おまけ① ゼンマイお兄様と舟遊び
「どうしてお兄様は笑ったりびっくりしたりしないんですか? 楽しくないんですか?」
今日は天気が良いから、とトリーは齢の離れた兄と一緒に、庭園の東屋で休憩していた。最近は熱を出してずっと屋敷から出られなかったので、外に出るのは久しぶりだった。兄の方は治ってよかったよかった、と妹に言ったきり、ずっと本に目を通している。分厚くて難しそうな本で、読んでもらっても面白くはなさそうだった。そもそも兄に本を読んでもらっても、ずっと同じ調子で喋り続けるような読み方をするので、いつも途中で寝てしまう。
ちなみに兄の臣下だと言うカークですら、トリーが廊下の角からばあ、とやるとびっくりはするのである。止めて下さいよ、と困った顔を見せる。仕事中ですから、と笑う事は少ないが、兄ほどではない。
それを説明すると、兄は本から目を上げてこちらを見つめる。その顔には何の表情も浮かんではいなかった。
「じゃあ、トリーには本当の事を教えよう。私は実はゼンマイで動いているのだが、顔の部分に巻く用のゼンマイを失くしてしまって。それで笑ったりできなくなった」
内緒だぞ、と兄は大真面目な顔で秘密を教えてくれた。
「……トリー様、今度は何を探しているのですか?」
内緒、とトリーがベッドの下を覗き込んでいると、どうやら様子を見に来てくれたらしいカークが怪訝な表情を浮かべて立っている。ひょい、と身を屈めて、一緒に暗く狭い場所に目を凝らしてくれた。
トリーがお人形遊びの玩具の部品を失くす事はよくあったので、今度もそれだと思ったのかもしれない。
「誰にも言わないなら教えてあげる。お兄様のゼンマイ」
「……兄君の? 失くしてしまったんですか?」
カークは察したらしく、私が探しますからゆっくりして下さい、と言ってくれた。けれど忙しい彼にそれは悪い気がして、トリーは私が探さないといけないの、と言い張って屋敷をあちこち探し回ったが、なかなかそれらしき物は見つからなかった。
「あと、探していないのはどこでしょう? お嬢様」
「お兄様の私室はまだ全然手をつけられていないの。お庭も、あまり行かない薬草園の方はまだまだ。このままじゃあ、お兄様はずっと楽しくないままなの」
「……左様ですか。けれど正直に話せば、怒らずにいて下さると思いますよ」
「お兄様って怒ったりもできないのよね、大変だと思う」
「……? あの、ゼンマイとは、先日兄君様からお土産に頂いた、ゼンマイ人形のお話ですよね?」
「そっちじゃなくて、お兄様のゼンマイなの」
それまでおもちゃ箱の中身をひっくり返していたカークが手を止め、こちらに怪訝そうな視線を向けている。トリーは内緒だと前置きし、実はゼンマイで動いている兄の秘密をこっそり打ち明けた。
「……トリー、実は兄がゼンマイで動いているというのは冗談だ、悪かったな」
「ええ?」
その次の日、トリーは兄の私室に呼び出された。いつもよりお菓子の量が多く、トリーの好きな物ばかりである。用意してくれた料理長のアンガスが恭しく、そしてどこか笑いを堪えるようにしてお辞儀をして退室した後、兄が口を開いた。
「すまなかった、からかうのが面白くてつい調子に乗った。これはお詫びに料理長に作ってもらったから、好きなだけ食べなさい」
「……お兄様ったら、全く。カークも探すのを手伝ってくれたんですよ」
トリーはできるだけたくさん食べた。あんなに頑張って探したのに、という抗議の意味を込めて、食べている間は一言もしゃべらず、目も合わせなかった。食べ終わってから、こういう事はとても困るという主旨の文句を思いつく限り兄にぶつけておいた。
「……だがゼンマイ式、というのは言い得て妙だとも思った。笑ったりびっくりしたりはするけど、顔に出ないだけで、最近は面白い事もあるし、ご飯は美味しい。咲いている花を綺麗だと思う事もあるし、外出先だったらトリーに見せられなくて残念だとも思うから、庭師に同じ花を屋敷に植えられないか、相談したりもする」
二人でお腹いっぱいになった後、兄は自分なりに言葉を選びながら、トリーに少し話をしてくれた。カークにも謝っておく、と言うのでそうして下さい、と伝えた。お人形遊びの相手をしてもらっているうちに眠たくなってうとうとしていると、お部屋まで送ると言ってくれたので、いつものように抱っこしてもらった。
「そういうわけなのカーク、お兄様ったら。カークも文句を言っておかなきゃだめよ」
「……いえ、仕事ですので」
次の日、いつものように様子を見に来てくれた彼に、トリーは昨日の兄とのやり取りを説明した。カークもしょうがない主人だ、くらい言っても良さそうなのに、兄を悪く言う事は一度も聞いた事がなかった。
