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批判者の言葉が届かない件について

 エッセイで私が「檄文タイプ」と読んでいる作品が日間ランキングで上位に登って話題になるたびに、当のエッセイが痛罵し、批判している対象に言葉が届いてないなんてことがある。やれ「感想欄のマナーが悪い」だとか「読者はモラルを持って作者に接するべきだ」という単純明快な主張だというのに、その感想欄自体が誹謗中傷の嵐が巻き起こるなんてことがまさにそれだ。

 こういうとき、私は筒井康隆の「笑う」という掌篇(?)を思い出す。ブラックユーモアで皮肉った対象こそが、自分のことを棚に置いて「そういう人、いるのよねェ」と笑う。その笑っている人を揶揄してもその人は自分が批判されていることに気づかない。同じことを呟いて笑うのだ。同作は全集に収録された、わずか二、三ページほどの文章であるが、とても印象深いものだった。

 こういうと議論が紛糾してしまうかもしれないが、批判をしてもその人に通じないということはあると思う。それがよほど身に逼迫した内容であるならばなんとかして対策を練らねばならないだろうが、そうでなければ前項の「無自覚な完璧主義」のように、どうしても譲れない、譲れないで疲弊するだけで終わりがちだ。よく残酷描写のゲームがその為人(ひととなり)にも悪い影響を与えると騒ぎ立てる人がいるが、しかし、性善説を唱えた作品が人を性善説に改宗したという話もあまり聞いたことがない。むろん、残酷描写があろうと、性善説をゴリ押しした美談めいた作品であっても、面白いものは面白い。しかしそれとこれはさほど関係がない。影響がないとは言わないが、ならば「檄文タイプ」のエッセイが散々話題になりながら、マナーやモラルに関しては事あるごとに議題に上ることを考えると、その効用に疑いを持たざるを得ない。


 むろん、無意味だと言いたいのではない。ないよりはあった方がいいという意味では私はこうした話題が絶えず論議されてゆく必要があると思う。だが浅い。言いたいことだけ言って去るだけでは結局のところ波風を立てて終わるだけで、考えたとは言わないのではないだろうか。考えるというのは話題に関して発言することではなく、話題に接して、本質を得て、具体的に発想することなんだと思う。そして考えるためには常に言説に責任めいたものが絶えず負わされていることも、忘れがたいのである。

 私は簡潔な議論などというものを好まない。思考は常に私の内側で渦巻いていて、現実は絶え間なく変動しているからだ。そこには常に矛盾が秘められている。その矛盾をあえて無視して、自己欺瞞のような単純さで表現することには耐えられないのである。簡潔な論議ほどその背後に切り捨てられたものが多いものだし、複雑な論議ほど混乱を極めて主体を見失なうこと甚だしい。だが私はあえて複雑な議論を選ぼう。たとえ話題に上ることがなかったとしても、表面的な話題となるよりは本質を考えるために立ち止まった方が、現在においては必要なことのように思えてならないからだ。

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