依爾
奔流に呑まれながら、依爾焔の胸に去来したのは水気の無い、乾いた田舎道だった。
強い日差しが容赦なく照りつける中を、一人の子どもが歩いている。
まだ幼い子どもは背に重い荷を背負い、痩せた足をふらつかせながら懸命に前へ進む。汗が滴り、喉には欠片の水分も残ってはいない。足の皮はとうに破れて、血を滲ませていた。ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら、それでも子どもは歩いていく。
襤褸を纏った少年である。
その目にはもう、どんな意志の光も無かった。ただ、足を進めていくのみである。
少年の名は依爾。
辺境の小さな村の生まれで、家庭は特に貧しくもなく、豊かでもない。家族は両親と兄が一人。収穫は多くないながらも畑を持ち、農耕の傍ら蚕を飼って布も織り、生計を立てていた。
厳しい日差しの中を、依爾はようやく家まで辿り着いた。玄関の戸を開け、上がりかまちに荷を下ろす。
「お父さん、言われた物……」
「遅い!」
やっとの思いで役目を果たした少年に与えられたのは、罵声と拳だった。痩せた体はいとも簡単に飛ばされ、土間に転がる。
「お父さんなんて呼ぶな、気色悪い」
倒れた少年に目もくれず、父親は荷を奪って背を向けた。
「おい、水汲みに行っとけよ」
兄の冷たい声が、次の仕事を言いつける。依爾は痛む体を引きずり起こし、水瓶を担いで泉へ向かった。
依爾の不幸は、生まれ落ちた瞬間に始まった。彼の髪は、生まれつき暗い燕脂色をしていた。赤みを帯びた髪は別に奇異とされる程のものではない。後にそれは炎精霊の加護を強く受けた為だと分かった。
しかし、赤子を見た両親にそんな事はわからない。
不運なことに、依爾の血族にそのような髪をした者は居なかったのだ。父は母の不義を疑い、母は原因となった依爾を憎むようになった。両親から異端児扱いされる依爾に兄も優しい目を向ける事は無く、彼は家族から奴隷のように使われる存在になった。
来る日も来る日も、幼い体が指一本動かせなくなる程までこき使われる。しかし、依爾はこの家から逃げたいなどと考えた事は無かった。これ以外の生活が有る事を、彼は知らなかったのである。
依爾は自分の周囲に漂う赤い生き物が精霊だという事も、それが他の人間には見えないという事も、勿論知らなかった。
そんな依爾が七歳になったある日。
その日、依爾は薪を集めて来るように言われていた。しかし、依爾の住む家から薪の採れる山は遠い。子どもの足では往復に半日近くかかった。しかもこの日依爾は途中で担いでいた薪を谷に落としてしまい、日が暮れた頃にやっとの思いで持ち帰った薪は僅かなものだった。
「これっぽっちで足りると思っているのか!」
父の罵倒と拳が、疲労困憊の依爾を容赦なく撃った。しかしそれに慣れきった依爾は泣き声一つ上げない。そんな彼に、母は蔑みの目を向けた。
「気味の悪い子だね。あんたなんかがいるから……」
「薪も満足に取って来れないんじゃ犬以下だな」
兄が依爾の襟首を掴み上げる。
「犬以下の奴の居場所は家の中には無ぇよ」
忌々しげにそう言って戸を開けた兄は、依爾を外へ放り出した。土埃の中に倒れ込んだ依爾は激しく咳き込む。その後ろで、無情にも扉は閉められた。
「開けて……開けて、兄さん」
弱々しく懇願しながら扉を叩く。
しかし、返事は無い。
「開けてよ……」
「うるさいね、静かにおし!」
ようやく与えられたのは罵声のみ。
依爾は仕方なく呼びかけを諦め、扉の脇の壁に背をつけて座った。依爾の住む大陸南部は基本的に暑いが、この場所の地形は砂漠に近い。昼間は灼熱の陽が射すものの、夜になればぐっと冷え込む。たちまちのうちに、襤褸を纏っただけの依爾の体は凍え始めた。
「寒……い……」
吐く息が白い。
体が震えて、歯がぶつかり合った。
「寒いよ……」
今度こそ、死ぬかも知れない。そんな予感が脳裏をよぎった。
「寒い?」
