覇姫の懇願
夜明け前。
駐屯地に設けられた幕舎の中で既に起床していた黎翡のもとに、岸鵠が訪ねてきた。
「庵氏の兵を使うのはやめになったそうですね。貴女が諌めたとか」
岸鵠はそう言って、やや不安げな顔をした。
「何故です?兵は多いに越したことは無いでしょう」
「それは違いますわ」
黎翡はきっぱりと言い切った。
「戦場で役に立つのはこちらの指示に鋭敏に反応する兵士です。烏合の衆などいくらいても足手まといにしかなりませんわ」
「そうですか?しかし……」
岸鵠は橙軍の兵力に不安があるらしい。現在の橙兵は一万弱しか居ない。これは碧の三軍のうちの一軍にも及ばない。しかし黎翡は微笑してみせた。
「心配要りませんわ」
そっと、岸鵠の肩に手を置く。
「我が国の兵は優秀です。数以上の働きができますわ。それに……」
岸鵠の胸に身を寄せて、黎翡は言った。
「何があっても、貴方は私がお守りしますわ」
「公主……」
岸鵠が黎翡の背に手を回す。
そう、守ってみせる。
戦場で傍らに寄り添って守り抜く力を持っているのは自分なのだ。
これだけは、決して譲らない――燕玉にも。
その日夜明けと共に、橙軍は東へ向けて進軍を開始した。
夜が明けると幕舎を片付け、再び馬車に乗って帰途を急ぐ。脇腹の傷はまだ痛むが、青龍が塞いでくれたお陰で大分楽になった。
ただ、何となく蒼凌の様子が常と違うようなのが気にかかる。
暫く進んだところで、私達のもとに碧からの使者が来た。橙の動向と、それに対する碧の決定を伝えに来たのだ。
「亢郊の野で迎撃?」
報せに接した私は首をかしげた。
「しかしそれでは橙軍に深入りを許す事になるのでは」
「無論、承知の上です。しかし最終的に橙を破れば全てを取り返す事が可能という事です」
確かに、たとえ九十九の戦に負けても最後の一戦に勝てば勝利だとは古来よく言われるところだ。途中の無駄な戦いを避ければ負担が少なくなるのも事実。
しかし。
「随分、思いきった策を立てたな」
この一戦の重大さを思って、私は緊張した。万一橙に敗れれば、或いは勝っても屈服させるほどの損害を与えられなければ、碧は国土の西側を大きく損じる事になる。
「亢郊での迎撃には右軍と遊軍が当たる事に決定致しました」
右軍?
ということは……
「つきましては、鴻将軍は帰還され次第、右軍に合流、その指揮をお執りいただきますよう」
そうきたか。
亢郊で迎撃するなら、私の帰還は何とか出陣に間に合う。それを見越して、左軍は都の防備に当てる事にしたのだろう。
承知した、と言いかけた私の横から、声があがった。
「しかしそれでは鴻将軍は旅の疲れを抱えたまま橙軍と相対する事になる。あまり良くないのではないか」
蒼凌だ。
太子に意見されたとあって、使者も緊張の為かしどろもどろになる。
「は、しかし、朝議にてそのように……この度の事は右軍の檄将軍が献策なさったということもありますし……」
「檄渓が?」
意外な名が出た。
つくづく、あの檄渓という男はよくわからない。
「また、王直々に、覇姫様と鴻将軍で勠力して当たるようにとの仰せでもあります」
「……承知した」
私は使者に了承を伝えた。
要するにこの一戦、私と春覇は力を試されているのだ。
「太子のお気遣いに感謝致します。しかし私はこう見えて頑丈ですので、ご心配は無用に存じます」
一瞬、蒼凌の口が「嘘つけ」という風に動いた気がした。
「そうか。ならばせめて、少しでも休養を取られるが良い」
蒼凌はそう言って、後続の幌つき馬車を示した。反論しかけた私の先を制して続ける。
「もはや碧の領内に入った。将軍自ら気を張られる必要も無かろう」
有無を言わせない蒼凌の口調に内心首を傾げながら、私は仕方なく休養を多目にとりながら残りの旅程をこなす事になった。
十月初旬、橙軍は碧との国境を越えて侵攻した。
国境の砦、途中の邑、全てが大した抵抗もせず、橙軍に恭順を示してゆく。
「妙ですわ」
黎翡は釈然としない様子で腕を組んだ。こんなに滑らかに先へ進める事など、あり得ない。偽って降伏したうえで背後から急襲する等の奇策を警戒して、橙軍は各邑の上層部を捕虜として国境付近の一ヶ所に収監する措置をとっている。そうした処置に対しても、殆どの者が諾諾と従うのである。
