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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第五章 農民と武士
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武田勝頼の存在価値

「父上と太郎はまだ駿府城にいたのか」

「ええ」


 二月二十日。

 駿府城に居っぱなしだった信玄がようやく戻って来ると言う報告を躑躅ヶ崎館で受けた勝頼は深くため息を吐いた。


 とっくに雪なんか溶けているのに悠長に海なんか見ているのか。

「…………まったく…………」

 跡部勝資は館の天井を仰ぎ、長坂長閑斎も嘆くばかりだった。



 信州を歩き、駿河に行き、遠江を攻めた。


 そうなると、どうしてもこの館が貧相に思えてくる。


「何度書状を送っても梨の礫。駿府城におられるのであればわかりそうなはずなのに」


 長閑斎は忌々し気に館の壁を叩いた。




 躑躅ヶ崎館は館であり、決して城ではない。

 当然防御力はたかが知れており、ひとたび攻められればあっという間に陥落する。


 —————本拠地なのに。


「その旨を幾度となく述べているのですが、不必要の一点張りです」

「駿府城を見たし、信州にも数多の城はあった。それに何より小田原城だ。あの堅固な城はそれこそ大名の力の象徴ではないか」


 勝頼は五年前に信玄共々小田原城攻略を図り、その強大さを目の当たりにした。なればこそ甲斐にも本城と言うべき大きな城を作れと勝頼たちはさんざん言っているのだが、信玄は全く聞く耳を持たない。言うまでもなく信玄派の宿老たちも同じ調子で、勝頼たちの心胆を寒からしめる材料の一つとなっていた。


「結局は金か」

「金山はもう底を突いている状態で」

「その金を遠州から調達する予定だったとか、よくもまあそんな事が言えた物だな、あーあ……」




 人は城、人は石垣、人は堀。


 信玄はいつもそんな事ばかり言う。人さえあればいいみたいな言い方を繰り返す父親が、最近うざったくて仕方がなかった。しかもそんな事を言いながらこの二回の戦で五千近い死者を作っている。正気の沙汰ではない。


「麒麟も老いぬれば駑馬に劣る……」

「……残念ながら」

「まったく、どうして急に…………………」

 

 勝頼と二人の陰口は止まらない。信玄と言う共通の敵について語る時の二人は実に生き生きとしており、勝頼もそれに乗っかっている。立ち聞きする奴もいないので、文字通りの言いたい放題である。


 勝頼と言うのは八歳で母親を失い、つい六年前に義信の横死によって後継者の地位が舞い込んできたような男だ。それまではたかが諏訪家の跡継ぎに過ぎず、母親が信玄に寵愛されていたとか言っても早くにその後ろ盾をなくした代わりのいる四男坊だった。

 義信が死亡、次男が盲目、三男が夭折していなければ、おそらくはずっと諏訪の小領主。弟の仁科盛信や葛山信貞、玄龍(安田信清)と言った弟たちとまったく同じ程度の扱いにすぎなかった勝頼には、帝王学などない。

 その点は上杉謙信も今川義元も同じだし、何も長男でないからと言って名君になれない訳ではないのだが、それでも当初から武田の跡継ぎにすべく育てられたのと諏訪の跡継ぎにすべく育てられたのでは訳が違う。

「それにしてもだ、延々ひと月も何をやっておったのか!妻が亡き事がそんなに問題か!」

 勝頼の妻は二年前にこの世を去っている。その時まだ信勝は五歳であり、自分とほとんど変わらない。だと言うのに自分は放置し、信勝は目一杯手をかけようと言うのか。


 話が前後するが、義信には飯富昌虎と言う立派な守役がいた。勝頼にはいなかった。だが信勝には小姓頭の武藤喜兵衛とか言う男がおり、その息子二人も遊び友達を通り越して親密な主従になりつつあるらしい。



「それにだ!最近もう一人増やそうとしていると言う話を聞いた!」



 そしてその二人に加え、もう一人躑躅ヶ崎館に童子を連れ込もうとしていると言う報告も勝頼は受けていた。


 岩村城を完全に確保するため、秋山信友と婚姻する事となったおつやの方とやらに二千石の化粧料をあてがい、さらにその夫である信友の石高も二万石近くにまで膨れ上がらせた。

 だが最大の目的は、その城の城主を確保する事とも言われていた。


 そう、織田御坊丸。

 ゴボウではなく、御+坊丸なのだろうが、奇妙とか言う名前を長男に付ける信長らしい名前にも思える。


 信勝と同い年のこの少年は、ほどなくしてこの躑躅ヶ崎館に来る事になるらしい。



 言うまでもないが、勝頼はその事もまた気に入らない。



「何が悲しくて伯父甥で一緒に暮らさねばならんのだ!」


 実は信勝の母にして勝頼の妻は信長の姪であり、御坊丸は正確に言えば信勝のいとこ伯父である。いやその前に名目的に信長の養女となっているので伯父甥という表現でも間違っていない。さらに言えば勝頼の妻の父は御坊丸の義父の弟であり、ややこしさの極致のような関係である。

