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第二十話 アンヌの願い


 アンヌ・ド・サルグミーヌは、ナンシー城下の屋敷で、眠っている娘のアリスとアメリーの頭をそっと撫でた。娘二人は昼寝の時間だった。


 ナンシーに着いた初日こそ、ユラン伯が賜っているナンシー城の一室に泊まったが、翌日からはナンシー城下にある大きくはないが、それなりに対面を保てる屋敷へと移った。


 門をくぐるとあるこぢんまりとした庭園には、季節柄、美しい藤の花が咲き誇っている。藤はアンヌの好きな花だった。桜が終わると、ナンシーでは藤の花が美しく咲く。


 この屋敷には四年前まで、時折家族で過ごしたこともあった。

 先代ユラン伯が亡くなるまで、アンヌたちはアルジャン公国のメスやリュネビル、ナンシーを転々として過ごしていたのだった。いうなれば、現ユラン伯は、先代が亡くなるまでは地方領主としての側面が強かった。ナンシー城の城主代理としての役割もあったが、四年前までは、アンヌとユラン伯は若い地方領主夫婦として、穏やかに過ごしていた。


 その後、先代ユラン伯が亡くなり、ユラン伯はアルジャン女公の侍従長だった父親の役職を引き継いだ。それからが、ユラン伯の苦労の始まりだとアンヌには思えてならなかった。


 特に、アンヌにはユーリアの代は非常に苦難に満ちているように思えた。

 アンヌは娘たちの眠りを確認すると、広間に戻り、長椅子に座って刺繍の続きをした。


 刺繍をしながら、アンヌは想いを巡らす。


 ――あの時、貴女と刺繍を刺しているときだけが幸せな時間だったわ。


 牢で再会したアリアーヌ・ダルジャンはそう言った。

 アンヌはアリアーヌとの刺繍の時間を昨日のことのように思い出すことができる。器用なアリアーヌは美しい刺繍をたくさん刺していた。


 アリアーヌはいつも、“お姉様”と“お継母様”のためにハンカチに刺繍をしていた。

 少なくとも、アルジャン宮廷では、この二人だけがアリアーヌを可愛がっていたはずだ。


 それでも、アルジャン宮廷はアリアーヌにとって息苦しかったのだろうか。

 アンヌはアリアーヌの思いに、何も気づいていなかったことを痛感した。


 ――そんな私が牢へ会いに行ったところで、なんの慰めにならなかったわね。


 アンヌの琥珀色の目に涙が浮かんだ。刺繍をしている布に涙が落ちた。

 アリアーヌの姉であるエレーヌは後継者と目されていたし、継母であるマルグリットは、エレーヌとアリアーヌのどちらも慈しんでいたように見えたが、ブリタンニア王女という出自は、同じくブリタンニア王女から生まれたエレーヌの立場を補強する側面があった。


 ――可愛がられていたとしても、救いにはならないのかしら……。


 アンヌには、高貴な王族の思いを推し量ることはできない。アンヌはただの地方領主の娘にすぎないことを痛感した。


 先々代アルジャン公が戦死し、エレーヌやアリアーヌが幽閉された当時、アンヌは他の行儀見習いや側仕えたちのようにディジョン宮殿を追われただけだった。

 アンヌはアリアーヌの苦難の日々を伝え聞く話以上には知らなかった。


 アンヌは刺繍を続けた。美しい藤の花が象られていく。藤の花は美しい紫色の糸を使って縫われている。


 ――紫色……。


 アンヌは縫う手を止めた。紫色を見て、主君の藤の花のように美しい瞳を思い起こした。


 アリアーヌの処刑の折、ユーリアの瞳は少女らしからぬ威厳があった。叔母を殺すことに何の抵抗がないかのような様子に、アンヌは恐れを抱いた。

 ブルグントからアルジャンまでの旅路では、アンヌを優しく気遣ってくれていたが、アルジャン公国に辿り着いてからは、為政者としての冷徹さばかりが聞こえてくる。


 そのような少女の側近くに、夫が常にいる。


 アリアーヌは、ユラン伯がユーリアを主君以上の想いで見ている、と言った。それはアンヌを動揺させるための言葉だっただろうが、その目的は達成されたと言えるだろう。


 アンヌは夫が底知れぬ主君に影響されないことを願わずにはいられなかった。

 ユラン伯クロード・ダルジャンは、政略結婚とはいえ、妻であるアンヌを愛してくれているし、娘たちに慈愛の心を向けてくれる。


 そんな優しく愛情深い夫が、冷酷に思えるアルジャン女公に仕えることは神経をすり減らすことだろう。


 ――どうか、今の貴方のままでいて。


 アンヌはただ、願った。


「アンヌよ」


 広間に父であるサルグミーヌ卿が入ってきた。

 サルグミーヌ卿は鎧を脱ぎ、ただの初老の男に見えた。ただ、外出着を着ており、彼がもう屋敷から発つことを物語っていた。


「お父様、もうサルグミーヌにお戻りになられるのですか?」


 アンヌは刺繍の手を止めて、立ち上がった。


「ああ、またナンシーに戻るが、お前の継母が心配でね」

「お継母様もお喜びになるでしょう」

「そうだな、息災だといいが」

「私がサルグミーヌに滞在していた時は息災でしたよ」


 アンヌはそう言って笑った。


「そうであれば、良い」

「お父様、お元気で」

「アンヌよ」


 サルグミーヌ卿が優しく娘の名前を呼んだ。


「はい、お父様」

「お前の夫は、職務熱心だ。それを人は、アルジャン女公を操るためだと言うかもしれぬし、アルジャン女公はお前の夫に特別な感情を抱いているに違いない、と決めつけるやもしれぬ。だが、アルジャン女公は年若いながら老獪で、側近に対して生温い感情を抱くことはなかろう」

「――それはわかっておりますわ」

「ならば、良い。お前は年若いながら老獪な主君に仕える夫を支えるのが務めだ」


 はい、とアンヌが答えると、サルグミーヌ卿は微笑んだ。


「では、可愛い孫娘の顔を覗いてくるとするかな」


 サルグミーヌ卿は鼻歌を歌うかのような愉快な声を出して言った。

 彼は、アンヌに背を向けて、アリスとアメリーの寝室へ向かって行った。


 アンヌは、白髪が混じる父の後姿を見ながら、


 ――言われなくとも、よくわかっているのです。


 と思った。


 アンヌは夫の愛を信じているし、それが失われることがないこともわかっている。だが、それはそれであり、末恐ろしい主君に仕え続けることに懸念を覚えているのも事実だった。


 ――でも強い君主は正しいし、冷徹さも敵にだけ見せている。


 そのことは、アンヌもわかっているのだ。


 だが、この底知れぬ不安は一体何なのだろうか。

 アンヌは長椅子に座った。手に刺繍針を持ったが、続きをする気にはなれなかった。


 藤の花の香りが風に乗って、窓から入り、アンヌにまで届いた。アンヌは思わず微笑んだ。


 ――心配しても仕方ないことね。


 アンヌは再び、刺繍の藤の花を象っていった。

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