橙の現状
その日家に帰った私は、居間にいる人物を見て目を瞬かせた。その人物は、私に気づくと腕を組み、こちらを睨む。
「遅いですわ。どれ程待ったとお思いですの?」
「あ、ああ、すまない……」
何となく気圧されて謝ってしまいながら、私は彼女を呆然と見つめた。
「……黎翡」
「何ですの?」
いや、何ですの、じゃなくて。
「……髪を、どうした?」
黎翡の髪は、腰辺りまである艶やかな赤茶髪だった筈だ。それが、何とも豪快にばっさりと短く切られていた。女性である黎翡にとって、それはかなり思い切った行動の筈だ。
「気分転換ですわ」
事も無げに、黎翡は言った。
「何だか色々と吹っ切れましたの。だから、何もかも新しくやり直しますわ」
だから、手始めに髪を切った、と。
黎翡はあっさりしたものだが、この世界の女性にとって、髪をばっさり切るというのはかなりの勇気を要する筈だ。特に上流階級ともなれば、男でも髪を伸ばしている方が普通の世界だ。
私は無意識に、黎翡の髪に触れていた。
「……勿体ないな」
「別に惜しくなどありませんわ。過去の私と訣別した証と思えば寧ろせいせいします」
「でも、生半可な覚悟ではなかっただろうに」
私が苦笑すると、黎翡はふいとそっぽを向いた。
「髪などまた伸びますわ」
もう、取り返せない物もある。黎翡の言葉の裏に、そんな含みが隠されている気がして。私は敢えて無遠慮な手つきで黎翡の頭を撫でた。
「何をするんですの!?」
黎翡が怒って私の手を払い除ける。乱れた髪は、彼女が手櫛ですくと元に戻った。
「いや、つい」
「何がついですの!?」
私の曖昧な答えに、黎翡は憤りの声をあげる。私はくすりと笑った。
「随分元気になったじゃないか。お転婆な貴女に、その髪はよく似合うよ」
私がそう言うと、黎翡は一瞬目を見開いて、それから勢いよく逸らした。
何かまずかったかな。
ちょうどそこに居た範蔵に目を向けると、呆れたような溜息を返された。
何なんだ、一体。
「駄目だよ、鴻宵。戦姫はそういうの慣れてないんだから。この天然たらしめ」
いきなり割り込んできた声に、私は溜息を吐きたくなるのをぐっと耐えながら振り向いた。心当たりなんて一人しかいない。
「……来てたのか、慎誠」
「たった今ね」
居間の戸口に立っている慎誠は、いつもの調子でひらひらと手を振った。今回は窓からは入らなかったようだけれど、門番をしている衙桐の声も聞こえなかった。相変わらず普通に入って来てはくれないらしい。
「お前……っ!」
慎誠の姿を見た黎翡が、椅子を鳴らして立ち上がった。そういえば、誰かが言っていたな。黎翡が一時都に戻ったのには庵氏兵団が一枚噛んでいるとか何とか……。
「やあ、暫くぶりですね」
にこやかに挨拶する慎誠を眺めていると、いきなり黎翡にきつく睨まれた。
「そういう事……貴方が糸を引いていましたのね!?」
何やら誤解されている。
「違いますよ」
私を睨み付ける黎翡に、慎誠が横槍を入れた。
「俺は鴻宵の友人であって臣下じゃないし。あれは庵氏兵団の平穏の為に俺が勝手にやった事で、鴻宵は関係ありませんよ」
珍しく発言も口調もまともだ。
私は慎誠の発言を支持するように黎翡の肩を叩いて宥めた。しかし黎翡は納得いかないらしく、私の手を振り払う。
「信じられるものですか!貴方は……」
「何を騒いでいる?」
不意に、平静な声が割り込んだ。戸口に目を向けてみれば、青灰色の髪が目に入る。
「……春覇」
「覇姫様。お騒がせを」
私がすかさず会釈をすると、黎翡は目を眇めて私を見た。
「貴方、自分の妻に対していつもその調子ですの?」
何やら不満げだが、私と春覇の対外的な立場を考えればこれは自然な事だ。
「いけないか?」
「情けないとは思いませんの?」
「別に」
私は即答した。黎翡が一瞬目を見開いて、それから舌打ちをする。
「……私は、嫌いですわ、そういうの」
半ば呟くように、それでいて吐き捨てるように、黎翡が言う。やけに感情的なその態度に問いを発しようと口を開いた私は、思わぬ声を耳にした。
「同感だな」
「覇姫様!?」
いきなり何を言い出すんだ、春覇。
私が目を見開いて硬直していると、春覇は側まで歩み寄ってきて私の胸を叩いた。
「春覇、だ」
「しかし……」
「家の中でまで外向きの扱いをされるのは、正直気に食わんな」
