心泉にて―裏―
時は二刻ほど遡る。
幕舎に入って休養していた蒼凌は、なかなか寝付けずに虚空を眺めていた。
結局、鴻宵には誤魔化されたきり、明確な返答は得られていない。
あの絡嬰の事だ。どんな些細な情報であれ、対価無しには渡すまい。しかし鴻宵も馬鹿ではないから、碧を危険にさらすような対価であれば応じない筈だ。
但しそこには、それが鴻宵一人の身を危険にさらすような条件だった場合を除き、という注意書が付く。自分一人が耐えて済む事ならばそれで済ませてしまおう、という発想が、鴻宵にはある。
そういうところは馬鹿だ、と、蒼凌は声を大にして言いたい。
詰問しようとした所をうまく逃げられて以来、それとなく鴻宵の様子を窺っているのだが、どうも引っ掛かる。移動中の車内で隣にいる蒼凌だから気づける細かい点が、異状を示している気がするのだ。
例えば、不自然に力の入った掌が。或いは、声を張り上げる前にやけに鋭く吸い込まれる息づかいが。
また一人で何か抱え込んでいるのではないかと、気がかりでならないのだ。
そんな事を考えながら横になっていた蒼凌は、ふと水音を聞いた気がして身を起こした。
「……空耳か?いや……」
蒼凌には精霊を視認する力は無いが、伊達に長年春覇と近い間柄にあるわけではない。特別な力は無いにせよ、勘のよく働く男なのだ。
その勘が、その微かな水音を無視することを拒んだ。
「……春覇に訊いてみるか」
手元に置いていた剣から、春覇に貰った佩玉を外す。球形ではなく円盤状に切り出されたその玉を、三度宙に放った。
「表、表、裏……」
それを六度繰り返し、到達した結果に対応する文言を記憶の底から引きずり出す。
これは占の苦手な春覇が唯一蒼凌に教えた最も簡略な占の方式である。方士でなくても出来る占で、通常は銭を投げるのだが、媒体を用いれば精霊が関与する為占の精度が増すのだと聞いた。
「往くところあるに利あり……行けば吉、か」
蒼凌は暫し黙考し、それから立ち上がった。
「水音という事は、この場所ならまず心泉だな」
そう断じると、上着を脱いで身軽になり、密かに幕舎を抜け出す。月明かりの照らす道を、木立の影にまぎれつつ心泉へと向かった。
また、微かに水音が聞こえ始める。
これは先程の音とは違い、確実に行く手から聞こえてきているのがわかる。
「あっ、こら!」
不意にはっきりと人の声が聞こえて、蒼凌は足を停めた。
誰か居る。
こんな夜中の泉に、である。
念のため腰の剣を確かめつつ、蒼凌は足音をたてないよう進んで木の影からこっそり泉の方を窺い見た。
誰かが、水浴みをしている。水面に現れたその体つきを見て、蒼凌は困惑した。
女だ。
夜中に無人の泉で水浴びをする女。且つ、この周囲に集落らしき集落は無い。
いったいあれは何者だ。
考え込む蒼凌の前で、女は無造作に両手で髪を絞った。
「これ、手拭い一枚じゃ足りないんじゃ……」
呟いた女の声に、どこか聞き覚えがある、ような気がする。
蒼凌が首を捻った時、不意に女が顔を上げた。その視線の先、岩の上に燐光が生じる。
あれは。
「いったい何の騒ぎ……」
密度を上げた燐光の中から姿を現したのは、一人の男だった。現れると同時に訝しげに周囲を見回した男と、泉の中の女の目が合う。
「……って、わぁっ!?」
「っ……すまん」
明らかに普通でない現れ方をしたくせにやけに人間臭いやり取りを繰り広げて、男は女に背を向けた。水中に体を沈めた女が口を開く。
「青龍……何でここに」
蒼凌は思わず驚愕の声をあげそうになった。眼前に居るのが守護神であるという事もさることながら、泉の中に居る女の正体に愕然とした。
耳に馴染むこの声。
艶のある黒髪。
そして、青龍と顔見知り。
そんな心当たりは、一人しか居ない。
――そんな、馬鹿な……。
蒼凌は身を隠している木の幹に背中を預け、ずるずると座り込んだ。
――女……?……鴻宵が……?
確かに、男にしては随分小柄だし、華奢だ。顔立ちも、女のようだとしばしば揶揄されている。
しかし、鴻宵は強い。
剣を執らせれば右に出る者は殆ど居らず、兵を指揮させればその果敢さは紅の錫徹をして退かしめた程だ。
武官の最高位である大将軍を勤め、この秋には春覇と結婚した。
それが、女?
