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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第六章 幕府のその先に
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武田信玄の反応

第六章開幕、嵐の前の静けさの章かもしれません。

「ちょっと何を言っているのかわからん。落ち着いてしゃべれ」


 足利義昭降伏の報が信玄の耳に届いたのは、降伏から二日後の二月二十三日だった。

 信玄がどこか他人事のように話を聞く中、報告して来た武者は二月だと言うのに全身汗だくになっていた。


「ですから、上様、いや、足利様が、織田家に降伏、したと……!」




 室町幕府滅亡。端的に言えばそうなる。



 いや、そうとしか言いようがなかった。


「間違いなく、足利様は織田家臣・羽柴秀吉に降伏。織田、いや羽柴の一配下として過ごすと宣言しております!」


 一応まだ征夷大将軍ではあるが、一両日中にその地位を返上、その代わりに織田信長に中納言以上の官職を与え、支配の正当性を求める気である。

 さらに羽柴秀吉にも相当な高位を与え、政権の中枢に叩き込もうとしている。


 それらの報告を受けてなお、信玄は泰然としていた。



「すると何か。幕府はもうないと言う事か」

「はい………………」


 そんな呆けた質問をしたきり返答を待つ態勢になり、報告者の頭を見つめる。

ものすごく優しい顔をして、じっと返答を待っている。

「あの、それで、この国はどうなるのでしょうか」

「どうもならん」

 その目の前の男の言葉を引き取るように武藤喜兵衛が言葉を紡ぐが、信玄の言葉はまったく淡々としていた。


「義昭殿はおそらく本気だろう。確かに敗戦の末かもしれんが、一武将として戦って敗れ潔く降伏しただけのはずだ。その決断を覆すのは無理だな」

「そんな!」

「義昭殿はいずれ幕府を手放しただろう。計七代、もう百年近く実権のない将軍をやって来たのだ。いい加減運命に気づかなければおかしい。

 と言う事だ、下がって疲れを癒せ」


 それで言いたい事だけ言わせた挙句運命とか言う二文字ですべてを片付けた信玄は、使者をそのまま下がらせると力を抜いて脇息にもたれかかった。

 喜兵衛が言葉を失っているのにも構う事なく、疲れたと言いたげに手を振るその姿に動揺の二文字はなく、ただただ動かざる事山の如しであった。


「茶か酒でもお持ちいたしましょうか」

「要らぬ要らぬ」


 わずかな沈黙ののち喜兵衛が場の空気を換えにかかるが、信玄はまったく動じない。

 たった二人で重大なはずの報告を受けたのに一向に動じず、まるで近所のニワトリが卵でも産んだかのように笑う信玄。



「なあ、何をそんなに動揺しておる?」

「いえ、何も……」

 あまりにも何事もなかったかのように笑う主に、喜兵衛は逃げるように手元の適当な兵法書に目をやるしかなくなった。


 武藤喜兵衛の先祖は鎌倉幕府三代目執権北条泰時の家臣であり、先祖代々信濃の人間だった。東北では南部氏、九州では島津氏が数少ない鎌倉時代からの名家として残っているように、都から遠く離れた地では古めかしい権威がまだまだ残っていた。

 小県郡は上野にも近くそれなりに交通の要所だったが、それでも鎌倉幕府時代は鎌倉から程ない距離だったし、室町幕府時代も上杉禅秀の乱や永享の乱などはあったものの信州には累は及ばず、武田晴信と言う南からの侵略者が来るまではどこか悠長な時を過ごしていた。そんな地に育った人間が急に見識を変えるのは難しい。確かに武田信玄と言う稀代の天才からその薫陶を受けていたとしても、軍事と政治は全然違う。




(これが、征夷大将軍の価値のすべてだった。と言う事か……)


 二三五年の歴史を終わらせたとなればそれなりになんかあってしかるべきかもしれないはずなのに、仮にも源氏の一族として、それ以上に昨年幕府を守るために挙兵したはずなのに。


「しかし、将軍様は心底から負けを認めているとお館様はお考えなのでしょう?」

「それが何だ」

「それがしが信長であればその名を利用すべくまだ征夷大将軍で居続けさせます。それこそ進んで傀儡となりそうなのですから」

「話を聞いておらんのか、足利様は信長には降伏していない。羽柴秀吉に降伏したのだ」


 秀吉への降伏。


 それもまた、喜兵衛の心を惑わせた。


「羽柴秀吉とは、農民上がりだと言う」

「そうだ。ついさっき言ったように足利様は織田ではなく羽柴に降伏したと言われている、元農民の羽柴秀吉にだ。もちろん秀吉とて織田信長の配下だが、秀吉はおそらく征夷大将軍など何とも思っておらん」