いつも困ったように笑うばかりなので、トリーはいつも心配になってしまう。それは使用人ですから、といつも一歩引いてしまう彼との間に、絶対に越える事のできない高い壁や、水の深く速い流れが横たわっているようだった。
小さなトリーはその事に気がついて、少し寂しいと感じてしまったのである。
さて、あれから随分と時は流れ、いつもトリーがどこに行きたいとか、何をしたいと決めてカークはその通りにしてくれる。それならば今日はカークのしたい事を一緒に、と手紙に書いて送ると、屋敷の近くにある舟遊びができる綺麗な湖に連れて行ってくれた。
兄も甥のキリルを連れて一緒に来てくれた。今は別の舟で近くにいる。甥がご機嫌に鳴らすラッパが時折聞こえていた。そちらに手を振りつつ、トリーは束の間の二人きりを楽しんだ。
紆余曲折を経て、トリーはカークと婚約したのである。現在は正式な婚約者だった。なのでお付きの人間を引き連れてどこかへ遊びに行く機会が増えた。
だが婚約者であって恋人ではないので、以前とそこまで付き合い方がガラリと変わったわけではない。相変わらず生真面目な領地の跡継ぎ息子である。多分結婚して神殿で誓いの言葉を述べて指輪を贈り合うその時まで、手以外にキスなんて絶対にしそうにない男だった。
トリーはそういうカークが好きだが、そうではないカークに会ってみたいとも思っているので、あれこれ考えを巡らせながら毎日を過ごしている。もちろん、勉強の合間にである。
身近で参考になりそうな例として、兄だが義姉に甘え過ぎだと思う。それに具体的にあれこれ聞き回るのは何だか嫌なので放っておいた。ではアリスにエディ君はどうか、話せる範囲で教えてくれるように頼むと、少し恥ずかしそうにしながら、二人きりの時は甘えてくれる事もあるのだと教えてくれた。可愛いところもあるのですよ、と言う。
あの仕事のできるエディ君が、とトリーはその話に聞き入った。先日、アリスが不意打ちで玩具の指輪を贈ったら少し動揺させる事に成功したのだと嬉しそうだった。大人しそうなアリスからいきなり指輪という、恋人として重要な贈り物が出て来たらさぞかしびっくりしただろうな、とトリーはエディ君に少し同情した。
というわけでその情報を元に、トリーは自分に甘えて来るカークという可能性を考慮する事にした。一生懸命妄想、ではなく想像を巡らせてみたが、あまり上手くはいかなかった。付き合いが長いと良い事も悪い事もあるものだと思う。
「以前にお嬢様が、お月様に手を伸ばすのには舟か梯子、とおっしゃっていましたので」
「今はお昼だから、お月様はいらっしゃらないのに」
「夜に舟遊びだなんて危険な事は絶対にだめですよ」
トリーは夜の舟をこっそり出してもらい、湖面にゆらゆら揺れる月を捕まえるのは何だか幻想的でいいな、と思うのだが、危険なら絶対にさせてもらえないだろうともわかっている。カークはそういう男であるし、そこが良い所でもある。
けれどトリーがカークと結婚したいと伝えそれを了承したなら、もう少し別の彼に会ってみたい、とも思うのだった。
「じゃあ、想像するだけ。……二人は夜の湖に舟を漕ぎ出すの。どうしてもそうしなきゃいけない理由があった前提で。そして、追手がかかって舟が転覆しちゃったら、カークならどうする?」
カークならまあそんな事になる前に手を打つだろうけれど、想像するのは自由である。きっと兄の大事なゼンマイを盗み出したとか、おそらくそんな感じだ。
「……命に代えても、お嬢様だけは息ができるようにしますから」
「……ちょっと、急に過激な詩集から引用して喋らないで。びっくりしちゃった」
生真面目なカークだが、婚約期間を楽しみたいトリーのために、絶対に題名を教えてくれない詩集を読んで、トリーにたまに居合わせた義姉やアリスがちょっと目を瞠るような台詞を吐く事がある。
本人はそれを失態だと感じるようで、しばらく俯いて何も喋られなくなる。トリーは生真面目なカークが好きだがそういう姿を見たいので、耳まで真っ赤にしている彼をしっかりと目に焼き付けておくのだった。
「……お嬢様、大人をからかうのはお止め下さい」
「だって、キリルがこっちを見ているもの」
「……」
舟を降りた後で、甥と一緒に乗っていた兄から、また何か面白い事でも言ったのかと聞かれると可哀想である。トリーは日傘をひょい、と傾けて彼の顔をあちらの船から見えないように隠しておいた。
という口実でトリーは自分の婚約者に誰にも苦言を呈される事なく接近するのにまんまと成功したのである。
今の婚約者は舟を漕ぐための櫂を両手に持っているので無抵抗である。むすっとした顔で目を逸らしているカークも可愛いな、と存分に二人きりを満喫するのであった。