炎狂
それからはめまぐるしかった。
依爾はもう泉に水を汲みに行くことも山に薪を採りに行くことも無く、役人に連れられて初めて車に乗り、見たこともない都へ向かった。
家族がついてきている事は知っていたが、依爾は意に介さない。それよりも、進んだ先にあの少年が居る。その事の方が余程重要だった。
到着した都の華やかさも、王宮の壮麗さも、依爾の意識には届かなかった。
「まずは王に謁見して貰う」
依爾を連れてきた役人はそう言って、依爾を着替えさせ、朝廷に伴った。そこで教えられた通りの紋切り型の挨拶を済ませ、あちこち連れ回されてからようやく、神殿を管理する高官に引き渡される。
「では神殿に案内するが、あそこは守護神朱雀様をお祭りする神聖な場所だ。呉々も粗相の無いように」
高官に言い含められるが、依爾は聴いてはいなかった。
ようやく会える。会えるのだ。
神殿の扉が開いた。広く清らかなそこには、何も居ない。しかし依爾は、確かに朱雀の存在を感じた。
「ご託宣にありました依爾を連れて参りました」
高官が神殿の中央に向かって拝礼する。
『ご苦労』
不意に、声が響いた。
『お前は下がれ』
「は……」
高官は戸惑ったように硬直した。
実は長年神殿を預かっているものの、朱雀の言葉を直接聞くのは初めてなのだ。
『下がれ』
「ははっ」
威圧を含んだ声に、高官は倉皇として立ち去った。残された依爾は、神殿をぐるりと見渡す。
「朱雀……」
「我はここだ」
不意に声の聞こえる方向が判然として、依爾は振り向いた。壁際になされた彫刻の土台に、少年が腰掛けている。間違いない。あの時の少年だった。
「朱雀……!」
思いがけず熱いものがこみ上げて、依爾は朱雀に駆け寄った。忙しなく口を開くが、うまく言葉が出ない。軽く目を瞬いた朱雀は、依爾の手を握って引き寄せた。
「辛かったか、日々が」
「……わからない」
依爾の声が震える。
実際、彼にはわからなかった。あの生活が辛かったのか、辛くない毎日がどんなものなのか。
「お前は故無く虐げられていたのだ。辛かったろう」
朱雀がそう言って、依爾を隣に座らせる。依爾とさして変わらない体格の片腕で、依爾を抱き寄せた。
「泣いていい」
言われた瞬間、依爾の目から涙が溢れた。依爾は少なからず戸惑い、慌てて頬を拭う。泣いた事など、これまで殆どなかったのだ。驚きながらも、依爾は何となく悟った。
自分は、辛かったのだ。
朱雀の肩に顔を埋めて、依爾は止めどなく涙を流した。
「辛かったろう……憎いだろう、お前をそんな目に遭わせた人間どもが」
朱雀の言葉が、耳に滑り込む。
依爾は初めて、自分の抱くべき感情の名前を知った。
「身勝手で不実な人間ども……奴らは我の主すら傷つけた」
依爾の肩に回った朱雀の腕が微かに震える。依爾は少し顔を上げてもう一方の腕を見た。
「その……傷も?」
長年癒えないのだろう、痛々しい傷跡。動かない腕に目を遣った朱雀は、依爾の肩に顎を乗せた。
「これも原因は身勝手な人間どもだ。我は人間を好かぬ」
そう言ってから、ふと小さく笑う。
「だがお前は我に近い。我の味方になってくれるだろう……?」
依爾は何度も頷いて、朱雀を抱き返した。
この時から依爾は人を憎む事を覚えた。
そして朱雀以外の誰も信じずに生きることを決めたのだった。
五年の月日が流れた。
「依爾よ、朱雀様のご様子は」
「お変わりありません」
微かに笑みを浮かべて諮問に答える依爾は、十二歳になっていた。
依爾は本心を隠す為に笑う事を覚え、常に笑顔の仮面を被るようになった。表面上人当たりの良い切れ者の能臣。それが依爾の評価として定着しつつあった。
彼に悩みが有るとすれば一つ。
郊外から町中に移り住み、依爾の地位が上がるに連れて益々増長していく家族である。
