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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第五章 農民と武士

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足利義昭がした決断

 一騎の騎馬が、ゆっくりと東に向かって来る。




 装束からしても、間違いない。




「…………あれが」


「征夷」


「大将軍様………………」




 紛れもなき足利義昭の登場に、羽柴陣はざわめいた。




「まさか」

「もう決めたのじゃろう。最後まで付き従った兵士たちのためにな。

 必死に、その地位にしがみついておった……悲しいほどまっすぐに。だが途中から、しがみつかれておったのかもしれぬ」


 秀吉は京の奉行として義昭の事を見知っていた。


 征夷大将軍になる前はただの坊主だった彼は、百年近く続いていた傀儡政権の長らしく存在感を消しながら座っていた。自分がどの程度の存在か理解した上で必死に振る舞い、必死に征夷大将軍たろうとしていた。

 ただの農民上がりの男に向かって必要以上に威張り、武士の長だと言う事を強調した。本人が認めていないはずの義栄を含む十四代将軍の功績を語り、その武勇のほどを聞かせていた。


 実力のない男が、必死にしがみつけた物。それは、先祖の功績しかなかった。


「それでも必死に頑張っておった。征夷大将軍の名を汚さんとな」

「そういう物でしたか…………」

「ろうそくの炎は燃え尽きる前こそ燃え上がると言うがな、上様は燃え上がらずに自ら燃え尽きる事を選びそうじゃった。自分なりに必死に燃やそうとしていたように見えるかもしれんがな、実際は介錯して欲しかったのかもしれん」