いやそんな事言われても。戸惑う私をよそに、春覇は黎翡の隣に腰を下ろす。
「夫に他人行儀な扱いをされるのは面白くないものだ。そうは思わんか、黎翡」
「その通りですわ」
なんと。この二人に手を組まれるとは。勝てる気が全くしないんだが。
「そう仰せになりましても……」
「春覇」
煮えきらない私の言葉を遮って、黎翡が爆弾を投下した。
「この男、寝所でもこの調子ですの?」
「ごふっ」
あ、漣瑛が噎せた。慎誠は無言で体を丸めている。きっと爆笑しているに違いない。範蔵もそっぽを向いたまま肩を震わせていた。
私はというと、盛大に頬をひきつらせる。
「……黎翡?仮にも嫁入り前の女性が……」
「無益な恥じらいなんぞ私が持ち合わせているとお思い?」
左様で。
いやいや、できればちょっとは持ち合わせて欲しいというか。
「で?どうなんですの?」
「さぁ、どうだったか」
ここで春覇がまさかのはぐらかし。流石に春覇は黎翡と違ってこういう話題に気まずさを覚えるのか、若干目が泳ぎ気味だ。
「っていうか戦姫様さぁ」
唐突に、能天気な声が割って入る。言わずと知れた慎誠だ。笑いは収まったらしいが、こいつがこうして口を挟むと嫌な予感しかしない。
果たして、慎誠が投下したのもまたなかなかの爆弾だった。
「そうして突っかかるのって、鴻宵の態度が元婚約者とだぶるからなんじゃないんですか~?」
「っ」
黎翡が言葉に詰まる。
元婚約者。それはすなわち、岸鵠だ。黎翡が碧に囚われるとすぐに掌を返した、あの。
「……だから何だと仰いますの?」
黎翡と声音に冷たさが混じる。それに気づいていないわけもあるまいに、慎誠はへらりとした態度のまま、言った。
「同列に扱うのは、鴻宵が可哀想ですよ。鴻宵は単に、夫の方が妻より強くて当然とか、家長が偉いとかそういう観念を持ってないから、普段の身分に基づいて覇姫様に接してるだけ」
そう説明して、猫のように目を細める。
「だから別に覇姫様に実力的な引け目を感じて距離を置いてるわけじゃない……貴女の元婚約者と違ってね」
「慎誠」
私は咎めるように声をあげた。それ以上は言い過ぎだ。慎誠は肩を竦めた。黎翡は俯いている。
「……その通りですわ」
低く、黎翡が言った。
「岸鵠は、必要以上に丁重に私に接していました。それはきっと、私の方が武芸に長けていることに矛盾を感じていたからだろう事に、彼と別れてから気づきましたわ」
そこに矛盾を感じる根底には、男は女より強いものだという固定観念がある。黎翡も春覇も強い女性だ。夫がその固定観念から逃れられない人であれば、容易に夫婦関係が捩れてしまいかねない。多分黎翡は、自分と岸鵠との経験があるから、春覇に同じことが起こらないか心配したんだろう。
もっとも、私と春覇の場合そんな矛盾は起こり得ないわけだけれど。私も女なわけだし。
……私の方が身長低いのは微妙に気になるけどね!
「安心しろ黎翡」
春覇が黎翡に声を掛ける。
「そもそも鴻宵が私に劣るという事は無い。それに」
私に目を向けて、淡々と言う。
「元来友人だ。家臣の手前態度を変えているに過ぎん」
「覇姫様!?」
私は思わず叫んだ。何さらっとばらしてくれてんの、この人は。
「あら、そうなの。でもこの家は既に十分非常識ですわ。春覇に対する態度だけ取り繕っても意味は無いと思いますけれど」
「同感だな」
黎翡と春覇に組まれては、私に太刀打ちできるはずもない。
がっくりと項垂れて溜息を吐きながら、私は白旗を揚げた。
「わかったよ……家の中では、普通に話す」
「そうしてくれ」
春覇が微かに笑った。
「私も、家は気を張らずにすむ場所であって欲しいからな」
「……そっか」
私も微笑を返して、席に座る。
この場所が、春覇にとっても居心地の良い場所になるなら、それに越した事は無い。
と、ここまで黙っていた慎誠が口を開いた。
「じゃあ俺もため口きいていい?敬語って慣れないから疲れるんだよね~」
期せずして、三人の目がそちらに集まる。黎翡と私が、同時に口を開いた。
「却下」
同じ言葉が重なる。
「ええ!?なんで~!」
慎誠が不満げに騒ぐのを、黎翡は冷ややかな目で見遣った。
「鴻将軍の友人という以外に何の素性もわからない相手に気安い態度を許すほど落ちぶれてはおりませんわ」
「酷い!」
