?」
「皇帝陛下には、アレキサンドラ様とサファイア様がいらっしゃる。『美の女神』と呼ばれるエルヴァレートの女王と、女神の生まれ変わりである『青い髪の皇女』様、竜神は皇帝陛下にこんな素晴らしい御二人をお与えになったのに、どうしてわたくしの息子には、何の救いも与えては下さらなかったのでしょう!」
「違う。違うわ、そうじゃない」
サファイアは悲痛な声で叫ぶように言った。
「どうしてわからないの、最長老様。あなたのアルレスは、あなたに救って欲しかったのよ。あの時、アルレスがあなたに逢いに行ったのは、本当の母さまであるあなたなら救ってくれると信じていたからよ」
アルレスがシャルロットに惹かれたのも、母である自分の面影をシャルロットに見たからだと、イルマ自身そう言ったではないか。
「……どうして、あなたはアルレス=ファヴィエ二世の姫君なのです」
だがイルマは、異様な眼差しでサファイアを見上げるばかりだ。
「いいえ、間違っているのはサファイア様、あなたでございます。本来であればあなたもアレキサンドラ様も、わたくしの息子にこそ与えられるべき方々だったのです。そうですわ、『青い髪の皇女』の父と呼ぶべきは陛下ではなく、我が息子こそふさわしいのです!」
「やめて!」
サファイアが叫んだ。
「やめて、わたしは父さまの娘よ。わたしの父さまは、あなたが憎んでいるアルレス=ファヴィエ二世よ!」
苦しい。これ以上、懺悔に耳を貸してはいられない。イルマはあまりにも身勝手過ぎて、サファイアの気持ちなど考えていない。
「もうやめて、最長老様。わたしは、最長老様が思っているほど特別な人間じゃないわ。わたしは、わたしはただの」
「……あなたが欲しいのです」
だがイルマの眼はシャルロットと同様、狂気の中にあった。
「そうですわ。本当はわたくし自身が、あなたとあなたのお母様を望んでいたのです。御二人を手に入れることが出来るのなら、憎き皇帝陛下から御二人を奪うことが出来るのなら、永遠に暗黒の闇に囚われても構わない」
「あなたなのね。父さまも母さまも、カインも、リーナや叔父さままで、あなたがみんなの心を操ったのね」
いつの間にか、サファイアの眼から涙が溢れていた。
「母さまもカインも、父さまのことを裏切りたくて裏切ったのじゃなかった。リーナだって、本気で母さまを殺したのじゃなかった。みんなあなたのせいで、あなたがみんなの心を操ったせいで……」
「人間の心ほど弱く、頼りなきものはないもの。誰もが心の奥に、他人にふれられたくない秘密を持っているのです」
「最長老様、わたしは今まで、あなたのことを本当のおばあさまのように思っていたの。最長老様は優しくて思いやりがあって、本当に大好きな人達の一人だったの。それなのに」
まさかこんなかたちで、信頼していたイルマに裏切られていたなんて。
「だけど、わたしは誰のものでもないわ。誰のものにもならないわ。本当のわたしは、ただの普通の女の子だもの。斎宮である前に皇女である前に、わたしは大好きな父さまと母さまの娘なんだもの」
「サファイア様」
「そうよ、わたしは父さまが好き、母さまが好き。父さまと母さまが湖で出逢って愛し合ったから、わたしは生まれて来ることが出来たの。わたしは父さまと母さまの娘であること以外に、何も望んでなんかいないの。だってわたしは本当に普通の女の子で、父さまと母さまのことが大好きだから」
「拒むと仰るのですか、サファイア様。こんなにもあなたを望むわたくしを、あなたは拒まれるのですか」
「何度でも言うわ、わたしは誰のものにもならない」
叫ぶようにサファイアは言った。
「お願い最長老様、眼を覚まして。わたしは普通の女の子なの。普通の女の子でいたいの。あなたは勘違いしているのよ、わたしには何も出来ないわ」
「いいえ、あなたは斎宮です。この世でただ一人の、女神の生まれ変わりでいらっしゃるあなたが、ただの娘であるはずがございません」
「もうやめて、お願い。わたしは父さまと母さまの娘なの。斎宮であることよりも皇女であることよりも、わたしにとっては父さまと母さまの娘であることが大事なの。わたしは本当に、それ以外何も望んではいないのよ!」
「サファイア……!」
イルマの形相が変わり、サファイアが悲鳴を上げた。ミフォン達も再びけたたましく叫び、サファイアに襲い掛かるイルマに飛び掛かって行った。
「やめよ! やめぬか、獣ども!」
だが、次々とミフォンを地面に叩き付けたイルマは、サファイアの細い首をぎりぎりと締め付けた。
「渡すものか……まがい物に過ぎない皇帝に渡すくらいなら、いっそこの手で」
「……や……め……」
叩き付けられながらも果敢にイルマへの攻撃を続けるミフォン達だったが、そうすればするほど、イルマの長い指がサファイアの首に食い込んでいく。その時。
「サファイア様!」
森の中から、短剣を持ったリーナが突然現れた。
「おやめ下さい、最長老様! 何をなさっているのです!」
「……リ……」
サファイアは必死になって手を伸ばし、リーナはそのままイルマに体当たりした。
「今すぐサファイア様から離れて下さい! サファイア様、逃げて! 逃げて下さい!」
「リーナ、お退き!」
「正気を取り戻して下さい、最長老様!」
咳き込みながらもようやくサファイアが逃げ出すと、怒り狂ったイルマがリーナに襲い掛かり、激しく揉み合った。
「お退き、リーナ! お退き!」
「お願いです、最長老様! 御眼を御覚まし下さい!」
「リーナ!」
振り返ったサファイアが途端に悲鳴を上げた。
「リーナ! リーナ!」
サファイアが眼にしたものは、揉み合った末にイルマが奪った短剣が、リーナの胸に突き刺さった瞬間だった。




