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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第五章 農民と武士

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武田信玄の日常

はい、この第五章はまともな長さにします……。

 二月十四日。




 欠下の戦いから十日後。




 信玄は駿府城にいた。


「和やかな海だな」


 新暦の二月十四日は洋菓子の贈り合いも行われる真冬だが、旧暦の二月十四日は初春である。ついでに言えば満月に近く、さらに言えば昼の一年で最も短い時期である。


 天守閣から広がる海は、いちいち広大だった。


 もし甲斐ではなく駿河に生まれていれば、もう少し違った人間になっていたかもしれないとか言う繰り言を呟いた事もある。湖や川などとは違う、どこまであるかわからない水。

「海からも難は来るのだな……」

 どうしても危険さが目に付いてしまう戦国大名気質に舌打ちしながらも、地元の漁師たちから徴収した魚を口に運ぶ。


 漁師と言うのはそれこそ兵士にも負けない命がけの職業である。山の「猟師」と違って獲物に逆に襲われる事はまれだが、海に落ちればそれこそ即死の世界である。


 そしてある意味厄介なのは、歓楽街の存在だった。漁師と言うのは死と隣り合わせで生きているから、女バクチ酒などの遊びは激しい。下手に取り締まると反発を買うので半ば放置状態ではあるが、山育ちの武田軍には厄介な毒だった。

 農民はそれこそハレとケの文化で、酒などはハレの日に痛飲してケの日は一滴も呑まない事もざらであり、農兵と言う生死ギリギリの世界に身をおいてなおその気質は抜けていない、と言うより抜かせていない。もちろん駿河出身の兵は海に慣れているが、量も質も知れており主役にはなりえない。

「浜松と言うのはこの駿府に比べれば田舎だ。その上に入ってみてわかったが海を持て余している。確かにあれは、徳川家康を作る城だ」

 完全に根絶した浜松城も海岸に接しているが、その海岸は文字通りの砂浜ばかりで漁師は生まれても歓楽街も水軍も生まれない土地だった。あのまま浜松城にいられたらもっともっと大きくなっていたらと思うと、それだけで自分が正しい事をしたと言う自覚を持てるようになる。



「御祖父様」

「信勝か」


 その祖父に割り込む少年を前にして、甲斐の虎は箸を止める。

 長男の義信には男子はおらず孫娘しかなく、次男の信親にもまだ男子はいない。

 勝頼の現状からして文字通りの嫡孫であり初孫と言うべき信勝。年寄りになった証拠でもないだろうがこの孫はなぜか愛おしく、自分の思うがままにしてやりたくなる。

「わしのわがままでこのような所に置いてしまっておるが」

「いえ、寂しくはございません。皆御祖父様を敬い、御祖父様から学べと申しております」


 実に礼儀正しく、それでいて卑屈さがない。

 思えば信玄の子ども時代は、常に弟の信繫と比較され通し、と言うか信繫と比べて蔑まれっぱなしだった。あの信虎追放の時も、信虎が信繫を強引に立てようとしたことによる内乱を恐れて重臣たちが自分を担ぎ出したとも聞いている。

 それまでは自分でも、必死になって信虎のご機嫌を取ろうとしていた。途中から半ば諦めの心境に達し、信繫にその気がない事に感謝もした。今でも信虎が死んだという話はないことからするとまだ健在なのだろうが、信繫が死んで自分が生きていることを知ったらどう思うかぐらいは考えたこともある。

 信勝にもし今後弟ができたらどうなるか、公平な祖父でいられるのかと言う不安はもちろんある。


「信勝。わしは多くの人間を殺して来た。お主もそうなる」

「はい」

「その際に何が必要かわかるか」

「その亡骸の上に自分が立っていると言う事です。武田も、それ以外も。魚も海の恵みを体に蓄え、そしてここに来ているのです」

 実に真面目で立派な言葉だ。だが正直毒も味もなく、無難としか言えない。

「ですが漁師たちに捕まらなかった魚が卵を産み、親として魚を産みます。兵士とはその魚を期待しなければいけない仕事です」

 だがここまで言えたことには素直に感心し、なんとなく頭を撫でてやる。


「兵士と言うのは敵がいなければ役に立たん。理想の理想を言えば武士と言うのは要らなくなる。下手に刃傷沙汰とか言う面倒くさい事をしなくとも解決できる時代が来るのかもしれない。だが農民や漁師は必要不可欠だ、彼らがいなくなれば誰が我々を食わせる」

「武田家は最後にはクワや鎌を持つのですか」

「かもしれんな」


 ほんの百六年前、第九代室町幕府征夷大将軍後継戦争として始まった応仁の乱。

 それからこの国は戦争に次ぐ戦争の世界となり、もはやその前の時代を知らない人間はひとりもいない。

 乱世の先がどうなるのか、その答えは信玄にはなかった。上洛して義昭に変わって武田幕府を立てる、では全く何にも変わらない。


「しかし叔父上(ここでは信豊)や喜兵衛が言うにはこの戦で織田軍は銭で兵を雇っていたとか。それらの兵はその後どこへ行くのでしょう

「わからん。どうせ乱世が終わる方が先だと思っているのだろうからな。だが残念ながらそれも正解だ。人間の寿命は事を為すには短すぎる。二生、いや三生ぐらいあれば何とかなるかもしれんがな。そなたの祖父はもう五十三だ、あまり多くの事は言えん」


