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武田勇戦記  作者: 宇井崎定一
第四章 馬込川の戦い
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武田勝頼の失望

 信玄が点けた全ての火が鎮火したのは、戦いが終わってから一刻後、始まってから二刻後の事だった。

 言うまでもなく秋葉街道の草は焼け焦げ、馬込川の石は焼けた。




「ああ、浜松城を……」




 そして、浜松城は念入りに焼かれた。

 元より天守閣も壊され堀と土台しか残っていなかったが、その痕跡である土台に火を点け、わざとらしく甲陽菱の陣幕を焼き埋める信玄のやり方に、信康は怒りを通り越して言葉を失っていた。


「信玄坊主め、三河殿の影におびえているのか……哀れよな…………」


 信長の言葉にも、徳川軍の将兵の頭は全く上がらない。

 家康の痕跡を完膚なきまでの抹消するような非道なやり方を前にして、自分は何もできない。無力感が立ち込め、信長の言葉も心に届かなくなる。

 数多の犠牲を払って得た領国を全く大事にすることなく、放火して焦土と更地にして返す。あまりにも乱暴かつ残酷な仕打ち。織田信長を魔王呼ばわりする資格を自ら手放したような信玄の行い。


「案ずるな。これでもう当地の民は米一粒たりとも武田には渡さなくなる」

「そう、です、ね……!」


 信長の言葉にも信康が絞り出すように言い返すのがせいぜいで、舌の代わりに目ばかりが動いていた。


「いずれにしても浜松が完全に機能を失った以上、新たなる城が必要となりましょうが……」

「奇妙、残念だが遠江にそんな場所はない……」

 浜松の西の遠江ともなるとそれこそ浜名湖の西しかないが、そんな場所に城を作るとなるとそれこそ無からの建築となる。

 実は浜松城と言うのは東からの守りには耐えるが西からは浜名湖の関係で攻められやすく、武田から見ればあまり守る理由のない城であった。言うまでもなく家康が武田しか考える必要がなかったゆえの設計であり、東から来た軍勢にしてみれば腹立たしいほど合理的だった。


「しばらくは織田家の力により吉田城を改修しよう。そこの地には」

「我々兄弟が入ります!」

 とりあえず三河の東端の吉田城を改築し遠江を睨ませることにするのが目一杯の信長の配慮だった。大久保兄弟の名乗りにより城主もすぐ決まり、武田対策は一応片が付いた。


「しかしこの戦で我々は一体何を手に入れたのでしょう……」

「武田をより多く殺したと言う実績、そして、このような手を使わねば武田は惜敗すらできないと言う印象よ…………」


 信長は、あくまでも理論派だった。冷徹なほどに理論を組み立て、冷静にすべてを分析する。本多忠勝の猪突とも言える行いも信長の指示ありきでありそれで成果が上がったのだから確かなものだが、それでも気分的には良くないはずだ。




 実際、この戦いでの織田・徳川連合軍の人的損失は千はおろか七百にも満たず、武田軍はその倍近い。負傷者は倍どころか三倍違う。その上に武田軍は二俣城まで撤退、馬込川と天竜川の領国を失った。


 ————————————————————と書くと、紛れもない武田軍の敗戦なのだ。




「フッフッフ……ハッハッハッハッハッハッハ……!」

「父上……」

「奇妙、岡崎に戻り次第盛大な宴を行え。此度の戦勝の祝いだ、金に糸目を付けるな」

「でも!」

「徳川軍も来てもらいたい。ああ大久保殿には最高の佳酒をお贈りいたそう」


 高笑いから鷹揚な笑顔を浮かべる信長を前にして、信忠や信盛のみならず忠次たちも笑うしかなくなった。


 そうだ、この戦いは勝ったのだ。

 紛れもなく、自分たちより数が少ないはずの武田軍は自分たちより多くの兵を失い、大きく後退した。


「北条も武田を見捨てたらしいからな、この先が楽しみだ……」


 信長は笑う事をやめなかった。




※※※※※※※※※




 信長が笑っていた頃、二俣城では武田勝頼がふてぶてしい顔をして胡坐をかいていた。


「勝頼よ」

「何でございましょうか!」


 しかも次期当主ともあろうものが広間の下の庭に座っている。まるで罪人のような扱いだが、突っ込みを入れる人間は誰もいない。


「こっちへ来い」

「すべての言葉を聞き届けた上でそういたします!」


 とっとと首を斬れと言わんばかりの挑戦的な目つきを前にして、執行人のはずの信玄の目つきはやたらと穏やかだった。


「では言おう。この戦い、お主がおらねば全滅していたかもしれぬ」

「織田がですか!」

「武田がだ。あそこまで織田が薄情で、徳川が粗暴だったとはわしをしてそこまでは読めんかったと言う事だ」

「どういう事ですか!」


 あれほどまで傍若無人だった男が、急に優等生のように吠える。

 跡部や長坂と言った取り巻きたちは左目で勝頼の安否を案じ、右目で信玄へ嘆願していた。


「おぬしが向かった時には高坂は織田に激しく押されておった。漫然としていてはそれこそ信長に欠下を食い破られ、武田は分断されていた。そうなればどうなるかは明白。信長の裏をかくとはなかなかに見事よ」