「暫くそっち向いてて!」
女がそう言って、水からあがる気配がする。少々躊躇われたが、疑惑をはっきりさせたいという心がに勝り、蒼凌は密かに様子を窺った。
女は慣れた様子で、手際よく衣類を身に付けていく。
襟の高い上衣に重ねた羽織を纏い、帯を締めて剣を提げる。
――何てことだ。
やがて岸辺に佇んだのは、紛れもなく見慣れた鴻宵の姿だった。
「もういいよ」
青龍にそう声をかけ、何やら話し始めるのを見るとはなしに眺めながら、蒼凌は頭を抱えたくなった。
――馬鹿か、俺は。
何故今まで気づかなかったのか、と自分自身に呆れる。鴻宵が巧妙に隠していたとはいえ、嘗て共に旅をしたというのに。
きっと春覇は知っていたに違いない。だから鴻宵と結婚することを選択したし、鴻宵もそれを快諾した。鴻耀の言った通り、心配する必要は無かったのだ。
間の抜けた自分に呆れる蒼凌の耳に、青龍の言葉が届く。
「……どうかしたのか、お前」
はっと意識を戻した蒼凌は、青龍が鴻宵の顔を覗き込むのを見た。
「顔が青い」
「月明かりのせいだろう。それより青龍、今水の上歩いた?」
お世辞にも上手いとは言えない方法で、鴻宵が誤魔化しにかかる。
やはり、何か隠している。蒼凌は聞き逃すまいと耳を澄ませた。
「……一応神の端くれだ。地の上も水面も空中も大差ない」
「へぇ、さすが」
「それはどうでもいい。誤魔化すという事は理由に心当たりがあるな?」
鴻宵が振った話題に律儀に応えてから、青龍が鋭く切り返す。
「別に、気のせいだろう」
「気のせいなら精霊達は狼狽えないと思うが」
青龍の尋問に目を泳がせる鴻宵が、何かに注意を向けた。青龍も同じ場所を見ているようだから、恐らく精霊だろう。
二人が共有している認識に、入り込めない事が歯痒かった。
「って、何ばらしてくれてんの!?」
不意に鴻宵が叫ぶ。
「やはりか」
青龍が鴻宵の腕を掴んだ。身じろいだ鴻宵を引き寄せ、脇腹に手を当てる。
「うっ」
鴻宵が微かに呻いた。蒼凌ははっとする。
怪我を、しているのか。
「深いな。何故隠している?無理をしていい傷ではないぞ」
青龍がそう言って、鴻宵を泉の畔の岩に座らせた。
蒼凌は奥歯を噛み締める。そんな深い傷を一人で抱えて、あいつは、また。
「……仕方ないんだ」
観念したように、鴻宵が切り出す。
「今昏と戦になることは、碧にとって危険が大きすぎる。せっかく何とか和議に漕ぎ着けたんだ。それを壊すのだけは、避けないと」
鴻宵の言葉が、月夜の涼気に切々と響く。
「今は耐え時なんだ」
鴻宵ははっきりと言い切った。
「占領した旧白領が安定するまで――この期間を乗り越えて、そして王と太子の軋轢さえ何とかなれば、碧は昏と十分に戦えるようになる」
蒼凌は木の幹に背を預け、拳を握り締める。
あの馬鹿、と小さな呟きが漏れた。
「碧が大陸を統一するまでの――今が最大の耐え時なんだ」
その最大の耐え時を、鴻宵は一人で乗りきろうとしているのだ。
「まったく、お前は本当に……」
青龍が呟き、鴻宵の脇腹に手を当てる。
仄かな光が灯るのが見えた。
「とりあえず、傷口だけは塞いだ。但し、内部はまだ傷ついたままだ。無理はするな」
青龍がそう言って、鴻宵から離れる。
青龍は不十分ながらも傷を癒してやる事が出来る。
では、自分には何が出来るのか?自問した蒼凌は、唇を噛み締めた。
何もしてやれない。
せいぜい鴻宵に負担がいきすぎないよう手を回してやる事しか出来ないが、それもやり過ぎれば鴻宵の構想を妨げる事になりかねない。
蒼凌は踵を返した。
今は、何も気づかないふりをしてやるしか無い。そして、鴻宵が背負いすぎないように見守ってやるしか。
「情けないな……」
自分の無力に歯噛みする事など、恐らく初めてだ。
月夜に溜息が溶けて行く。
太子という自分の立場が、今、この上なく煩わしかった。




