残された原初と、青空のテーブル
西東京の地上。
地下アジトでの祝杯を終え、買い出しの続きと称して街へ繰り出そうとした俺たちは、突如として空を覆った「異常」を見上げて立ち止まった。
夕焼け空が、真っ二つに割れていた。
右半分は、一切の光を呑み込む漆黒の闇。
左半分は、重力を無視して天空で渦を巻く深淵の海。
「……おいおい。平和な休日は今日からスタートじゃなかったのかよ」
俺はポケットに手を突っ込んだまま、呆れたように息を吐いた。
『——随分と軽口を叩くようになったな、極東の狂人よ』
天空の闇の中から、静かで、底冷えするような声が響く。
『——炎を討ち、虚無すらも退けたと聞いたが。その左手を見る限り、随分と安っぽい命の削り方をしたものだな』
渦巻く海の底から、大気を震わせる重厚な声が重なった。
【闇】と【海】の原初の神。
かつて俺たちが刃を交え、因縁をこじらせたままになっていた、星の理の残党たちだ。
「よお、闇、海。久しいな」
俺は、神の威圧を前にしても顔色一つ変えず、不敵に口角を上げた。
「炎の原初神も、デカいツラしてたアペイロンも、俺たちがスッカラカンに破産させてやったぜ。……お前らも、俺の祝杯に混ざりに来たのか?」
『相変わらずの減らず口だ。……だが、貴様からはすでに星の魔力も、理を歪める権能も感じられぬ』
闇の原初が、冷たく宣告する。
俺のウロボロスの権能は消え、寿命を削るブラックチップもとうに灰となった。今の俺は、ただの未成年の人間だ。二柱の原初からすれば、指先一つで消し飛ばせる埃のような存在だろう。
だが。
「——統からは消えたかもしれないけど、アタシらの手札はまだ残ってんだよ」
ドンッ! と。
紅刃が、俺の前に出て大剣をアスファルトに突き立てた。刀身の【6の目】が、海と闇の威圧を相殺するように赤熱する。
「闇だろうが海だろうが関係ありません。すばる様を害すと言うなら、この極東一刀流が両断するのみ」
雅が、漆黒の刀を静かに正眼に構える。
「あら、ご挨拶ですね。今日からすばる君は私が独占すると決まったのですが?」
翠蓮が、黄金の闘気を陽炎のように立ち昇らせて微笑む。
「あんたたちの相手は、私が盾になるわ。……今の統には、指一本触れさせない」
セリアが、白銀の盾を構え、一切の揺らぎのない瞳で天空を睨みつけた。
俺が力を失っても。
極東の女たちは誰一人として絶望などせず、当たり前のように俺の特等席(隣)に立ち、原初の神々へ向けて嬉々として牙を剥いていた。
『……ふん。狂った人間どもめ』
海の原初が、呆れたように波音を立てる。
『命を失いかけた抜け殻と、それを庇う番犬どもを今ここで消し去るのは容易いが……それでは、我らの暇つぶし(ゲーム)にはならぬな』
闇の原初が、スッとその気配を遠ざけた。
「……逃げるのかよ、神様」
俺が挑発すると、空を覆っていた闇と海が、ゆっくりと引いていくのが見えた。
『勘違いするな、イカサマ師。貴様が再び理のテーブルに足を踏み入れ、その左手に新たなチップを握る時……その時こそが、我らとの真の決着だ』
『——せいぜい、短き人の生を謳歌するがいい。極東の咎人どもよ』
声が遠ざかる。
重圧が消え去り、西東京の空に、再び抜けるような青空と春の陽射しが戻ってきた。
「……行っちまったわね」
セリアが盾を下ろし、ホッと息をつく。
「逃がしてよかったんですか、すばる様?」
雅が刀を納めながら尋ねてくるが、俺は肩をすくめた。
「いいさ。今の俺じゃ、張れるチップが足りねえからな。あいつらとの決着は、また俺たちが新しい盤面を作った時の楽しみに取っておこうぜ」
神々は消えなかった。
だが、それは絶望じゃない。俺たちがこれから生きていく退屈な日常に、いつかまた最高のギャンブルが訪れるという、未来への約束だ。
俺は、青空を見上げて大きく伸びをした。
「さあて、それじゃあ買い出しの続きと行くか! 腹も減ったしな!」
「あ、ずるい! 統、アタシにクレープ奢りなさいよ!」
「紅刃ちゃん、抜け駆けはダメですよ? すばる君の右腕は私のものですから」
翠蓮が俺の腕に絡みつき、紅刃がギャーギャーと騒ぎ立てる。セリアと雅がそれを止めに入り、いつもの騒がしい日常が駅前に響き渡る。
俺は、ウロボロスの傷跡が消えた左手で、レヴィの遺した蒼いマントの切れ端をそっと撫でた。
(……見てるか、レヴィ。俺たちのゲームは、まだまだ終わりそうにねえよ)
春の風が、極東のバケモノたちの背中を心地よく押し出す。
神殺しの狂宴を生き抜いたイカサマ師の、騒がしくて、愛おしくて、どこまでも自由な日常は。
この青空の先へ、いつまでも続いていく。