「確かに……」

「おそらくは信長がすべてであり、信長がどうするかがだけが重要なのだろう、基本的には。それに尾張は甲信のような田舎ではない。美濃、近江を通れば京の都のある山城だ。その分だけ将軍様と言う存在が近くなり、その分だけその存在に対する失望もより早く深く染み込んで行ったのだろう。濁流は幾度も流れるたびに澄む物だがここではまだ清流でも織田ではもう濁り切っていたのだろうな」



 羽柴秀吉には本人さえも気づかない内にお上への不信感がある、そう信玄は見ていた。


 摂津や大和のように一向宗が強くない尾張ではその分だけ俗権が強く、そのため内乱がありながらも織田家の求心力はそれなりにあった。その俗権の王者であるはずの足利将軍家のふがいなさが不信感に化ける土壌としては、なかなかに絶好の環境だった。

 秀吉そのものは将軍家にも天皇にも貴族にも丁重だったが、信玄に言わせれば演技か才能であって心底の真心ではない、となる。


「もし秀吉が信長並みの大器であり、その感情を飲み込めるのならば話は困難だ。信長を消したとしても秀吉が君臨した場合、織田家はびた一文弱体化しない危険性もある」

「そんな…………」

「まあ信長は四十、秀吉は確か三十七と聞いている。片方だけ健在なまま片方だけ逝くと言う事は考えにくかろう、我々が殺さなければな」

「殺さなければ、ですか……」

「何を言っている、今年中には殺さなければならんのだぞ」

「そうです、か……」


 そして全く唐突に、信玄は重大な予定をぶちまける。

 小姓頭と言う気安い立場相手のせいかやたらと口を滑らせまくる主に対しつい宿老の姿を求めるが、山県昌景も内藤昌豊も馬場信房も信州で内政に務めており躑躅ヶ崎館はおろか甲斐にもおらず、穴山信君は駿府城にいて遠江と三河の見張りをしており、高坂昌信しか甲州にはいない。

「ですが高坂様だけでは」

「馬場も山県も連れて行く。それから勝頼に内藤、あとそなたらの兄も共に行く。高坂は留守居だ」


 その上で、次々と戦力を述べまくる。


 正直、武田の国力は決して高い訳ではない。

 二度にわたる秋葉街道での戦いにより遠江の大半を治めたとは言えその領国の大半は戦で荒廃し、とても額面通りの石高は手に入らない。実際遠江の石高は三十万石とも四十万石とも言われているが、民が徳川になついている事もあって実際には半分以下と考えるのが常道だろう。

 となると最低十五万石として三千五百から四千ぐらいだし、もちろんその兵は遠江や駿河の防衛にしか使えない。もちろん駿河そのものからも兵を動かせないため、穴山信君は不参加が確実である。


 と言う訳で信玄本人に勝頼、山県昌景、内藤昌豊、馬場信房、真田兄弟らと言う事になるが、数にしてみるとおよそ二万少々でしかない。

 実際にはこれに岩村城の秋山信友の軍勢が加わるが、それでもせいぜい二万五千と行った所だろう。


「不安か?」

「いかにも」

「案ずるな。この戦で死ぬ気はないよ。まだまだ虎は皮を残す気もないのだからな」


 死ぬ気もなしに戦に出る人間などどこにいるのか。


「お館様」

「なんじゃ」

「お館様は昨年から少し変わったように思えます」



 喜兵衛のみならず、誰もが思っている事だった。


 これまでもさんざん冷酷な真似をして来た信玄だったが、あの時以来人が変わってしまったと思う事もある。

 普段は今まであまりなかったような陽気な部分を見せたと思いきや、ここぞと思った時は人を石垣でも堀でもなく捨て駒の様に苛烈に使い、平然と戦果を挙げる。まだ徳川家康限定かもしれないと思う程度にはその機会も少ないが、それがあらゆる方向に発揮されたとしたらそれこそ第六天魔王こと織田信長のようになるかもしれない。

 

「それであの、織田の子は……」

「信勝と遊ばせておる。なかなかに英邁な子でな、さすがは信長の血筋よ。そなたの子とともに信勝に新しい風を吹き込んでもらいたい物だな」

「そうですか……」


 話を変えようとしてもうまく行かない。織田御坊丸とか言う岩村城に居た信長の息子が躑躅ヶ崎館に連れ込まれたのはついこの前であり、その第三の幼児は信勝と共に仲良くやっている事は喜兵衛も知っている。

「何、戦場で向かってきた敵を斬るのは当然の事、それで恨み恨まれるのは武士の業、覚悟などとっくにしておると直に言ってやったらおとなしくなったわ」

 その幼けながらこちらの事を強くにらみ付けて来た幼児を言い負かした主君と、その期待を一身に受ける嫡孫。




 喜兵衛はほどなくして出陣と決められた日———————五月二十二日の空を思いながら、ちっともさわやかな気分になれないまま甲州の空を仰いだ。

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