「ああそうですか!」


 頭に血が上っているような顔と声をずっと続ける勝頼に、信玄の左右にいた高坂昌信も武田信豊もひるみながらため息を吐いていた。


 これはもう、完全に素。あるいは本音。



「従兄上、結局何がおっしゃりたいのです」

「何がとは何だ、何がとは!」

「この城に戻って来てから、いえ戻る前からずっと真っ赤になって燃え上がって、何をお望みなのですか!」

「武田の繁栄と栄光だ!」

「まったく意味が分かりません、ってあっと!」

 

 そんな従兄に詰め寄る信豊の頭に扇子が落ち、下手人の笑顔が二俣城を覆う。


「信豊。勝頼は信長をどうしても討ちたくて仕方がなかったのよ。信長を討てば万世の英雄になれるからな」

「ですがそんな願望を!」

「徳川家の執念をお前も目の当たりにしただろう。あれに立ち向かうにはほぼ同量の熱量を持った存在が必要だった。

 それが勝頼だったのよ」


 元々一万も北条から借りなければならなかったのが武田の現実であり、その上に強引に一万五千の兵をかき集めて遠江まで持って来たのが武田の限界だった。

 一方で敵は織田軍だけで二万おり、その上に徳川までいる。それ以上に恐ろしい事に、まだまだこれ以上の兵を駆り出す力がある。


「信長は理屈が大好きだ。そしてその理屈を丁重かつ迅速に実行できる。その上に予想外の事態にも対応できる。だが、弱点がない訳でもない」

「弱点とは」

「信長は個人的な武勇をあまり重視しておらん。桶狭間を知っておるか?」

「何の話ですか」


 ようやく頭が冷えて来た勝頼がなおもケンカ腰に吠え掛かるが、信玄は一向に顔を変えない。


「実際に義元を殺したのは毛利何とか言う男だ。だがそれより義元の居場所を伝えた梁田とか言う男の方が厚遇されている事をわしは知っている。信長と言うのはそういう男だ」

「ああはい、わかりました!それがしがあそこまで手こずらせるとは予想外だったと言う訳ですか」

「全くその通りだ。お前は本当に素晴らしい働きをしてくれた!あっぱれだ!」


 まるで踊り子の様に扇を開き舞いの真似事をする信玄の姿に、邪気は一つもない。

 勝頼はようやく毒気を抜かれた顔になり、信玄の命を受けた跡部と長坂によって信豊がいた席へと強引に据えられた。










「結局、わしは父上の傀儡か……」


 とにかく何の処分も受けなかった勝頼だったが、その顔は全く冴えない。

 二俣城の隅の部屋で二人の側近と共に一滴も減っていない酒を目の前にして、ただただうつむくばかりだった。



 自分なりの精一杯の反抗だったのに。最悪首を斬られても構いやしないとさえ思ったのに、お世辞とか言うにしてもあまりにも優しすぎる処分。



「改めて、力の差を見せつけられた気分ですな……」

 長坂長閑斎も嘆くしかなかった。自分がお釈迦様で勝頼は孫悟空だとでも言わんばかりのお話であり、下手に処分を受けるよりもずっと打撃が大きかった。

「今ならわかる。北条勢はやる気など元々なかったのだ。聞いた所北条の兵の大半は老兵や新兵だった、数だけの兵だった。それが今の武田の価値だ。そして、その事をわきまえた上でこうなったのだ」

「氏照殿もおびえておりましたな」


 本当ならもう少しましな兵をよこせとか吠えてやりたかった。でもそんな兵であることを承知で配置し、その上である程度の戦果を上げさせた信玄のやり方は、まさしく神算鬼謀だった。

 実際、あの後に勝頼と対面した氏照も、信玄への恐怖心を吐露していた。


 風林火山ではなく、風林火陰山雷—————と。




 知りがたき事陰の如く、動く事雷霆の如し。




 雷霆はともかく、まさしく知りがたき事陰の如き戦い。敵を欺くにはまず味方からでもないだろうが、完全に武田軍全体が信玄の思うがままだった。北条も、勝頼も。

 あるいは、信長や徳川軍さえも。


 あれに追いつけるのか。




 その後徳利一杯の酒を三分で飲み干した三人は、呆れるほど素面のままだった。

武田勝頼「何、第四章はもう終わり!?ふざけるのも大概にしろ!」

作者「と、言う訳で今回は休みなしで明日早速第五章行きます。どうかご容赦のほどを……」

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