第13話/それでも撮影は続く
撮影が始まっても、現場の空気は一向に落ち着かない。
藤堂はカメラの前に立ち、目をギラつかせながら指示を飛ばす。声は冷たく、しかし絶対の命令口調だった。
「もっと血を! もっと苦悶を! 観客が息を呑むくらいに!」
俺は胃の奥で鈍い痛みを感じながら、ローラと山田を見た。
二人の目は怯え、緊張に歪んでいる。台詞の間合いも、感情の動きも、まったく噛み合わない。藤堂の要求は、現実の人間の限界を完全に超えていた。
「山田! もっと怒れ! 憎悪を全身で表現しろ!」
「ローラ! 泣きじゃくるだけじゃ足りない! 絶望を全身で体現しろ!」
監督席から飛ぶ命令は容赦がなく、まるで刃のように役者たちを切り裂く。
俺は手元のメモを握りしめ、必死に深呼吸した。
――こんな現場、どうやって乗り切ればいいんだ。胃が痛すぎて、立っているのも辛い。
カットがかかると、ローラは椅子に座り込んで泣き出した。
山田は必死で声をかけるが、ローラの震える肩は微動だにしない。
俺は彼女を抱き寄せて慰めたい衝動に駆られる。だが、プロデューサーとしての立場が邪魔をして、手を伸ばすことすらできない。
「これじゃ映画にならない……!」
心の中で叫んだが、藤堂の目はスクリーンの向こうの自分だけを見ている。
人間なんて、彼にとっては道具でしかない。血飛沫、叫び声、絶望――それさえ画面に残れば、すべて正しいのだ。
俺はうつむき、拳を握りしめた。
胃が痛い、頭も痛い、心も痛い。
――誰か、俺を殺してくれ。
だが現場は止まらない。
次のカット、次の演技、次の血飛沫。藤堂の怒号が飛び、スタッフが右往左往し、カメラマンは汗だくで追随する。俺はただ立ち尽くし、呆然と見つめるしかない。
時折、ローラが目をそらし、山田が視線を落とす。
だが藤堂は決して妥協せず、さらに過酷な演出を要求する。
「もっと絶望を! もっと痛みを! 観客の心を抉れ!」
俺は耐え切れず、手を胸に当てた。
胃の奥から鈍痛が波のように押し寄せ、視界がかすむ。
スタッフの声も、役者の呻きも、すべて遠くで響いているだけのように感じた。
その夜、ホテルの一室で俺は倒れこむようにベッドに横たわった。
胃の痛みは増し、冷や汗が背中を伝う。
手元には撮影スケジュールとメモの山。全てが重く、俺を押し潰そうとしていた。
――誰か、俺を殺してくれ。
その言葉だけが、心の奥で繰り返し鳴っていた。
現場は回り続け、映画は作られていく。だが俺の中では、信頼も安心も、希望も、すべてが血のように赤く染まって、消えそうで消えないまま渦巻いていた。
撮影の合間、俺は控室で頭を押さえて座っていた。胃の奥がずきずきと痛む。
そこへ山田がやってきた。いつもなら落ち着いた表情で、現場でも冷静に振る舞う男だ。しかし今日はどこか、肩を落としたように見えた。
「桐谷さん……ちょっと、相談があるんです」
その声を聞いた瞬間、俺の心臓が跳ねた。何か悪いことが起こる予感と、嫌な胸騒ぎが一緒にやってきた。
「……なんだ、山田。何だよ、今さら俺にか?」
ぎこちない笑みを作りながら、俺は答えた。
山田はゆっくりと座り、手を組んだまま俺を見た。
「……ローラと別れる決心がつきました」
その言葉に、俺の頭の中は一瞬、真っ白になった。
別れる……? ローラと、あの山田が? 今までのあの甘くて安心できる空気は、全部幻だったのか。
俺は思わず言葉を詰まらせた。
「……お、おい、山田……なんで?」
胃の痛みと胸の動悸がさらに強くなる。現場の喧騒も、藤堂の怒号も、すべて遠くの音のようにかき消されていく。
山田は少し間を置き、低く、しかし真剣な声で言った。
「ローラ……彼女、今回の件で俺に気を使いすぎているんです。会見でも現場でも、俺のことを気にして、芝居もまともにできなくなっている。……俺がいくら言っても、気持ちは揺らいでしまう」
俺は胃を押さえながら、その言葉を反芻した。
――なるほど、そりゃ確かに現場は滅茶苦茶だ。芝居が合わないのも、すべてそのせいか。
だが、別れる……か。
「山田……お前、本気で言ってるのか?」
俺の声は震えていた。手元のメモやスケジュール表を握りしめる指先まで力が入る。
「本気だ……もう、彼女に迷惑をかけたくない。自分のためにも、映画のためにも、これ以上は……」
俺は言葉を失った。
