自決
大きな犠牲を伴いつつも撤退は成功しました。第三十二軍司令部としては、まず、喜屋武半島に集結し得た戦力を掌握せねばなりません。第三十二軍の各部隊は、小部隊ごとに長距離移動をし、あるいは殿軍として戦いつづけているため兵力の掌握は困難でした。正確な数字はなかなか把握できませんでしたが、八原大佐は概数を次のように推測し、今後の作戦の基礎としました。
第二十四師団 一万二千
第六十二師団 七千
独混第四十四旅団 三千
軍砲兵隊 三千
その他 五千
総合計 三万
さらに八原大佐は、その兵力の質を検討します。精鋭部隊は八割以上がすでに消耗してしまい、三万の兵力のほとんどは非戦闘部隊を再編成した未訓練部隊です。大隊長や中隊長などの幹部級は多くが戦死しており、従来のようなすぐれた戦闘指揮は望むべくもありません。歩兵部隊の兵器は五分の一にまで減少していました。軍砲兵隊は新陣地に十五サンチ加農砲二門、十五サンチ榴弾砲十六門、高射砲十門を配備しましたが、残弾は僅少です。しかも、観測が不充分で通信設備にも不安があります。陣地構築のための築城器材に事欠いたことも痛手でした。土工器材の多くを放棄して撤退したからです。頼りとすべき洞窟陣地を構築できません。
(いよいよ最後だな)
八原大佐は、そう考えざるを得ません。この頃、アメリカ軍は沖縄本島に二十万以上の大軍を集中させていました。これを、わずか三万の敗残部隊で防ごうというのです。どのような天才作戦家にも打つ手はありません。お手上げです。ここまでくると不満の言いようもありません。八原大佐は予定どおり、各兵団の配置を決めました。
日本軍の左翼は糸満方面です。ここには第六十二師団を配置します。中央の与座岳付近には第二十四師団を配備し、独立混成第四十四旅団を日本軍右翼の八重瀬岳に配備します。
アメリカ軍は、圧倒的な戦力で全戦線にわたって攻勢をしかけてくると予想されました。
摩文仁の海岸線には泉があり、清水を手に入れることができました。また、日光浴をするのにも好適でした。つかの間ながら、戦いを忘れることのできる場所でした。
しかし、六月四日の正午頃、長勇少将が軍服を脱いで日光浴をしていたところ、アメリカ軍の哨戒艇に銃撃され、危うく戦死するところでした。以降、アメリカ軍の哨戒艇群は、摩文仁海岸の沖五十メートルを遊弋しつづけ、水を汲みにやって来る日本人を見ると、軍民の見境なく銃撃しました。摩文仁洞窟には、第三十二軍のほか、数多くの避難民も逃げてきており、清水を得るために海岸線の泉にやってきます。結果、泉の周辺には飯盒や水筒を手にした民間人の死体が絶えなくなりました。軍人は、組織的に敵の油断を突いて水を汲みましたが、それでもときに銃撃され、戦死者を出しました。摩文仁の軍司令部さえ、もはや安全とは言えません。しかし、最前線はさらに悲惨です。
八原大佐の作戦意図は、第六十二師団に退却攻勢をさせてアメリカ軍の南下を一時的にでも停滞させ、その隙に軍の主力を喜屋武半島へ後退させるというものでした。しかし、第六十二師団は損耗し、疲労も甚だしかったため攻勢をとれませんでした。そのため、アメリカ軍の追従を受けながらの撤退を第三十二軍の各兵団はせざるを得ませんでした。撤退の中でも最も困難な状況です。
六月八日、戦線は糸満、与座、世名城、富盛、具志頭の線でした。休む間もなく戦い続ける第三十二軍の各兵団は、拠るべき陣地もなく、圧倒的なアメリカ軍にドンドン圧されました。要害と頼んだ八重瀬岳と与座岳もそれぞれ十五日と十六日にはアメリカ軍に占領されました。糸満方面の防衛線も突破され、ついにアメリカ軍は摩文仁の北二キロ、西二キロの線にまで接近してきました。摩文仁の洞窟陣地はアメリカ空軍の焼夷弾攻撃を受け、多くの戦死者を出しました。
