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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第五章 農民と武士
51/159

足利義昭の対象

 ————————————————————結局、駄目だった。




 他にどう言いようもない。




 せっかく気合を入れて最終決戦に臨んだはずだったのに、結果は勝ちにも負けにもならない。


 そうとしか言いようがないまま、義昭は槙島城に戻された。


「なあ、今どれほどの兵がいる」

「六千ほどかと」

「最後の、足利軍か……」



 皆空きっ腹を抱え、逃げ込んで来たと言うか逃げ込まされて来た。



 甲冑はともかく武器はなく、それこそ素手で殴りかかるしかできない人間たち。


「伊勢よ…………」


 ついこの前弱腰弱腰と非難して地下牢に押し込めた家臣を釈放し、話し相手に担ぎ出している。

 暴虐と言えば暴虐だが、征夷大将軍らしいわがままとも言えた。


「それがしとてここまでの事態は予測しておりませんでした」


 伊勢貞興が叩頭しながらそうなぐさめる中、義昭はやけに静かになった城内を眺めていた。


「しかし死者はやはり千人もいない。呆れるほどに少ない」

「では皆木瓜紋の下へ……」

「そうでもないだろう、な」


 討ち死に以上に投降が多くなるのは貞興もわかっていた。秀吉を狙うとか言う時点で勝ったとしても先などない戦いなのだから、生き残るために裏切りに走っても何の不思議もない。

 だが、それ以上に逃げ帰って来たと言うか逃げ帰らされて来た兵が多すぎた。

 ほとんどの兵が装備————————少なくとも武器———————をはぎ取られ、文字通り丸腰の姿で。


「口はちっとも減らない。ただでさえ米など今晩の分さえないのに」

「それなのに舌はもっと減らない……」

 皮肉でも何でもなくただの真理だった。



 実はこの戦いで織田軍に下ったのは二千前後しかおらず、戦死者・逃亡兵込みでも三千五百程度しか兵は減っていない。元々一万だった所から前回は千程度、今回は三千五百しか減っていないのだから、まだ五千以上いる計算になる。

 数だけならまだ戦えそうに見えるが、装備もなければ食料もない。財宝の内戦に仕えない金銀や骨董は残っているが、それが食えるわけもないし刀剣に変わる訳でもない。

 まともに戦える兵など、それこそ千人もいない。


「これ以上の戦はどう考えても無駄です」

「わかっておる。別に他人のせいにする気もないが、あの武田殿の張り切りようには正直余も参っておった。そんな武田殿が捕縛されてしまったのだからな、これ以上戦いを進める理由もない」


 一万人の兵を一人で引きずり回す程度には、武田信虎は武将だった。

 そしてそれがいなくなった途端心を折ってしまう程度には足利義昭は坊主であり、伊勢貞興は知的な執事だった。


 結局、どうあがいても勝つ事などできない。


 わかっていた事だ。


「貞興。返す返すも詫びるより他ない。こうなってしまってからでは遅いのだが、やはりお前が正しかった」

「そんな。それがしとて出兵をするなとは申しておりませぬ、いろいろ策が完璧なのかが不安でありまして」

「良い。もう間違いないのだろう、徳川信康は死んでなどおらん」



 徳川信康の死。



 その一報が義昭たちに力を与え、やる気を目覚めさせてしまった。



 その事を知ったのは、紛れもなく、酒井忠次と織田信長の書状。


 しかも五通。




 その確信をもって動いた結果が、これだった。


「あるいは、本当に死んでいるのかもしれませぬ」

「何を言う」

「羽柴秀吉と言うのは、そういう才覚の持ち主なのでしょう」

 相手がただ者ではない、そう思いたいのは敗軍の将の常だった。貞興の言葉が耳に心地よく響き、荒み切った心にひと時の癒しをもたらす。

 もっとも、それで米が出て来る訳でもないのだが。


「なあ貞興」

「はい」

「余は一体、誰に負けたと思う?」



 心が落ち着くと共に、改めて敗因を振り返らせられる。




 百六年前。




 八代将軍足利義政の跡目を巡る応仁の乱により京は荒れ果て、誰も内輪もめを繰り返す幕府を信じなくなった。


 気が付けば征夷大将軍も天皇もすっかりただの看板となり、旧来の権威と言う権威はすべて衰え、残ったのは戦国大名と言う名の実力者ばかりだった。かろうじて薩摩の島津や東北の南部など守護大名上がりの存在もいたが、それらとてその中に実力者がいたからに過ぎない。