 自分にどれほどの時が残っているのか、正直わからない。だがそれでも自分に教えられる事なりの事は教えてやらねばならない。







「喜兵衛」

「ああお館様!」


 —————そんな時、頼りになるのは誰か。


「お館様―」

 武藤喜兵衛の言葉につられ、二人の童子も飛び出して叩頭する。子供らしい元気な声と共に深く頭を下げる姿は、実に微笑ましかった。


「源三郎に弁丸、息災か」

「はい!」

「フフフ、それは何よりだ。ところで駿府はどうだ、慣れたか」

「慣れません」

 それでもはっきりそう言われる程度には、二人とも落ち着きがなかった。早く腰を浮かしたがり、各々したい事をしようとしているように見える。

「そうか、やはり慣れぬか……母上が恋しくならぬか」

「申し訳ございません、なりません……」

「これは失礼」

 源三郎の方は同じような質問にもゆっくりと答える中、弁丸はさっきのようにはっきりと物を言う。


「お館様、特に弁丸は常日頃から暴れ気味になる事が増え、それがしもいささか手を焼いております……」

「ふーむ」

「だがふたりとも、父はあくまでもお館様の家臣だ。父はお館様の命なくしてはどこにも動けんのだよ」

「心得ております」

「おい源三郎、お前よくそんな事言えるな」


 喜兵衛から名指しで言われた弁丸に続き、源三郎も注意を受けた。


「すみませんつい、最近ひどく口達者でしてな」

「ほうほう」

「それは、太郎様とお話しているだけで」

「だったらなぜ太郎様を言い負かすのだ。鬱屈を太郎様にぶつけておらぬか」

「案ずるな。聞いておる、源三郎との論戦は飽きぬとな」


 信勝が源三郎を捕まえて論戦を挑むことは多々ある。ある種の英才教育の一環であり、信玄や喜兵衛たちの教えを受け書を読んでいたという点では二人は同じなのだ。


「確か昨日は鶏と卵はいずれが優なるかと」

「そうだ。そこで鶏がなくば卵は産まれようがないと私は申し上げました。それに対し太郎様は卵がなくば鶏は孵らぬと」

「それで最後にどっちが勝ったのだ、ってああ失礼何を言ったのだ」

「鶏は太古より鶏だったのか、どこかで鶏になったはずです。鶯が産んだ卵が鶏になった訳ではなく、複数の鶏が生まれて卵を産んだ、と」


 そこで信勝は納得して敗北宣言をしたらしい。


 確かに鶯の卵の中で突然変異が同時多発でもしない限り急に鶏が産まれまくるなどないだろうが、鶏がいつ何時、かつほぼ同時に鶏になったのかと言う事についてはすっぽ抜けている。

「卵がいっぺんに鶏になったとしてもしょせんはその卵たちだけの話。鶏がお互いに切磋琢磨して鶏になった方が筋は通っていると思いますが」

 その事を信玄が指摘してやると、源三郎はそう言い返して来た。

「お館様相手にまで……」

「構わぬ。太郎にはこうして互角に話し合える相手が必要だ。しかも同い年なのもまたいい」

「そうですか」


 生意気な息子を心配する喜兵衛に対し、信玄はあくまでも鷹揚だった。

 確かに大大名の当主と言うのは孤独であり、悩みを気楽に話し合える人間と言うのは希少価値である。なればこそ今の内から作っておき、死ぬまでの盟友に育てておくのは悪い案ではない。


「その方の息子たち、弁丸の方もかなり頼れる武者となろう。お主は黙って見ておればよい」

「はい……おい源三郎、弁丸と共に下がれ」


 喜兵衛は苦笑いと共に、二人のやんちゃ坊主を下がらせた。




「さて喜兵衛。織田は今年どうすると見る」




 そしていきなり真剣な顔になり、目下にして最大の大敵の話をした。


「もう二月半ばですぞ」

「そう言うな。先月遠江で派手な戦をした手前そっちからは動くまい。わしは狙いは二つに一つだと見ておる」

「西か、南かですか」

「そうだろうな。加賀はまだ越前の統治が不完全ゆえ迎撃はあっても侵攻はあるまい。狙いは本願寺か、それとも上様か…………さもなくば両方か」


 そう、両方。


 その両方ができるのが、織田家の力だった。


 武田にとって二万は全力だが、織田にとっては三分の一以下である。尾張美濃伊勢だけでも百三十万石はあり、これだけで三万だ。


 そして、武田は普通動けない。

 半年の出兵で大打撃を負った武田軍は国内の整備が第一であり、下手に国力を消耗すれば衰退どころか滅亡の文字まで見えてしまう。



「徳川家康は恐るべき存在であった。ゆえにこの武田信玄をして大人げなくむきになってしまった」

「え?」

「その旨を深く伝えておかねばならぬ。信勝のためにも……な」




 信玄がその旨を記した書状を送ったと喜兵衛が知ったのは、それから一月後の事であった。

エッグラ・チキーラ「……!」

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