もはや第三十二軍は風前の灯火に近い状況です。それでも軍司令部では軍務が続けられています。真っ暗な洞窟内にロウソクを灯し、参謀たちはそれぞれの任務を遂行し、報告や命令を起案します。長勇参謀長は、なお意気軒昂です。パイプをくゆらせ、悠々と花押を書き、参謀長室に参謀たちを呼び入れては酒を飲み、気炎をあげます。牛島満軍司令官は、あいかわらず丁寧な楷書で感状を書き、部下の報告を丁寧に聞き、摩文仁に避難してきた民間人に声をかけます。時間があると本を読んだり、小刀で鰹節を削ったりしています。
アメリカ軍司令官バクナー中将からの降伏勧告が摩文仁の軍司令部に届けられたのは六月十七日です。
「歩兵戦術の大家である牛島将軍よ。予もまた歩兵出身の指揮官である」
から始まる勧告文には、白旗を持たせた軍使五名を十二日に摩文仁海岸へ派遣せよ、と書かれていました。もはや期日を過ぎています。
「いつのまにか俺も歩兵戦術の大家にされてしまったな」
牛島中将はそう言って笑うのみでした。
六月十八日、朝、長参謀長は、軍司令部の参謀たちに命令を与えました。ある者には遊撃隊を率いて国頭方面で戦えと令し、ある者には沖縄を脱出して本土へ至り、沖縄の戦訓を参謀本部に伝えよと命じました。八原大佐に対する命令は、本土帰還と戦訓伝達でした。
もはや第三十二軍は崩壊しつつあります。各兵団との電話は不通となっており、ときどき無電が通じるのみです。相互連絡は徒歩伝令に頼っています。その伝令が命がけで軍司令部にもたらすのは悲報の数々です。
「某連隊長戦死」
「某大隊全滅」
「某方面に敵戦車侵入」
もはや防衛線は突破蹂躙されており、各兵団は孤立していました。しかし、八原大佐にはなにもできません。すでに一兵の予備軍もないのです。長参謀長は、日米両軍の配置が描き込まれた地図をにらみ、「これでよいのだ」とつぶやきました。
戦線が混乱し、各隊は孤立し、通信手段も失われてしまうと、軍司令官には全軍を統一指揮する術がありません。
「最後の命令を起案せよ」
牛島軍司令官が言いました。長野少佐は感動の面持ちで八原大佐に言います。
「高級参謀殿、これが最後の軍命令です。参謀殿が起案してください」
第三十二軍司令官は、これまで数多くの軍命令を発してきました。その命令綴りは分厚い二冊子に閉じられています。それが、いよいよ最後となったのです。
「いや、これまでも命令の相当部分は貴官に起案してもらった。最後の命令も貴官に頼むよ」
「はい」
最後の軍命令を長野少佐が起案し、それに八原大佐が手を入れました。
「親愛なる諸氏よ。諸氏は勇戦敢闘じつに三ヶ月、すでにその任務を完遂せり」
という文言から始まる命令文です。長参謀長に決裁を求めると、参謀長は赤インキに毛筆を浸し、剛胆な文字で加筆しました。
「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」
牛島軍司令官は、いつもどおり黙って決裁の署名をしました。こうして最後の軍命令が発せられました。もはや作戦参謀の任務は終わったのです。
(やり終えた)
そんな恍惚感が疲れ切った八原大佐の心身を満たしました。
牛島満軍司令官は、この夕、決別電を参謀本部と台湾軍に発信しました。
「全軍将兵鬼神の奮励努力にもかかわらず陸海空を圧する敵の物量制し難く、戦局まさに最後の関頭に直面せり。・・・全員あるいは護国の鬼と化して敵の我が本土来寇を破摧し、あるいは神風となりて天翔け必勝戦に馳せ参ずる所存なり」
六月十九日、ついにアメリカ軍の戦車が摩文仁高地に砲撃を加える状況となりました。軍砲兵隊は、残ったわずかの速射砲で敵戦車を砲撃しました。
夜、牛島軍司令官は全幕僚を集め、わずかに残った缶詰と酒で決別の宴を張りました。