「勝ち目が無いと諦めているのでは?」
岸鵠は楽観を述べた。
「今碧にはこちらに回せる戦費は幾らも無い筈。温存の為にこの一帯を諦めるつもりなのでしょう」
黎翡は眉を寄せた。確かに状況から考えれば、その可能性も無いことは無い。この一帯の邑を諦めても、領土を大きく拡大した碧にとってはそこまで痛痒を感じないのかも知れなかった。
しかし。
「……たぶん、それはありませんわ」
黎翡は碧の覇姫を思い浮かべた。彼女は常に冷静だ。そんな投げやりな策を採るとは思えない。
首を捻る黎翡に、偵騎からの報告が届いた。
「碧が兵を出す模様です。兵力は約二万。新制の右軍及び遊軍と思われます」
「右軍と遊軍……」
報告を反芻した黎翡は、顎に手を当てた。
「ということは、やはり覇姫が出てきますのね。右軍は将が不在の筈ですけれど」
「帰国を待って発するものと思われます。現在は佐が指揮を代理しております」
「そう……」
つまり、碧には戦う意志がある。もしもこの一帯を見捨て、都近くで防衛するだけならば、鴻宵と春覇という組み合わせは出してくるまい。この二人は明らかに防御よりは攻撃型である。
とすれば、戦いの目的は「防衛」ではなく「奪還」となる。
「私も甘く見られたものですわ」
黎翡は皮肉に口角を上げた。
「いかに覇姫と鴻宵といえど、私を叩き潰そうなんて十年早くてよ――このまま進みます。十日後には亢郊に出ますわ」
黎翡の意思に呼応して、橙軍は前進を続けた。
帰路を急いだ私達は、行きよりもかなり少ない日数で翠まで帰りついた。切迫した状況なので大急ぎで復命を済ませる事が認められ、帰還したその日のうちに使いの役目を終える。
その夜帰宅した私を、春覇が待っていた。
「戻ったか」
「うん、ただいま」
挨拶もそこそこに、二人で地図を広げる。
「橙軍は七日程で亢郊に達するだろう。疲れているところ悪いが、明日昼前には出陣する」
「わかってる。大丈夫だ」
私はそう答えて、戦場となる予定の野を指差した。
「橙軍について私はよく知らないけれど……定石通り展開して大丈夫か」
「そうだな……」
春覇は少し難しげな顔をした。
「私も橙軍と直接対峙した事は無いので何とも言えん。しかし、恐らく戦いにくい相手だろうな」
「うん?」
私は説明を求めて春覇を見た。春覇が続ける。
「橙軍は近年、他国と目立った争いはしていない。従って、彼らの戦い方は通常の軍とは違う」
春覇の指が、地図の中央を叩く。
「妖魔狩りの軍だ」
「妖魔狩り……」
私が復唱すると、春覇は頷いて腕を組んだ。
「その内実がどういうものかは、私にもわからん。……我が国は橙を軽視し過ぎたな」
その軽視が、情報の不足を招いたということだ。私は地図を睨んだ。要するに、橙軍はどう動くかわからない。ある程度臨機応変に動けるようにしておく必要がある。
「今回の帥将は岸鵠。特に目立った話の無い、まぁ普通の貴族だ」
春覇の口から紡がれる情報に、私は耳を傾けた。
「その佐将に牧黎翡」
二字名。佐将の方は王族だろうか。
「帥将の岸鵠とは婚約者の間柄だと言うが……寧ろ岸鵠よりこちらの方に注意が必要だ」
「……婚約者?」
という事は、もしかして、牧黎翡というのは……。
「牧黎翡。橙王の三女にして歴戦の名将だ。女だと思って甘く見ると痛い目に遭う」
春覇は淡々と語る。
「通称、橙の『戦姫』」
ずきり、と脇腹が痛んだ。
この傷をつけられた時、絡嬰が出した名前。
恐らく彼女との戦いが、私の生死を分ける。
「鴻宵?どうした?」
春覇に怪訝そうに見られて、私ははっと顔を上げた。慌てて、何でもない、と取り繕う。
「……心配するな」
不意に、春覇が言った。
「戦姫は私が引き受ける」
「え?」
私は目を見開いた。
「それって……」
「私が戦姫を押さえる。お前は残りの兵を頼む」
そんな……。
「駄目だ。危険すぎる」
「心配無い」
「春覇!」
私が咎めるように名を呼ぶと、春覇は首を振った。
「そうさせてくれ」
どこか悲しげな目で、私を見る。
「……昔馴染みなんだ」
私は何も言えなくなった。
どういう事なんだろう。
春覇との打ち合わせを終え、体を洗って自室で寝台に横たわりながら、私は春覇の言葉を反芻した。
――昔馴染みなんだ。
春覇が?橙の戦姫と?