慎誠は傷ついたような仕草をして見せたが、黎翡は鼻を鳴らして無視を決め込む。私は溜息を吐いた。
「お前はもう少し立場を弁えろ。私と違って確たる地位も持っていないんだから」
「身分差別反対~」
この世界で四民平等はちょっと斬新すぎるぞ。
「まぁ、それは半分冗談だけどさ」
半分か。
呆れる私をよそに、慎誠は黎翡に目を向ける。
「俺は橙の現状を鴻宵に伝えに来たんだけど……」
言外に、聞きたくなければ席を外すよう勧めた。黎翡にとって酷な話も含んでいるのかも知れない。
慎誠が珍しく見せた気遣いに、しかし黎翡はひらりと手を振った。
「話してくれて構いませんわ。私は吹っ切れましたから」
その表情は、実際もう気になどしていないというようなさっぱりしたものだ。慎誠はちょっと目を瞬かせた。
「そこに至るまでに一体何があったのかちょっと気になる気もするけど……まぁ、まずは報告だね」
軽く咳払いをして、私の隣に座る。その膝に、どこからか駆けてきた哀が飛び乗った。
「橙はこっちの圧力に負けたのか、ひとまず碧の要求を呑んで人質を寄越す事にしたようだよ」
黎翡と春覇が、揃って何とも言えない顔をする。慎誠は淡々と続けた。
「人質は牧燕玉……今回は婚姻って形は取らずに、親善滞在って事になるらしい」
私は、ちょっとだけ肩の力が抜けるのを感じた。もし万が一、今回の人質が婚姻の形で差し出されるとしたら、その相手となるのは太子蒼凌をおいて他にはいない。そういう事態にならなかった事に、何だかとても安心してしまう。
「理由は二つ。一つは、碧の太子が婚姻に賛成しなかった事。もう一つは、牧燕玉に婚約者ができたから」
さすがに、黎翡がぴくりと反応した。私と春覇も、思わず顔を見合わせる。
牧燕玉の婚約者。
それって、まさか……
「お察しの通り」
慎誠が、現実をつきつける。
「岸鵠が牧燕玉と婚約したんだ」
私は黎翡の表情を窺い見た。はらはらする私をよそに、彼女は何でもない風に鼻を鳴らす。
「そう。お前の予見した通りになったわけですわね」
「動じないんだね」
慎誠は意外そうに目を瞬かせた。黎翡は構わずにお茶を啜る。
「別に、予想はついていましたわ」
岸鵠が乗り換える相手なんて、黎翡と同等かやや上の身分の者に決まっている。でなければ以前より不利になるのだから。
「それに、私はもう、本当に岸鵠などどうでもいいんですの」
吹っ切れた、と言ったのは、どうやら本当らしい。あっさりと言い切る黎翡を、私達は安堵の表情で見た。
「そっか……うん、よかった。今回の俺の報告はここまでだよ。遠からず碧と話が進められるはず」
にこりと笑って、慎誠は膝の上で丸まった哀の毛並みを撫でた。
「でさ、戦姫様、一つ訊きたいんだけど」
さっき却下された筈なのに勝手に敬語を外した慎誠が黎翡に話しかける。別に黎翡も咎め立てするつもりは無いようで、目で先を促した。
「さっきもうどうでもいいって言ってたけどさ……そもそもあの男のどこが良かったのさ」
「おい」
あまりに遠慮の無い質問に、私は思わず口を挟む。しかし慎誠は気にせず続けた。
「だってあいつ、自分の事ばっかりじゃん。散々戦姫に護られといてあっさり乗り換えるし、戦姫を取り返す努力もしないし」
どうやら慎誠は珍しく腹に据えかねているらしい。確かに私も、あれはどうかと思う。
「正直、戦姫様あいつと結婚しなくて良かったと思う。鴻宵の方がよっぽどいい男だよ」
「こら」
誰がいい男だ、誰が。
慎誠の質問を受けた黎翡は、心持ち俯いて何かを言い淀んでいるようだった。無理に言わなくていい、と声をかけようとした時、その口から小さな声が漏れる。
「……に……の」
「うん?」
私達が首を傾げると、やけになったかのように声を張り上げた。
「初恋の人に似てたんですの!」
沈黙が、降りた。
黎翡の顔は真っ赤だ。
「……初恋?」
春覇が呟く。戦姫は目元に掌を当てた。
「馬鹿らしいことはわかっていますわ。大体落ち着いて考えてみれば、似ているのは瞳の色だけですもの」
自嘲的に呟く。
それでもすがりたくなるほど、大切な想い出だったのだろう。そう思うと、少し感動した。
「初恋の人って、誰?」
慎誠が質問する。無遠慮な問いだが、不思議と図々しさを感じさせないのがこいつの妙なところだ。
黎翡は暫し逡巡していたが、やがて溜息を一つ溢してから、語り始めた。