その後、木村、三宅、薬丸、長野の各参謀は、長参謀長の命令を実行すべく摩文仁の軍司令部を脱出することになりました。その際、薬丸少佐だけは軍服を着用しましたが、ほかの三参謀は民間人に変装するために着替え、偽名や職業を用意しました。携行品は、白米、かつお節、乾パン、缶詰、塩、薬品などです。参謀ひとりに二名の随行者がつきました。いずれも鉄血勤皇隊の少年です。彼らは地元の地理に詳しいので案内役として最適任でした。
この夜、摩文仁の丘には敵の砲弾が激しく降り注いでいましたが、その間合いを計り、各参謀は軍司令部を脱出していきました。軍司令部は急にガランと広くなりました。
六月二十日、軍司令部と各兵団との通信連絡は途絶してしまい、戦況は不明となりました。ほんとうに何もできなくなり、八原大佐は呆然としていました。そこに通信班長がきて、「台湾軍から感状が届きました」と言い、八原大佐に紙片を手渡しました。その感状を読むうち、八原大佐は歓喜に包まれていきました。素直にうれしかったのです。しかし、頭の片隅には別の考えがあります。
(なぜ、こんなにうれしいんだ。こんなもの。俺の作戦を台無しにしたのは台湾軍の作戦干渉だ。あの連中に誉められてもうれしくなどないはずなのに。そもそも美辞麗句だらけの形式的な感状など空々しいだけじゃないか)
しかし、不思議と、うれしれかったのです。身体が熱くなり、目に涙がにじみました。八原大佐は参謀長室に向かい、真っ暗な参謀長室に声をかけました。
「参謀長殿、台湾軍より感状が届いております」
このとき長少将は横臥していましたが、すぐ起き上がり、ロウソクをつけました。
「貴官、読んでくれ」
「はい」
「俺もここで聞いているよ」
そう言ったのは隣室の牛島軍司令官です。その場にいた副官と当番の女性たちも聞き耳を立てます。
「陸軍中将牛島満統率のもと、三月二十五日以降、沖縄島に上陸せる敵に対し、熾烈な砲爆撃下、孤立せる離島に決死勇戦すること三閲月、この間よく部隊の精強を発揮し、随所に敵を撃砕して、これに甚大なる消耗を強要し、もって中外に皇軍の威武を宣揚せり。しかも敵海上勢力を牽引し、我が航空作戦の戦果獲得に寄与せる処また大なり」
八原大佐は、感じている喜びのままに読み上げました。軍司令官も参謀長も何も言いませんでしたが、ロウソクの灯に照らされた顔は満足げです。
「これ軍司令官の適切なる統帥のもと挙軍一体尽忠の誠を致し、平素訓練の精華を遺憾なく発揮せる結果にして、その善謀敢闘は真に全軍の亀鑑たり」
八原大佐が読み終えても、二将軍はただ満足げな顔をするだけでした。八原大佐はその場で返信を起案し、長参謀長の加筆を経て、軍司令官の決裁を受けました。
六月二十一日、第三十二軍司令部は、摩文仁高地で玉砕することを決しました。
夜、参謀総長と陸軍大臣の連名による決別電が届きました。この中に重要な情報がありました。
「第三十二軍が高潔なる牛島将軍の統率のもと、勇戦敢闘じつに三ヶ月、敵の首将シモン・バクナーを殪し、その麾下八個師団に痛撃を与え」
アメリカ軍司令官バクナー中将は、十七日に戦死していたのですが、第三十二軍司令部はこの事実を知りませんでした。
「よし、やったぞ」
軍司令部内は湧き上がりました。長少将は躍り上がらんばかりに喜び、八原大佐も我を忘れました。副官も当番兵も欣喜雀躍しました。しかし、牛島中将だけは黙っていました。そして、困ったような顔をして、喜んでいる軍司令部内の部下たちを眺めていました。このため、軍司令部内はすぐに静かになりました。
(ああ、牛島中将はほんとうに偉い方だ。敵将の死を悼んでおられた)
八原大佐は、牛島将軍の真髄に触れたような思いでした。