不意に問いかけられる。依爾は視線を声の主に向けた。いつも依爾の側を漂っている、あの赤い半透明の球体である。
「……寒い」
それが何者なのか依爾には皆目わからなかったが、思わず正直に口にする。実際、凍え死にそうだ。
赤い球体はふわりと依爾の眼前を漂い、ぼさぼさに乱れた燕脂の髪を一本、軽く引っ張った。
「ちょうだい」
「え?」
首を傾げる依爾に、周囲の球体も近寄ってくる。
「ちょうだい」
「くれる、暖かい」
口々に言われる事は理解出来なかったが、依爾はとにかく髪の毛を一本抜いた。
欲しいと言うならこのくらいやっても惜しくはないし、彼らの相手をしていれば気が紛れて寒さも和らぐかも知れない。
依爾が差し出した髪の毛を、数匹の赤い球体が受け取る。それをちぎって口に放り込む彼らに、依爾は目を丸くした。
「食べた……?」
「食べる」
「食べるー」
何が楽しいのか、周囲の球体が跳ね回る。髪の毛を貰った者達は、手を繋いで輪になった。
「寒いー?」
「暖めて欲しい?」
くるくると依爾の周りを回りながら訪ねる。事態がよくわからないまま依爾がこくりと頷くと、彼らはいきなり炎を発した。
「わ……?」
「火、暖かい」
「暖かいよー」
その言葉通りに、じわりと皮膚に暖かさが染み込む。さっきまで凍える程に寒かったのに、体に血が通い始めた心地がした。
「暖かい……」
暖めてくれた。
こんな事は、依爾にとって初めての経験だった。依爾は手を伸ばし、そっと球体に触れてみた。彼らが何なのか、そんな事はどうでもいい。初めて触れる暖かさだった。
「ふぅん……これは面白い」
不意に、空気がざわめいた。
依爾の周りにいた球体達が興奮気味に飛び跳ねる。何事かと目を上げた依爾は、一人の少年を見た。
歳は依爾と同じくらいに見えるだろうか。依爾の見たこともない衣を纏い、依爾よりずっと鮮やかな赤の髪を持つ少年。よく見ると、右腕には白い布が巻かれだらりと垂れ下がっている。怪我をしているようだ。
「朱雀さま!」
「朱雀様ー」
球体達がはしゃぎ回る。その少年は、髪と同じ緋色の瞳で依爾を見下ろしていた。
「精霊が自発的に人を救うとは……どうやら余程好かれているようだな」
突然現れた少年を呆然と見上げる依爾の前に、少年はしゃがんで視線を合わせた。
「お前には火の加護がある……我の元へ来い」
依爾は何も言えない。
これはきっと夢だ。でなければこんなに暖かい筈は無いし、自分が必要とされる事もあり得ない。
「いつまで呆けている!」
苛立たしげに言って依爾の肩を掴もうとした少年は、依爾が傷だらけである事に気づいて眉を寄せた。
「何だこれは」
依爾の口元に滲む血の痕を睨み、襟を掴んで引き寄せる。服の隙間から見える胸元も足も痣だらけだった。
「加護ある者を……愚かな人間どもが!」
吐き捨てるように言うと、少年は依爾を睨みつけた。
「貴様も貴様だ。何故そんな虚ろな目をしている!愚か者を罰しようとは思わぬのか!」
「罰する……?」
依爾には彼の言う意味がわからなかった。
両親や兄に言われた事を達成出来ずに罰を受けたのは自分だ。どうして自分に罰する権利があるのか。
「貴様……!」
なおも言い募ろうとした少年は、ふと言葉を止めた。依爾の顔をじっと見詰め、軽く息を吐く。
「わかった。お前はもっとこの世を知らねばならぬ。我の元へ来い。迎えを寄越そう」
そう言うと、立ち上がってもう一度依爾を見下ろした。
「お前、名は」
依爾はゆっくりと口を開いた。
「……依爾」
「依爾、か。変な名だ」
そこで、依爾の意識は途切れた。
翌朝依爾が目覚めた時には、少年は跡形も無かった。
あれは夢だったのだ。
そう結論付けた依爾の横で、扉が開いた。
「おい、水を汲んでこい」
いつもと変わらぬ一日が始まる。
数日が経った。
依爾の中であの夢の記憶は薄れ始めていたが、何故だかあの緋色を纏った少年の姿だけは、依爾の脳裏に鮮やかに焼き付いていた。
