エピローグ
『 タロウとハナコ
六年二組 吉田つむぎ
タロウとハナコは、私の家で飼っていた犬です。タロウはお父さんの、ハナコはお母さんの犬だったそうで、二人は犬のお散歩で出会ったそうです。
タロウとハナコは、わたしが生まれた時には家にいました。だから私にとっては、二匹が家にいるのが当たり前でした。タロウはいつものんびりしていて、優しい犬でした。ハナコは私のほうが大きくなってもずっと、わたしがお姉さんなのよ、という態度でした。
ハナコは一年半前に、天国に行きました。後に続くように、タロウもその半年後に天国に行ってしまいました。もうおじいさんとおばあさんだからというのは知っていましたが、とても悲しかったです。今でも寂しいです。
三ヶ月前に、新しい犬が来ました。ジロウという名前です。ジロウはタロウとハナコと違って、とてもやんちゃで元気いっぱいの犬です。
タロウとハナコとはもう遊べないけれど、たくさんの楽しい思い出があります。そんな思い出を作ってくれたタロウとハナコに、お礼を言いたいです。これからはジロウとも、たくさんの思い出を作りたいです。 』
娘が課題で書いたという作文を読み終えて、ひまりは一人、ふぅと息を吐いた。
ハナコが天国へ行ってからもう一年半経つというのに、思い出すたびにまだ涙がにじむ。
ハナコはひまりにとって、かけがえのないパートナーだった。
ペットショップで目が合った瞬間のことは、今でも鮮明に思い出せる。いつか犬を飼いたいなという願望はあったものの、その時点で飼うつもりはなかった。それなのに気がついたら、絶対に迎えにくるから売らないで、と店員に詰め寄っていた。優柔不断なひまりにとって、この時ほど即断即決だったことはない。
それからは試行錯誤の連続で、失敗もたくさんした。
家に戻ったらクッションが引きちぎられて綿まみれになっていたこと、ソファにおしっこをされたこと、犬は食べてはいけないとされるチョコレートを食べてしまって青くなったこと。まだ小さかったハナコに大型犬がじゃれてきたこと、階段で転んだこと、餌の時間をすっかり忘れてしまったこと。幸いどれも大事には至らなかったけれど、自分の不注意でどうにかなってしまっていたのではと、今でも背筋が冷えることがある。
だけど、いくらひまりが失敗しても、ハナコはずっとひまりを信頼してくれていた。
もちろん失敗だけじゃない。ハナコとの日々は、楽しくて、幸せだった。
初めて「お手」ができた日、散歩ではしゃいだこと、仕事でやらかしてしまって、ひたすらハナコに愚痴を聞いてもらったこともあった。
今のひまりの夫である翔太に出会ったのも、ハナコと散歩しているときだった。
結婚して、子供が生まれて、ひまりの生活が変わっても、ハナコはずっと側にいてくれた。
大変なこともあったけれど、それ以上に楽しいことや嬉しいことで溢れていた。
どうして思い出はこんなに綺麗なんだろう。
もうハナコはここにいない。それなのに、どこにいってもハナコの思い出だらけだ。
ねぇ、ハナちゃん。
あなたは幸せだった?
いつか、そう聞いてみたい。でもそれは、「幸せだった」と聞いてひまりが安心したいだけのような気もする。
ハナコを選んだのはひまりだ。ハナコが望んだことじゃなかったかもしれない。そもそも望んで親兄弟と離れて、望んでペットショップにいたはずがない。
ひまりと過ごしたことは、ハナコにとって幸せだったのだろうか、とひまりは何度も考える。ひまりは飼い主としては未熟だったと思うし、他の家庭に引き取られていたらもっと幸せだったかもしれない。ハナコだって子を産んでお母さんになりたかったかもしれないし、人の家という場所じゃなくもっと広いところで毎日駆け回りたかったかもしれない。
考えても仕方のない事だと思いながらも、かもしれない、ばかりを考える。
いつでも人は、自分勝手だ。
そんな「かもしれない」を考えながらも、それでもハナコのいなかった生活は考えられないのだから。
それに比べてハナコは、どうしてあんなにも尊いのだろう。
どうして疑うことなく、ひまりに全幅の信頼を置いてくれたのだろう。
三ヶ月前に、保護犬を家族に迎え入れた。迎えるまでに、ひまりはずいぶんと葛藤した。なんだかハナコを裏切っているような気がしたのだ。いなくなった途端に次の子を迎えるなんて、まるでいくらでも替えがきくものみたいじゃないか。
だけど、寂しがっている子供たちのために、と言われてしぶしぶ向かった譲渡会で出会ったその保護犬が、なんと「ジロウ」という名前だった。運命的なものを感じたし、翔太さんも子供たちも、受け入れに迷うことがなかった。
そうして家族になったジロウだけれど、タロウやハナコの代わりにはなりえなかった。動きも性格も全然違ったし、好みの餌も、癖も、みんな違った。そのことにひまりはひどく安心した。
代わりの犬なんていない。ハナコは、ハナコなのだ。
ひまりは部屋の一番目立つところに飾られている、ハナコの写真を眺めた。いい顔をしている。目が輝いていて、笑っている。まるでとても楽しいと言っているようだ。
ハナコの気持ちはハナコにしかわからない。
だけど、一つだけ、確かなことがある。ひまりがハナコと共に過ごした幸せな日々が、たしかにあったということだ。
ハナちゃん。
私は、ハナちゃんと一緒にいられて、とっても楽しかったよ。
ハナちゃんもそう思ってくれていたらいいな。
大好きだよ。
ずっとずっと、大好きだよ、ハナちゃん。
ひまりが返事のない写真に向かって微笑んでいると、ジロウがひまりの近くを、何かをアピールするかのようにうろつきだした。
「あぁ、ごめん。もう散歩の時間だね。準備するからちょっと待ってて」
ジロウは「それだよ」とでも言うように尻尾をぱたつかせ、ひまりは慌てて腰をあげた。外に出られるように上着をはおり、お散歩バックを取る。お水にビニール袋、それから、ジロウが好きなおやつ。同じように見えて、入れるものはハナコの時と同じではない。
ジロウにリードをつけて、外に出る。いつもの川辺から水面を見ると、今日もカモが泳いでいた。
「ジロウ、今日は天気がよくていい気持ちだね」
ここに咲く菜の花、水鳥、夜の外灯、月、紅葉、霜柱。次の道を右に曲がったら大きな桜の木があること、別の道に行くとすごく銀杏がたくさんなるイチョウがあって秋はとても臭いこと。
犬友達の家、冬は風が冷たいこと。
あなたと歩く楽しさ。
みんなハナコが教えてくれた。
ハナコがいなくなっても、ひまりの日々は続いていく。
ひまりは空を見上げた。青い空にぽっかりと白い雲が浮かんでいる。
「ハナちゃん、今日はお散歩日和ね。あなたもタロちゃんと一緒に歩いているかしら」
まるで「そうだよ」とでも言っているかのように、さっと風が吹いた。視線を戻すと、ひまりの前に、仲良く歩くハナコとタロウが見えた気がした。
ひまりはふふっと笑った。ハナコとタロウはどうやら今日も仲良く散歩しているらしい。
「私も、行かなくちゃね。ジロウ、今日はもうちょっと先まで行ってみようか」
いつもの散歩道が、今日もひまりの前に続いている。かつてハナコと一緒に歩いたその道を、ひまりはまた歩き出した。
了
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