彼らは依爾の力がまるで自分達のお陰で存在するかのように振る舞い、その傍若無人ぶりは周囲の顰蹙を買っていた。そして依爾に対しても、昔のように殴りこそしないが横柄な態度を取り、物を強請り金をせびる。依爾はそれに対して何も言わず、諾々と従っていた。それが彼らの横暴さに益々拍車をかけていく。
依爾は待っていたのだ。
彼らが周囲の同情を失い、自分が力を付けるのを。
「依爾、そなたは方士として守護神朱雀を祭るのみならず、文武に才覚を見せ、官職に在っても功績著しい。まさに我が国一番の方士である」
「もったいないお言葉でございます」
王の賛辞を受けた依爾は、深々と礼をした。並みいる群臣達も、皆依爾の力を認めている。
「そなたの功に敬意を表し、名を与える」
名を与えられる。それは臣下として最高の栄誉に他ならない。
「そなたの名は爾焔。依爾焔と名乗るがいい」
依爾改め依爾焔は、深く拝礼した。
退出した爾焔は、その足で神殿に向かった。爾焔の気配を感じ取って、すぐに朱雀が姿を現す。彼の姿は変わらない。相変わらず子どものままである。
「王から名を賜りました。私は今日より依爾焔となります」
「そうか……そろそろ時期のようだな」
朱雀の言葉に、爾焔は目を細めた。
「ようやく、ですね」
ようやく、憎しみが晴らされるのだ。
爾焔が一度自宅に戻ると、こちらから使いを出すまでもなく家族からの使いが来ていた。すぐに来いという横柄さに苦笑しながら、爾焔は家を出た。
「爾よ、王から名を賜ったそうだな」
「これはお耳の早い」
出迎えたのは兄である。
案内された部屋には、父母も揃っていた。
「爾焔というのか。名を賜るとは名誉な事だ」
「はい」
父の話を、爾焔はおとなしく聴いている。
「これも我ら家族在っての事。栄達したなら我らに恩を返すのが筋とは思わんか」
「そうですね。何をお望みですか?」
微笑を浮かべたまま、爾焔は問いかけた。父が胸を張って言う。
「お前の父である俺に、領土が与えられてもいいだろう」
爾焔は失笑を堪えた。随分虫の良い頭をしている。
「王に申し上げてみましょう」
敢えて逆らわずに、爾焔はそう言った。
「私も金や絹が欲しいわ」
「それは私がお贈りしましょう」
「俺は美人と評判の勢将軍の娘を嫁に欲しい」
「私が話を進めます」
変わらぬ笑みの下で、爾焔の瞳から温度が消えていく事に気づく者は居ない。
「馬車も必要だ」
「使用人をもう少し」
全ての要求に頷いて、爾焔は屋敷を出た。願いが聞き入れられた事に気を良くした父が見送りに来る。
「我らが願った事、ちゃんと覚えているだろうな」
いつもより多くの要求が有った為に忘れられる物が出るのではないかと危惧する父に、爾焔はにっこりと笑った。
「大丈夫ですよ」
父がほっと息を吐くのと同時、笑顔を崩さずに爾焔は続けた。
「必要ありませんから」
「……何……?」
怪訝な顔をする父に、口元は笑んだまま凍てつくような視線を投げる。
「死にゆく者の願いを、叶える必要は無いでしょう?」
父の顔色が変わる。爾焔は笑みを消した。
「清めの炎、暖かなる火よ、我が敵を滅せよ」
炎が唸る。
悲鳴が響いた。爾焔の父は一瞬にして炎に包まれ、転げ回る。
「己が何をしたかも忘れて都合の良い事ばかり……本当に愚かな人だ」
続けて爾焔が手を振ると、家全体が火を吹いた。
「燃えろ」
一瞬で屋根まで火が回り、梁が焼け落ちる。
「燃え尽きろ」
爾焔の父だったものは、既に消し炭のように燃え尽きて原型を留めていない。
爾焔の口から笑い声が出た。
生まれて初めて、爾焔は声を上げて笑った。
「燃え尽きてしまえ!跡形も無く!」
大声で笑う爾焔の頬には、涙が伝っていた。
その姿を見た者は、そこに悪鬼とも羅刹ともつかない凄惨な姿を見たと言う。
それ以来、畏怖と戦慄を込めて、人々は彼を呼ぶのだ。
炎狂、と。