彼は、来いと言ってくれた。
たとえ相手が夢の中の存在でも、依爾は生まれて初めて他人に対等に扱われたのだ。それは空っぽだった依爾の心に、小さな火を点した。あの夢を見た夜が、依爾にとってこれまでで最も幸せな夜となった。
そんなある日、村に都から役人が来た。こんな辺境の村に人が来る事自体稀である。しかもそれが中央から来た役人とあって、村人達は様々に噂した。
「儂は人を捜しに来たのだ」
広場に村人を集め、役人は言った。無論、この場所に依爾は居ない。また山へ薪採りに行っていた。
しかし集まった村人の中に、依爾の父が居る。
「この村に、依爾という名の子どもは居るか」
ざわり、と村人達がざわめいた。狭い村のことである。依爾という名に該当する人間など一人しか居なかった。そして依爾が家族から人とは思えない扱いを受けている事も、周知の事実である。
依爾の父は名乗り出るのを躊躇った。何故中央の役人が、あの虫けらに等しい子どもの名前など知っているのか。まさか虐待を罰しに来た訳ではあるまい。
「知っておる者は名乗り出よ。これは朝廷からの命令である」
役人がそう言うに至って、依爾の父はようやく進み出た。
「依爾は私の息子でございます。一体どういう……」
「そうか。ならばその子をここへ」
そう言われて、依爾の父は慌てた。依爾は今山へ行っているのだ。急に連れて来られるものではない。
「実は爾は今出かけておりまして……夕刻には戻るのですが」
「ならば戻り次第、役所まで連れて来なさい」
依爾の父は家に飛んで帰った。
何故依爾が呼ばれるのか皆目見当もつかないが、政府の命令とあれば従わなければならない。
夕暮れ時になって家に帰った依爾は、待っていた父に突然体を洗うように言われ、普段は着ない上等な服に着替えさせられた。そのまま訳も分からず役所へ連れて行かれる。
「その子が依爾か」
役人はじろじろと依爾を眺め、燕脂色の髪に目を留めて何やら頷いてから言った。
「依爾よ、そなたは儂と共に都へ行き神殿に仕えるのだ」
「神殿に?そ、それは一体どういう……」
父が問いを返すのを、依爾は黙って聞いていた。
依爾にも話が全くわからない。わからなくても、どうでもよかった。どうせこの身に碌な事は起こりはしないのだ。
「神殿を祭る方士に空きが出た。代わりの方士としてその子を連れて行く」
役人の答えに、依爾の父は愕然とした。
「方士……この子が?」
「うむ。間違いない。朱雀様の御託宣通りだ」
朱雀。
その名前に、依爾は例の夢を思い出した。
赤い球体があの少年を呼んだ筈だ。朱雀、と。
「夢じゃ……なかった」
自分の元へ来いと、迎えを寄越すと、そう言った言葉通り、彼がこの役人を遣わしてくれたのだ。
「明日、発つ。支度をせよ」
あの少年に、また会える。
「あのぅ、お役人様……」
心中で静かに喜びを噛みしめている依爾の隣で、父がおずおずと声を上げた。
「爾が神殿にお仕えするという事は、我々にもその、それなりの……」
役人の機嫌を伺うように手をすりながら、遠回しな言葉を発する。態度は遠慮がちだが、その目は貪欲に光っていた。
「ふむ、働き手をこちらに貰うわけだからな。埋め合わせはしよう」
役人はそう言って頷いた。それで父も納得するだろうと思った依爾の耳に、信じ難い言葉が飛び込んでくる。
「しかし爾はとてもよく働く子で、家内も息子も可愛がっておるのです。私も手放すには忍びませんで……」
依爾はぽかんと父を見た。そんな事は初耳だ。
「ふむ……しかしこれは託宣だからな」
「ならばせめて我々も爾と共に都に移り住むという事は……」
父は容易に引き下がらない。依爾は目を逸らした。
依爾が都へ行くのに乗じて出来るだけ良い目を見ようという魂胆が見え透いているが、依爾にとってはどうでもいい事だ。
「よかろう。そなたら一家が郊外に住めるよう、儂から口添えしよう」
ついに役人から約束を引き出して、父は深々と頭を下げた。