 そして俗権に比べれば政権交代の波の遅かった宗教界さえも、織田信長と言う存在によって時代を強引に変えられている。



 では、織田信長なのか。


「信長に負けたとは思っておらん。

 あれはこんな余でもまともに使いこなす男だった。余、いや幕府に存在価値があると認めればいくらでも許す男だ。それに見切られるのを余は敗北とは呼ばん」

「そのような」

「それならただ単なる処刑人だ。信長はそんな低俗な物ではない。もっと偉大な何かだ」

「では信長ならば同じように抗いましたか」

「抗った。そして死ぬか、その場で頭を下げるかしていた」



 織田信長は、武士だった。


 少なくとも義昭にとっては、武士だった。



「武士が武士に負けるのでは、世の中など変わらん。織田信長がいかに才気にあふれていようとも、尊氏公と同じように末裔が過ちを犯さぬ話はない」

「ですが信長は変えると思いますが」

「変えるだろうな。武士なりに。だが本人がどうあがいても、信長は武士の子でしかない。その始まりからはどうあがいても抜けようがない。

 だが、武士が武士に負けるのは仕方がない。そう言える」


 信長自身、それを認めているかどうかはわからない。

 人間は生まれた瞬間からその業を背負っている、そんな事を坊主時代に学んだわけでもないが、信長は産声を上げたころから戦国大名の跡取り息子だった。

 尾張守護斯波氏の守護代の織田家の跡取りであり、現在の当主。


 それこそ、鎌倉幕府における北条と足利とそこまでの大差があった話でもない。

 北条と言う武士が足利と言う武士たちに負けたのが鎌倉幕府の終焉と室町幕府の始まりであり、その点ではある意味円滑な政権交代だった。


「信虎はそうしたかったのだろう。何より美しいからな」

「美しい……」

「…………わかっていたのだろう。自分が何に負けたか」

「羽柴…………」


 義昭は深くうなずいた。




 あんな作戦を立てたのは、羽柴秀吉しかいない。


 あらかじめ米を馬鹿みたいな高値で買い集め、その上で兵を集めさせて挙兵させ、伸び切った所を一気に押し込めて籠城戦に追い込む。

 そしてその際極力犠牲者を減らし、その大人数に少ない食料を食い尽くさせる。

 犠牲者が少ない事により人道的評判も上がり、その分だけ民衆の支持も上がる。




「なあ、余に米を生み出す事ができるか」

「それは…………」

「出来ぬだろう。だが、秀吉には出来ていた。農民であった彼にはな」


 農民だから、武田信虎を生かしたのだろう。

 降伏勧告のように送られた兵士から秀吉が捕縛した信虎を解放しいずれは甲州に返す旨述べている事を知った義昭は、秀吉の慈愛と思慮に感心していた。

 信虎にしてみればせっかくの最後に水を差された格好だったが、秀吉にしてみれば相当にしたかった行為だったらしい。


 信虎に負けず劣らずの鋭い眼光を見せつけ、武士たちを怯ませたと言う。


 あの愛嬌はあふれ出るほどあっても威厳などないはずの男がだ。





「余は決めた。羽柴秀吉、いや筑前殿に降伏する」




 そしてついに、義昭は決断した。




「上様!」

「共に来てくれ、伊勢」

「はい…………………………」


 貞興は主の奇妙なほどに爽やかな笑顔に涙をこらえ、義昭は自分が案外悔しがっていないのが悔しくなり、瞼の奥から液体を絞り出そうとするが届かなかった。



「だが伊勢。将軍には将軍の終わりがある。せめて着付けの時間だけはくれ」

「はっ……」



 伝統の甲冑と、剣。


 二度の出撃時も信虎たちに押されて普通のそれを着て出た義昭にとっての、最後から何番目かの財宝。


 あるいは兄の様にこれを着て戦うべきだったかもしれない。

 だが、これから対峙するのは織田信長ではない。



 羽柴秀吉なのだ。



「余は、農民に負けたのだ。

 その事を実感するためだけに、多くの命を浪費して、な……」


 その事を思うと、ようやく涙が出た。




 柄にもなく、為政者らしい理由で涙を流せた自分が、少しだけ好きになれた。




 同じぐらい、為政者らしい理由で命を奪った自分が、嫌いにもなったが。

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