 織田と武田が不俱戴天の仇なのにこうしているだけでも心地が悪いのに、それを囲い込もうとするなど不可解と言う前に不愉快だった。


「反対はしたのですか」

「一応な。だが腹立たしい事に妻としてはあの女もなかなかにいい女でな、情がなかったとはまったく言えぬ。その血族が来たとあらば彼女も嘆く事はあるまい……まったく、どこまでもこっちの先を行く…………」



 腹立ちを紛らわすように背筋を伸ばし、館を出て馬乗りに向かう。


 見慣れ切った甲州盆地が迫り、林と山が睨みつけてくる。生温い春風がうっとおしく、農作業に励む百姓がやけに元気に見えてくる。


「ああこれは大変ご失礼を!」

「構わぬ。それより自分のすべき事をせよ」

「はい!」



 たった一人で館の外を歩き回り、民百姓に適当に恐れられながら馬上の人として歩き回る。


 この日は快晴。雲一つない青空が広がり、富士の山も見える。富士の山は北から見るほうが良いのか南から見るほうが良いのかと言う議論は太古よりの恒例らしく、両方ができている自分は光栄なのかもしれないと思った事もある。

(知っていれば見に行ったかもしれんな……)

 祖父武田信虎は五十年前に今川軍を撃退したのち、富士山の神社へと参拝した。ちょうどその時に信玄が生まれており、信虎にとっては文字通り得意満面の時期だったわけだ。もし自分が何らかの理由を付けて富士山を見ていれば、こんなに山に悩む事もなかったはずだと言うのに。


(御祖父様の時には甲州一国の統一すらままならなかった武田が今や三か国、いや上野や遠江を含めれば四か国以上の当主……それを思いがままにできる父……)


 だがその信虎は二十年かけて結局甲斐一国で終わり、信玄は十五年で信州を手に入れた。


 信玄は偉大だ。


 そして信玄が死のうが、その功績は永遠に消えない。自分が拡張できるのか、いや四か国を保持できるのか。



「ああくそ、眠い……」


 春眠暁を覚えずでもないが、うららかな日差しと春風が勝頼の瞼を閉じさせる。



 —————いっそ、このまま本当に寝てしまった方が武田にとっては幸せではないのか。

 自分が何かやらかして武田を滅ぼし、信勝たちへの努力を無為にするぐらいなら、老臣たちの言う事を聞いておとなしくしていた方がましなのではないか。



 そんな声が頭の中に響く。


 自分はどうあがいても四男坊。そしてあくまでも信玄と信勝の間の存在。軟弱で守りに入る二代目様とか言われたくないと言う願望に逆らい、あくまでも信勝の成長を待て。そして信勝が成人すればさっとその座を引き、おとなしく隠居人として振る舞え—————。


 頭を振ると農作業に疲れたのか昼寝をしている農民がいた。兄弟らしき男から早く起きろとせっつかれていたが、一向に目を覚ます様子がない。




「何かあったのですか」

「何もない……」


 結局そんな言葉しか出て来なかった。

 何のための遠乗りなのか。何のための外出だったのか。


「なあ長坂、わしは、何だ?」

「何だとは」

「わしは信勝の保護者だぞ?だろ?」

「なるほど、太郎様の影なのかと」

「ずいぶんはっきりと言うな……」

 場合によってはぶん殴られても文句の言えない言い草だったが、勝頼の機嫌はむしろ明るくなった。

「武田勝頼はここにいる。この勝頼は何だと言うのだ。わしは何なのだ?」

「紛れもなく武田の次期当主でございます」

「次期当主と言えば現当主の次に権威を持ってしかるべき存在だ。それなのにわしの要望は一つも通らん。このままでは父の前にわしが死ぬかもしれん」

 二十六歳のくせに自分の死を大げさに言い出し、その上で自分の不遇を喚く。

「あの秋葉街道の時だってそうだ。お前は出るな、お前は印象が悪くならないようにしろとか言って後方の警備に回され、戦後はずっと住民たちのご機嫌取りに終始、課と思いきや浜松城を完全に葬り秋葉街道に放火。父は責任はわしにあるとか威張っていたが、親の因果が子に報いぬ訳があるか。次期当主と言うのは前当主のすべてを受け継がねばならに、すべてを……!」


 口から血が出ていた。


 口の中を全力で噛んでいた勝頼の頭の中に、信玄の前科が思い浮かぶ。

 信虎を、父親を追放したと言う前科が。

(くそ……!数が、数が足らなさ過ぎる……!)

 同じようにして何が悪いのかと言う言葉が口から出る前に、絶望的な現状を把握させられる。


 信虎追放は家臣団の後押しありきであり、勝頼の家臣はかなり少ない。二万数千の兵の内勝頼になついているのは数千であり、さらに言えば今川の様に厄介払いできる家もない。強いて言えば北条だが、信玄の力を恐れて武田と手を組んだと言う話がある以上とてもできそうにない。



「次なる戦に備える事しか、できそうにないな……」


 戦場にて存在感を示し、老臣たちに次期当主と呼ぶにふさわしい姿を見せる。



 それしかできない自分が何とも情けなく、そして悔しかった。

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