六月二十二日、摩文仁洞窟の軍司令部内にはさかんな機銃音が聞こえていました。摩文仁を守備する機関銃の発射音です。その音が途絶えたのは正午頃です。その一時間後、洞窟内に爆音が響きました。アメリカ軍が垂直坑道に手榴弾を投下したのです。八原大佐のいた参謀室にも爆煙が吹き込みました。
「防毒マスクをつけろ」
叫ぶが早いか、八原大佐はマスクをつけました。そのときアメリカ兵の笑い声が遠くに聞こえました。
「ここは大丈夫だ。中央の山頂出口を固めろ」
すぐ近くにいた衛兵に号令しました。そこへ当番兵の勝山伍長が駈けてきて報告します。
「山頂を占領されました。敵の爆雷が洞窟内で爆発して参謀長室あたりには死傷者が一杯です」
八原大佐は懐中電灯を手にし、濛濛たる坑道を歩きました。血の臭いがします。十数名の将兵が折り重なって倒れています。参謀長室は吹き飛ばされていましたが、参謀長は無事です。憮然とした表情で軍司令官室の寝台に座っていました。牛島軍司令官も無事です。みなが両将軍を守るように周囲を固めています。ただ、牛島将軍付の当番嬢だけは椅子に座って堅く両手を握りしめていました。よほど恐ろしかったに違いありません。
ここにおいて、牛島軍司令官と長参謀長は最後の決心をすることになりました。
「二十三日黎明、最後の突撃を敢行し、自決する」
参謀室に戻った八原大佐は考えます。
(いよいよ終わりだ。俺もここで死ぬべきか)
疲れていました。戦闘が始まった四月以来、休息らしい休息はありません。
(本土に帰れと命令されているが、果たしてアメリカ軍の重囲を突破できるものか。帰ったところで、卑怯者として冷遇されるだけではないか。いや、それはいい。それより上級司令部の作戦干渉をやめさせねばならぬ。本土決戦をやったとしても、第三十二軍を悩ませた作戦干渉が再発したら、勝てる戦さも勝てぬ)
八原大佐は作戦家だけに、ものごとを考え過ぎるという欠点があります。洪水のような想念に襲われて悶死するような思いをしたあげく、命令を守ることに決めました。
夜、摩文仁の軍司令部に残ったわずかの将兵が敵軍に突撃を敢行しようと準備を進めました。しかし、あまりにも戦力が違いすぎました。八原大佐は、その様子を長参謀長に報告しました。
「残念ながら断念のほかありません。最後の突撃は中止して下さい」
長勇少将は、人生最後の酒を楽しんでいました。
「そうか。まあ、一杯呑め」
そう言って酒を勧めます。
「お前とは、サイゴンでよく呑んだなあ。俺もお前も横紙破りのワガママ者だったので、苦労のあげくこの運命を甘受するに至った。俺は着任の当初から、決してお前をこの島では殺さぬと言ってきたが、その約束を守ることができて満足だ。敵線突破は必ず成功する。一気呵成は禁物だぞ。一日かかるところを三日でやれ。これは起死回生の妙薬だ。どんなに疲れても、これを呑めばたちどころに元気を回復する。それから先立つものは金だ。持っていけ」
そう言って長少将は丸薬と百円札五枚を渡してくれました。攻勢か守勢かをめぐって意見を対立させてきたふたりですが、もはや何のわだかまりもありません。
六月二十三日、午前三時、ふたりの将軍は軍司令官室で会話を交わしていました。そこへ次々と、別れの挨拶をするために部下たちが入れ替わり立ち替わりやってきます。
早暁の薄暮の中、海岸沿いにある坑道口のそばにつくられた切腹の座に向けて両将軍は歩きます。その途中、長勇少将は八原大佐をふりかえって言いました。
「やはらあ、沖縄戦はどんな作戦をとっても、結局、わが軍が負けるに決まっていた。おまえは本土に帰っても作戦の是非を論ずるな」
そう言うと、やや間をおいてさらに言いました。
「後学のため予の最期を見ておけ」
二将軍は着座すると、作法どおりに腹を切りました。介錯したのは副官の坂口勝大尉です。
