異変
「なぁ、高橋さん。『もう遅い』ってのはどういうことだ?」
一方、高橋を乗せて都心へと急ぐ護送車の中。
稲取は隣に座るかつての師に、静かに問いを投げかけた。
「俺たちの真の目的は、警察の手から逃げ回ることじゃない。たとえこの身が拘束されようとも、復讐の炎を絶やさず、大義を成し遂げることにある。目的が達成されるなら、極論、盟主など誰でもいい……『彼』はそう言っていたよ」
「彼……だと? そいつは誰なんだ……」
「もうすぐ分かる」
「もうすぐ?」
「あぁ。俺たちが警視庁に着いたとき……もしかしたらその時にはもう、すべてが終わっているかもしれないがな」
高橋の言葉には、確信めいた不気味な響きがあった。
稲取はハンドルを握る手に力を込める。
「……まぁ、もし俺が北条さんだったら、あんたの言う言葉の裏まで読み取れるんだろうがな。あいにく俺は俺のやり方でやらせてもらう。目の前に犯罪者がいるなら、この手で泥臭く逮捕してやるだけだ。難しい計算は北条さんたちに任せりゃいい」
「……変わらないな、お前も。だからお前はいつも日陰に隠れちまうんだ。能力だけなら、北条を凌ぐものを持っているというのにな……」
「余計なお世話だ。俺は出世や名声にゃ興味ねぇんだよ。そんなもんのために警察官になったわけじゃねぇ」
「全く、あの若造と言い、お前と言い……。なぜ俺たちの世代に、お前たちのような男がいなかったのか。それだけが悔やまれるよ。もし、あの時お前たちがいたら、俺は……」
高橋の声がわずかに湿り気を帯びた。
「……よしてくれ。警察官が『たられば』を言い出したらおしまいだぜ、高橋さん」
「……違いない」
追う者と追われる者。
しかしその車内には、かつて幾多の現場を共にしたバディだけが共有できる、奇妙な静謐さが流れていた。
そして、車が桜田門へと差し掛かった時――。
「……なんだ、これは……」
稲取の目に飛び込んできたのは、異様な威容を放つ警視庁庁舎だった。
「なんでシャッターが全部下りてるんだ? 駐車場にも入れやしねぇ……」
警視庁には、内部での重大インフラ事故やテロ、あるいは収容者の大規模暴動に備え、全出入口を物理的に封鎖する防壁システムが存在する。
外との繋がりを完全に断絶し、逃走も侵入も許さない鉄の檻。
その「絶対封鎖」が、今まさに発動していたのだ。
「中で、いったい何が起きてやがる……!」
稲取は焦燥に駆られ、留守を預けている捜査一課の刑事に電話をかける。
しかし、スピーカーから聞こえるのは無機質なアナウンスだけだった。
『お客様のおかけになった番号は、電波の届かない……』
「おいおい! 警視庁のど真ん中で電波が通らねぇなんて冗談じゃねぇぞ!」
舌打ちし、スマホをダッシュボードに叩きつける稲取。
その傍らで、高橋が静かに、そして慈しむような笑みを浮かべた。
「俺が囮になったのは、お前たち警視庁の主力を外へ釣り出すためだ。ついに、我が『神の国』の粛清は最終局面を迎えた……」
その呟きは、誰に向けられたものでもなかった。
しかし、閉ざされた巨塔を見つめる刑事たちの背筋に、抗いようのない絶望の震えを刻み込んだ。