なぜ?ここ二十年ほど、橙と碧の間にまともな国交は開かれていなかった筈だ。
「一体いつ、どこで……」
「何がですか?」
独り言に質問を返されて、私は文字通り飛び上がった。
こんな登場の仕方をする奴は一人しかいない。
「沃縁!」
「こんばんは。不用心ですよ、鴻宵さん。扉に鍵くらい付けないと」
いやいや。
「いい加減忍び込むのはやめろ。心臓に悪い」
「いやぁ、もう癖みたいなもので」
今すぐ直せ。間違いなく悪癖だ。
「それで、何を考え込んでおられたんです?」
沃縁がそう尋ねながら寝台の端に座る。私は溜息を吐いて、枕の側に正座した。
「……春覇の事だよ」
「橙との関わりですか?」
打てば響くように返されて、私は沃縁を睨んだ。
「お前、まさかさっきの話……!」
「聞いていませんよ」
さらりと、沃縁は否定を口にする。
「機密に関する事は聞かないようにしています。それに、覇姫様の話を盗み聞きしようとすれば章軌殿に嗅ぎ付けられます」
確かに。
じゃあなんでわかったんだ、と視線で問いかけた私に、沃縁はにこりと笑った。
「そろそろそういう話が出る頃合いではないかと思ったんですよ。そもそも、旦那が奥方の生い立ちひとつ知らないなんて困るんじゃないですか?」
お前や慎誠みたいにやたらと何でもかんでも知ってるのもどうかと思うが。
私は黙って先を促した。この件について、知りたいのは確かだ。
「二十数年前、碧と橙が大きな戦を起こした事はご存じですか?」
「うん、聞いた事はある」
私が頷いて、沃縁が先を続けようとした時。
部屋の扉を、誰かが叩いた。
「……章軌だ」
意外な名乗りに、私は目を丸くする。一方沃縁は苦笑を浮かべた。
「どうやら、僕からお話しするのは好ましくないようですね」
そう言いながら、立ち上がる。
「では、僕はこれで。またあとで来ます。仕事の報告がありますから」
にこりと笑って、窓から出ていった。
……だから、お前は何で扉を使わないんだ。
呆れながらも、私は戸口に行って戸を開けた。珍しく、章軌一人だ。
「……入っても、いいか」
「どうぞ」
私は章軌を招き入れた。室内に入った章軌は、私と向き合うと真っ直ぐにこちらを見て口を開く。
「春覇の事は、できれば本人に訊いてくれないか」
目を瞬かせた私は、はっと気づいて俯いた。
そうだ。
知りたいなら本人に聞くべき事なのに、沃縁から聞き出そうとしてしまった。それは、本人にとってみれば愉快な事ではないに違いない。
「もしくは、どうしても聞きにくいというなら、俺か蒼凌に聞いてくれ」
責めるでもなく詰るでもなく、淡々と章軌は続ける。
「当時の春覇を知っている者から聞いて欲しい……特に、お前には」
「……ごめん」
私は項垂れた。
「その通りだ……私が、軽薄だった」
「いや。これは俺の我儘だ」
そう言って、章軌は目を伏せる。私は顔を上げ、はっきりと言った。
「春覇から直接聞くよ。今日はもう遅いから、出陣してからでも。時間はたっぷりある筈だから」
章軌は私を見て――ふわりと微笑った。
「ありがとう」
一言残して、踵を返す。
部屋を出ていく背中を見送って、私は暫しぽかんとしていた。
章軌が……あの章軌が……笑った?
「……なんかすっごく珍しいものを見たかも知れない」
章軌の表情なんて、ちょっと目を瞠るとか微かに眉を寄せるとかしか見たことなかったのに。
春覇絡みだからか?
若干の感動すら覚えていた私の耳に、再度扉を叩く音が響く。
「沃縁です」
……明日は大雪か?
扉を開けると、確かに沃縁が立っていた。
「お前がちゃんと名乗って入るとは……」
「さっきの今で忍び込みはしませんよ」
くす、と笑って、沃縁は続ける。
「それに、今回は僕一人じゃありませんし」
「え?」
首を傾げた私の肩に、ぽん、と誰かの手が乗る。首を回すと、ちょうど戸口の影になっていた場所に立っている人物が見えた。
「函朔!?」
「よ、ひさしぶり」
いやいや、「ひさしぶり」じゃないって。
とりあえず二人を室内に入れた私は、函朔を見上げた。
「お前、何でここに?秋伊は!?」
「秋公子なら、平穏に過ごしておられる。お陰さまでな」
落ち着け、とでも言うように、函朔の手が私の肩を叩く。
「蒼浪の邑宰はよくしてくれてる。大丈夫だから行ってこいと秋公子が言ってくださった」
「行ってこいって……」
何で今、この時に?