八原大佐は、しばらく摩文仁の洞窟陣地にとどまっていましたが、本土へ帰還せよとの命令を実行するため、難民に身をやつして洞窟を脱出しました。携行品は、焼き米五合、かつお節二本、ブローニング銃一丁だけです。
海岸を匍匐前進し、安全を確かめて一気に駈け出したところ、不幸にも転倒し、転落してしまいました。その拍子に拳銃と焼き米を失い、身体中に怪我を負いました。心細くなりましたが、断崖を歩きつづけました。
安全な岩陰や洞窟に身を隠しながら行くこと数日、敗残兵や避難民に会い、幾多の戦死体を見、サンゴ礁を歩いたり、海中を泳いだりしながら、敵を警戒しつつ、遅々と具志頭まで進みました。断崖を登って適当な隠れ場所をさがすうち、ひとつの洞窟を見つけました。すでに難民と敗残兵が五十名以上います。
二日ほど、この洞窟で呆然と過ごしました。だれもがアメリカ軍を恐れ、死を考えている様子です。
(そんなバカなことはない)
死ぬ必要はありません。とくに民間人が死ぬ必要はないのです。そう思いましたが、八原大佐は目立たぬように黙っていました。本土へ脱出するためには目立たない方が良いに決まっています。
三日目、不覚にも、気づいたときには洞窟がアメリカ軍に包囲されていました。
「カモーン」
アメリカ兵が英語で投降を呼びかけます。しかし、沖縄の戦災民たちには意味がわからず、ひたすらに怯え、けなげにも戦おうとしています。また、小銃を所持している敗残兵は、あくまでも戦う姿勢を見せていました。八原大佐は思案します。
(もはや逃げもならない。戦っても死ぬだけだ。目立つことはしたくないが、やむを得ん)
意を決した八原大佐は立ち上がり、洞窟内の避難民に呼びかけました。
「みんな、聞いてくれ。アメリカ軍は投降を呼びかけている。その要求どおり、洞窟の外に出るのが最も賢明だ。みんなが賛成ならば、わたしがアメリカ軍と交渉する。わたしは英語がわかるし、アメリカで生活したこともある。大丈夫だ」
みな黙っています。賛成する者はいません。アメリカ兵を恐れているのです。年頃の娘とその両親は泣きながら言いました。
「それはやめてください」
八原大佐は、強く説得します。
「心配するな。わたしがアメリカ兵と交渉する。言葉さえ通じれば、アメリカ兵は鬼ではない」
八原大佐は、両手をあげて洞窟の出口に近づき、ひとりのアメリカ兵に話しかけました。
「この洞窟には数十名の民間人がいる。今から出ていくから発砲しないで欲しい」
「オーライ」
八原大佐は、ゆっくりと洞窟の外に出ました。そこには数名のアメリカ兵がいました。殺気も敵意も感じられません。八原大佐はアメリカ兵に話しかけ、洞窟内の様子を説明しました。さらに、自分はアメリカに行ったことがあると、雑談をはじめました。アメリカ兵と意思を疎通させておいて、八原大佐は洞窟内に呼びかけます。
「おい、みんな、大丈夫だ。出てきて大丈夫だ。ほら、見てみろ」
八原大佐が洞窟内に呼びかけると、避難民たちは、こわごわと出てきました。アメリカ兵は親切でした。老人には手を貸し、子供は抱きかかえ、難民たちを海岸から哨戒艇に載せて港川へ運びました。
その後、八原大佐は民家に泊まりながら、身分を隠しつつ、アメリカ軍の労務作業に参加しました。そのまま七月になりましたが、ついに身分が露見し、捕虜となります。
捕虜としての待遇は悪くありませんでした。それでも八原大佐は脱走を考えつづけました。しかし、そのまま八月十五日の終戦となりました。
昭和二十年十二月三十日、八原大佐は牧港から米輸送船ゲーブル号に乗り、帰国の途につきました。昭和二十一年年一月七日、浦賀に上陸し、空襲で焼け野原となった戦災地を見ながら東京まで歩き、市ヶ谷に出頭しました。
七月、八原博通大佐は第三十二軍残務整理部長となり、第三十二軍の後始末をすることになりました。




