2 異世界だった
1ヶ月の赤ちゃんは大体1.5時間毎にお乳を飲むらしい。百科事典を探ったらそんな事が書いてあった。今が1ヶ月児なのかは定かでないけど、母親さん、ごめんなさい。寝る暇ないんじゃないかしら。
我が家らしき場所には母親、父親らしき青年、もう一人家政婦さんと言うかメイドさんみたいな人が住んでる。他の人は見た事が無い。メイドさんの名前はイリアさんらしい。両親の名前はまだわからない。ママ、パパとかあなたとか呼ぶ事が多くて、夫婦で名前を呼ぶって少ないと思うのよね。メイドさんは「イリア~」とかって母親呼ばれているから多分間違いと思うのよ。
言葉はまだ良くわからない。耳から入ってく言葉の文法もわからないし、何を意味する言葉なのか、赤ちゃん言葉なのか、普通の言葉なのかも判断つかないしねぇ。
お乳飲んで寝て・・・の繰り返しで毎日が過ぎていく。
不思議なのは、ベッドの柵をじっと見た時に頭に「木」って言葉が浮かんで来た、あの事。今も同じ様に「木。樹木の一部」とかって頭に浮かぶのよね。ただ、何度も見ているとなんだか脱力感が・・。母親を見れば「人間、女性」父親を見れば「人間、男性」メイドさんを見れば母親と同じに「人間、女性」。布団を見れば「植物の繊維」いやあ、便利っちゃ便利なのかもしれないけど・・・そんな程度見れば判るって。
以前大学の工学部に在籍していたあたしとしては、何か意味が有るんだろうし、役に立つ方法は無いのかなと色々と考えてみたのよ。この体が物体を認識するチート能力みたいなのを持っている遺伝子の持ち主だったとか、そんな魔法みたいなのって有り得ないと思うけど。繰り返しいろんな物をじっと眺めて頭に浮かぶ内容に変化が有るか試してみたりもしたけど、変わりなかった。強いて言えば脱力感に襲われるまでにじっと見れる回数が増えたかもしれない。成長しているんだから当たり前と言ってしまえばそれまでだけど。
2週間くらい経つと、見れる回数が倍近くになった気がする。1日当たり7.5%の伸び率って、体の成長より遥かに大きいのよね。研究室で実験を行う時のやり方を思い出してみる。
仮定・仮定に基づいた実験・結果データ収集・データ整理・検証
仮定。良くわからないけど、この凝視したら対象物の事が頭に浮かぶ(認識と呼ぶことにする)力が使う程伸びる
実験 「認識」を繰り返す
データ収集 使える回数の計測
暇だからこんな事でもして見ようかしら。テレビもないし本も無い。有ってもまだ読めないんだけどね。
結果 2週間経つと、さらに倍になっていた。
検証 倍々ゲームなのこれ?
回数が伸びていくのは判ったけれど、なぜこんな事になるのか理屈が判らないのよね。伸びていくのは回数だけなのか、それとも頭に浮かぶ内容も変化するのか。実験を繰り返すしかないわね。
赤ちゃんになってから(記憶が戻ってから)4ヶ月程経った。ちゃんと首もすわったよ。もう、うつ伏せもOKですから。
かー(母親)の名前もわかった。アリスって名前らしい。推定16歳。とー(父親)はカイル、推定18歳。メイドさんはやはりイリアさんだった。まだ1音節しか喋れ無い、いや喋って無い。単語も少ししか判らないしね。大体4ヶ月児がぺらぺらお話したらどこの天才児って事になりそうだし。でも、いろんな事を知りたくて、物を指差して「あー」とかって母親に説明して欲しいって要求したりはしてるのよ。丁寧に答えてくれる言葉と、「認識」の結果を比較して・・・これで言葉の覚えが悪かったら詐欺よね。順調にお話できる様に努力中ですとも。
「認識」の回数は2週間で倍だから、4ヶ月は16週間。2^8=256倍になっていたよ。これ、どこまで上がるの?なんか1日中「認識」「認識」ってやってそうな気がして来た。
そして、重大なことが判った。
ある意味、とてもショックな事。
リビングで椅子の上に座らせられていたんだけど、母親が離れた時にごろんと転がって、椅子から落ちて顔を床へぶつけてしまったあたし。
物音に気がついて母親が慌てて戻ってきたら、床で唇切って血だらけになったあたしを見つけたのね。母親は慌ててあたしを抱き上げて、切れた唇に手を当てて呪文のような言葉を口にしたの。すると・・・血が止まって、痛みも薄れたの。まるで魔法のように、と言うか魔法だよこれ。
ヒールとかってゲームでは必須な治癒魔法って物が・・・有るなんて・・・これ、日本じゃないし、ヨーロッパのトランシルバニア地方にそんな伝説が有ったにせよ、元々暮らしていた世界じゃ無いと気づいてしまったあたし。
怪我をした痛みとかショックとか、そんなんじゃ無くて、「世界」が違う事がショックでわんわんと泣いてしまった。もう、日本という国があったあの世界には居ないんだ、友達や親との接点も、何もかもが無くなったんだ、そんな思いから、母親の腕に抱かれたまま泣き続け、泣き疲れて寝てしまったの。
ベビーベットの中で目を覚ますと、周りがオレンジ色になっていた。陽が沈む頃らしい。外を見てみたい気持ちが込み上げ来た。
「あー、あー」母親を呼んだよ。ばたばたと駆けつける母親に腕を伸ばして抱っこしてとせがむ。
「どうしたの、まだ痛たいの?怪我しちゃったんだから、少し我慢しないとね」母親はそう言いながらも抱き上げてくれて、宥めるように背中をよしよしとさする。
あたしは入り口のほうを指差して、外へ連れてってと言うように「あー、あー」
「お外、行きたいの?まだ表に出るには少し早いんだけどねぇ。お日様見たいの?うーん、少しだけね」
母親はそう言いながら玄関のドアを開けてあたしを抱いたまま外へと連れて行ってくれた。
初めて出る家の外。オレンジ色に染まる野原、道、森の木々、少し離れた隣の御家もオレンジ色。そんな中、遠くの山に沈んでいく太陽と雄大な自然を見ながら、目から熱いものが頬へと伝って行く。
もう日本は、あの世界はあたしの思い出の中にしか存在しないのね。
太陽が山に沈んでしまうと、風が急に冷たくなってしまう。抱いたままの母親へと顔を向けて手を伸ばし、顔に触れてみる。暖かい頬だ。
「おうちに入ろうね」
あたしの少し伸びた柔らかい髪を撫ぜながら母親はそう話し掛けてくれて、ゆっくりと家のほうへと足を進めて行き、開いていたドアから家の中へと入っていく。
お乳と果物ジュースらしいものを飲んだら、何時もの様に眠りに引き込まれていっちゃった。
ただ、今日はもう一つの思いが増えていた。優しい母親、父親、それにメイドさん。こんな人達に囲まれて暮らして行けるのって、きっと幸せなんだろうなぁ。