どんなに理屈を並べても、現場の混乱や藤堂の過剰演出、記者会見の騒動――すべての苦悩が一つにまとまって、山田の決断として俺に突き刺さった。
――俺は何もできないのか。
胃の痛みは鈍く、けれども心臓は張り裂けそうに早鐘を打っていた。
俺はただ黙って、山田の真剣な目を見返すしかなかった。
「……わかった。お前がそう決めたなら、俺は止めない」
声を絞り出すように言った。
だが心の中では、誰かを殺してほしい、いや、俺が今ここで消えてしまいたい、そんな思いが渦巻いていた。
山田は深く息を吐き、肩を落として立ち上がった。
「ありがとう、桐谷さん……」
その背中を見送りながら、俺は控室の床に深く座り込み、胃の痛みと心の痛みの両方に耐えながら、現場の喧騒を遠くに感じていた。
山田が控室を去った後、俺はしばらくその場に座り込み、頭を抱えていた。胃の奥で鈍痛がうずき、呼吸もままならない。現場の騒音や藤堂の怒号は、遠くで雷鳴のように響く。俺はただ、膝の上で手を組み、目を閉じて痛みと疲労を受け止めるしかなかった。
そこに、控室の扉が静かに開いた。
「桐谷さん……」
ローラの声だ。かすれた声で、でも確かに俺に呼びかけている。
顔を上げると、彼女は普段の明るさや天然さは影を潜め、目に涙をためて立っていた。手には小さなメモ帳を握りしめ、何かを伝えたそうにしている。
「ローラ……どうした?」
俺はぎこちなく立ち上がり、近づいた。胃の痛みで体はまだ重いが、目の前の彼女に気を配らずにはいられなかった。
「……私、桐谷さんに相談したくて……」
ローラは言葉を絞り出すように、震える手でメモ帳を差し出した。
「山田さんと……私、どうしたらいいのか分からなくて……。現場でも、会見でも、私がいても山田さんはちゃんと芝居できないし……」
その瞬間、俺は胸の奥で何かが弾ける音を聞いた。現場の混乱や藤堂の理不尽な演出、山田の苦悩――すべてが一つの塊となって押し寄せ、俺を揺さぶった。
「ローラ……落ち着け。俺が聞くから、全部話せ」
俺はそう言ったが、声が震えているのが自分でも分かった。胃の痛みがずきずきと響き、手のひらまで汗で湿る。
ローラは小さく頷き、涙をぬぐった。
「私……山田さんを困らせてしまったのは全部私のせいです。現場でも会見でも……私のせいで……」
俺は深く息をつき、手元のメモ帳に目を落とした。藤堂の指示、撮影スケジュール、役者たちの心理状態――すべてが渦巻き、頭の中でぐるぐると混ざり合う。
「ローラ……お前のせいじゃない。全部、藤堂が……いや、現場の状況がこうなってるんだ」
俺の声は途切れ途切れで、思わず自分でも驚くほど震えていた。
その時、控室の外で大声が聞こえた。
「カット! もう一度、最初から! 命を削れ!」
藤堂の怒号だった。
俺は顔をしかめ、ローラを見た。彼女も肩を震わせていた。
「……桐谷さん、どうしよう……」
その言葉に、俺は心の中で再び叫んだ。
――誰か俺を殺してくれ……。
控室のドアが勢いよく開き、スタッフが慌てて入ってきた。
「桐谷さん、現場が……! 俳優たち、もう限界です! 撮影が止まってます!」
俺は立ち上がり、胃の痛みでよろめきながらも深呼吸をした。ローラの手をそっと握り、スタッフの方に視線を向ける。
「分かった……俺が現場に行く。藤堂を抑える……いや、少なくとも話をつける」
控室を出ると、現場はもう阿鼻叫喚だった。
カメラマンが三脚を押さえ、照明スタッフが叫び、役者たちは台詞を忘れ、台本を見つめて硬直している。藤堂は相変わらずカメラの前で両手を広げ、怒号を飛ばしていた。
山田とローラの距離はさらに広がり、二人とも芝居どころではない。俺はその光景を見て、心の中で絶望的な思いに沈んだ。
――俺は、どうやってこの現場を生き延びればいいんだ……。
その瞬間、ローラが俺の肩を小さく叩いた。
「桐谷さん……お願いします」
涙を浮かべた瞳が、必死に俺を見上げる。
俺は深く息を吸い込み、胃を押さえながらも決意を固めた。
――ここで俺が逃げたら、全員が潰れる。誰も救えない。
俺は肩を震わせながら現場に足を踏み入れた。
藤堂の視線が俺に向いた瞬間、心臓が跳ねる。だが、もう引き返せない。
――俺はプロデューサーとして、この地獄を生き抜く。
そして俺は心の中で、もう一度だけ叫んだ。
――誰か、俺を殺してくれ……。