 義昭はその武器で最初必死に信長を取り込み、叶わないと見るや各地の大名をかき集めて信長包囲網を作り上げた。征夷大将軍と言う名の最高権力者として、反逆者を討つ。

 先祖を含むかつての最高権力者が何度も何度もやって来た事を、しようとしただけ。

 そんな反乱が起きるのは、たいてい政権の初期か晩期だと決まっている。鎌倉幕府は承久の乱を乗り越えて百年続き、元弘の乱を乗り越えきれないまま二年で潰れた。



「わしが迎えよう。最大限の礼節を込めてな。田舎者の農民上がりが、な……」



 秀吉はすぐさま、仙石秀久、前野長泰と言った側近を呼び込み、さらに座を作り天幕も張った。



 せわしくも見事な挙動に、どこからかため息が漏れた。



 そのため息の主が義昭だと言う事に気づいた秀吉は、ゆっくりと下馬した。




※※※※※※※※※




「余が征夷大将軍、足利義昭である」

「羽柴筑前守秀吉でございます」


 義昭はあくまでも馬上の人として、地下人たる羽柴秀吉を見下ろす。

 痛々しく悲壮感に満ちたその姿に、秀吉は涙をこらえながら膝をついた。


「そのようにかしこまるな、余が何をしに来たか知らぬ訳でもあるまい」

「いえその、なぜまたおひとりで」

「何、もっとも強き侍はひとりですべてをなぎ倒す物だからな」

 義昭は寂しく笑いながら馬を下り、秀吉の右手を取った。もったいなさそうにしながら秀吉が腰を上げて行くと、義昭も秀吉と共に直立した。


 それでも義昭はあらゆる意味で小男の秀吉を見下ろす関係である事に、変わりはない。


「ささ、どうぞこちらへ」


 急造とは思えないほどの本陣。天幕や床几、松明の台など必要な物は並べられ、野陣だと言うのに布も敷かれている。

「知ってはいたが相変わらず見事な手腕だな」

「過分な褒め言葉、感服しております」

 秀吉はあくまでも最高級の賓客を迎えるような姿勢を崩すことなく、進んで上座へと導こうとしている。

 そこには虚礼の二文字はなく、あくまでも自分なりに最高級の客を迎えようとしている。


「さあこんな場ゆえ大したもてなしもできませぬが。精いっぱいの酒と飯でもお召し上がりくださいませ」


 秀吉の言葉と共にさっと徳利と膳が運ばれ、床几に丁寧に乗せられて行く。

 素早いのに礼節を崩す事もなく、決して失礼のない所作。

「見た事があるはずなのに、どうして覚えていないのだろうな」

 織田家と触れて来て、これほどまでの物は幾度も見て来た、そのはずなのに。


 義昭は言われるままに上座に座り、野陣なりのもてなしを受け取ってしまった。


「うむ、美味いぞ」


 しかも、普通に美味なのだ。


「いやいや、実にありがたき事で……」



 食材を一口一口噛みしめながら嚥下するその姿はただのくたびれた中年男性であり、そこに征夷大将軍の影はない。


「まったく、どうしてこんなに……」


 空腹は最高の調味料とか言うには、あまりにも仕掛け人の思惑通りにとろけてしまっていた。実際、美味いのだ。


「それで、だ。羽柴秀吉」

「はいはいはい、それでご用件とは、」

「余の言葉も聞かずずいぶんと勝手な真似をした物だな」


 それではいかんとあわてて箸を置き威張ってみるが、秀吉の顔はまったく変わらない。

 なめている訳でもなく、あくまでも誠意に満ちた顔をしている。


「いやー、ただの百姓、それも水呑百姓だったそれがしからしてみれば、征夷大将軍様などまさしく天上人でございますから!」

「その水呑百姓だった人間が作ったのがこれだろう。まったく、その方らには頭が上がらんな」




 ————————————————————そして、自分の口からあまりにもあっけなく出てしまった。




 あまりにもあっけない、敗北宣言が。




 見れば、秀吉はここぞとばかりに大きく目を見開いている。


 あからさますぎるはずなのに、不快感がない。


 これはもう演技ではなく、完全な才能なのだろう。




「今、なんと……」

「わからぬのか、そなたら農民が作物を作らねば我々は飢えて死ぬ。なればこそ、その方は武士である前に農民だろう」

「へ、へえ…………」


 その上で、一気に行くしかなかった。

 征夷大将軍としての、最後の一手を。



「余は降伏する。ただし、織田ではなく、あくまで羽柴筑前殿にだ」




 そう、秀吉への、降伏宣言。




「いやあ、それは、この」

「そうだ、農民の代表である、羽柴筑前殿にだ」

「えっと、その、聞き間違いですかな……」

「何にも間違えていない。余は、羽柴殿にその身を預けると言っておるのだ」


 相手の不意を突き、その勢いのままに頭を下げる。

 この一撃に秀吉もさすがにひるみ、手足をばたつかせながら土下座しようとする。


「いやいやいやいや!わ、私は!」

「余、いやそれがしにも征夷大将軍としての意地と言う物がある。貴殿でなければもう一度突っ込んで死んでいたわ」

「さ、されど拙者はしょせんお館様、織田家の家臣!あくまでもその身柄はお館様の」

「なれば織田の当主に会い、また同じ事を言うまで。先の将軍としてそれぐらい言う権利はあるだろう。まさかそれも寄越さないと」

「いやいや、そのような事は!」


「なればそうして下され!」



 そしてついに、敬語を使ってやった。


 降伏する人間とは思えない居丈高極まる心持ちだが、それで勝てるという算段はあった。


「わかり申した、足利様の身柄、この羽柴筑前がお預かり申す!」

「感謝いたします……!」




 秀吉は立ち上がり、ひざまずいた義昭から一枚の布を受け取った。




 足利家の家紋が記された、一枚の布。


 それにくるまれた、「羽柴筑前」に対しての降伏の書。


「このような物しか与えられないですが、それでどうかご容赦願いたい。今後は織田家の、いや出来うるならば羽柴家の一将としてこの身を使って下さい」

「わかり申した……」


 秀吉は勝ち戦だったのに疲れた顔をして、義昭を再び上座に座らせた。

 降伏した総大将に対しての、礼儀を守るために。

 たった今、臣下の令を取ったも同然の存在に向かって。



(これだな……これが、あるべき次世代の覇者の姿かもしれぬ……)


 羽柴秀吉はあくまでも、織田信長の家臣だ。だが良くも悪くも優等生な明智光秀や生一本な柴田勝家とは違う、羽柴秀吉とその主人織田信長。


 そういう存在こそ、次代を託せる。

 時代なんか握ってなかったのに、生意気にそんな事を思ってみる。


「なれば、どうかお頼み申す」

「食糧、ですか」

「ああ、出来うるならば一刻も早く」

 その上で将として本当の本当に必要な事を思い、上司に対し頭を下げる。


 足利義昭の顔は、実に晴れやかだった。







 伊勢貞興以下、生き残った兵たちが次々と千成瓢箪の旗の下で食にありつき、眠そうな目をしている。

 そこに争いの二文字はない。


「竹中殿」

「これは足利様」

「足利殿で良いのです。しかしまったく筑前殿は見事なほどの策を思いつかれる。これが農民らしい戦いと言う事なのでしょうか」

「突拍子もない事を思いついては投げ付ける主君です。細かい事を詰めるのは我々の仕事ですよ、アハハハハハ……」

 竹中半兵衛が苦笑いする中、義昭も笑っていた。

 整った顔のまま苦労を嘆く半兵衛の顔をあえて直視せず、声だけを合わせた。

「多くの兵たちはいわゆる駆り武者です。どうか元の立場に返してもらいたいです」

「それもまた責任と言う物でしょう、主人としての。我が主君はその点も時に抜けておりますから何とかせなば、まあ大半は繊細すぎるほどに繊細なのですがね」


 自分が集めるだけ集めてきた兵士を生かせもしないまま、秀吉と言う名の新たな主人に尻を拭いてもらっている。


 それが自分の程度だ。



 そんな人間から征夷大将軍とか言う肩書を弾き飛ばしてくれた秀吉に対し、義昭は現在進行形で深く感謝していた。


「しかしずいぶんと楽しそうですが」

「ええ、正直に申し上げれば楽しゅうございます。ようやく、楽しさと言うのを感じた気がするのです……」


 足利義昭は、泣いていた。


 悲しさと違う意味で、泣いていた。

 涙は地面に落ち、あっけなく染み込んで消えた。







 こうしてこの日、室町幕府は滅亡した。




 あまりにもあっけなく、しかも極力平和かつ特異な方法で、足利尊氏が築き上げてから二三五年で滅んだのである。

室町幕府滅亡!


……と言う訳で二日間の休みをいただきます。12月20日からの第六章をお楽しみに。


その間はこちらのホラー作品をどうぞ。→https://ncode.syosetu.com/n1586hy/

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