私がやや混乱していると、横から沃縁が言った。
「橙との戦は何が起こるかわかりませんから。腕の立つ護衛は多いに越したことは無いでしょう?」
私は目を見開いた。沃縁がちょっと意味ありげに片目を瞑る。
ああ、そうか。
沃縁は私が怪我をしている事を知っていて、それでも戦わなければならない事もわかっている。だから、私が無事帰れるように、戦力を強化してくれたんだ。
まったく、どこまで気がきくんだか。
少しだけ泣きそうになった私を、不意に函朔が抱き寄せた。
「第一、こんな得体の知れない奴に鴻宵を任せるなんて冗談じゃねぇしな」
「失礼ですね。そっちなんて死に損ないのくせに」
私を間に挟んで、二人の言い合いが始まる。私はちょっと首を傾げた。
「……お前ら、いつからそんなに仲良くなった?」
「仲良くねぇ!」
「どこが仲良く見えるんです?」
や、結構仲良さげじゃない?
そう思ったが、口に出すとまたこじれそうなので黙っておく。
「まぁ、それは置いておいて」
沃縁が話の軌道を修正した。
「仕事の報告です――三人とも、無事に送り届けました」
「……そうか」
私はほっと肩の力を抜いた。これで償いになるとは思わない。でも、最低限の義務は果たせた。
「ただ、一つ」
沃縁が言葉を継ぐ。
「お伝えすべきかどうか迷いましたが――これから昏と戦う上で、影響があるかも知れませんから」
「……何?」
不吉な予感に、私は身を固くした。宥めるように、肩に回された函朔の腕に力がこもる。
「三人の兵士達――いずれも死因は、獣に襲われた傷です」
「え?」
私は寸時混乱した。
だって、彼らは昏に討たれた筈だ。束憐が私達に見せたのは、間違いなく私が彼らに持たせた書簡だった。
でも、そういえば。
私ははっとして地図を広げた。記憶にある印の場所と、都との距離を目測する。
「あり得ない……」
私が使いに出した兵士達は、いずれも馬術の達者だ。夜のうちに昏都を出発して、かなりの距離を走破している。
すぐに嗅ぎ付けて追ったなら都からこんなに遠くまで達するはずがないし、朝になってから気づいたなら、三方に手分けしても容易に追い付ける距離じゃない。
けれども、束憐は朝会が終わる頃には三通の書簡を手にしていた。
「何で……!?」
あの時は使いが露見した衝撃が大きすぎて気づかなかったけれど、余程馬術に巧みな部下を三人以上、それも残雪並みの駿馬に乗せて使わさない限り、時間的に不可能だ。それも、こちらの使者達がどこにいるか、正確にわかっていなければ。
「……どうやら」
混乱する私を見て、沃縁が口を開く。
「本当に、昏には猛獣使いでもいるとしか考えられないようですね」
そんな、そんな話は聞いた事が無い。
「昏の方士といえば璃黒零か?」
函朔が口を挟む。私は思わず首を振った。
「違う!」
即座に否定した私に訝るような視線が向けられるが、構う余裕は無い。
「黒零が使うのは蕃旋の一族だけだ。赤鴉の族に人を噛み殺すような獣がいるなんて聞いたことがない」
それに。
「黒零にそんな残酷なやり方は無理だ」
確かに黒零は戦いに身を投じた。だけど今でも、彼の戦い方には裏が無い。密かに妖怪を使って使者を殺させるような真似をするはずが無かった。
私が言い切ると、室内にちょっとした沈黙が落ちる。
「……一時璃氏の護衛をしていたという情報はありましたが…随分親しかったようですね」
「……相変わらず、お前の周りの人間関係って謎だな」
あ。
固まる私に、沃縁がやれやれと息を吐く。
「まぁ、猛獣使いとなると方士とは限りませんし。この件は、追々僕が調べることにしましょう」
そう言って、不意に私の手を取った。
「今は、橙との戦いに専念してください。他の事は心配要りませんから」
「……ありがとう」
私は微笑んだ。
絡嬰の思惑通りに死んでなんてやるものか。
私にはこんなに、支えてくれる仲間がいるのだから。




