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後宮の香女官は彼方を想う  作者: 鈴木しぐれ
第1章 血の雨が降るとき
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第1章-5


 翌日の朝早くに、明龍が尚香局へやってきた。二日連続の皇太子の訪れに、長官も同僚の女官たちもざわついていた。


 明龍は長官に許可を取ってから、香蘭を連れ出した。目立ちたくはないのだけれど、命令に逆らうことはできない。香蘭は同僚たちからの鋭い視線を背中に感じながら、明龍のあとについていった。


「犯人が確保された」

『一安心でございますね。何が狙いだったのですか』

「わからない」


 香蘭は不思議に思って首を傾げた。黙秘しているというのか。捕まったのなら、隠していても仕方がないと思うけれど。


「死んでいたんだ」


 香蘭は声が出ない代わりに、目を大きく見開いた。犯人が話さないのではなく、話せる状態ではないという。


「男には頬に切り傷があり、服装もあの少年の証言と一致した。爪には塩や赤土が詰まっていたから、犯人で間違いはない」

『逃げられないと悟り、自死したということでしょうか』

「俺もそう思ったが、検死によると死後一週間は経過しているらしい」


 明龍の眉間の皺がぐっと寄った。香蘭もその言葉の異様さにつられるようにして、眉間に皺を寄せた。どう考えても、日付が合わない。


『ですが、あの赤い雨は昨日の朝に』

「そうだ」


 香蘭が書き切る前に、明龍は肯定をした。そして、苦い顔をしながら言葉を続けた。


(しかばね)――君の言葉ならば魄か――が動いたとしか考えられない、と検死官からは言われた。あり得ない、よな?」


 こくこくと、書く前に何度も頷いた。


『反魂香は、亡くなった者を生き返らせるなどという伝承はありますが、実際は、魄を離れた魂の姿を見て、話ができるだけでございます。魄を動かすなんて、できません』

「そうだよな。……その男の魂を探してはくれないか」


 もしも、魂であっても本人から聞くことができれば、解決する。朝や昼では、魂が姿を現す力が、夜に比べて弱くなってしまうが、仕方がない。


 香蘭は明龍に案内されて、男が倒れている場にやってきた。香炉の中の反魂香に火をつけ、夜よりも見えづらい白い煙の向こうに、男の姿を探す。だが、見つからない。見えづらいから、というわけではない。本当に、影も形もそこには存在していないのだ。


 ――どうして?


 亡くなってすぐであれば、魂は己の魄の近くにいるはずだ。しかし、男の魂はこの近くにはいない。

 香蘭は、明龍へここにはいないということを伝える。そうか、と答えた明龍の声は少々落胆していた。


「男が死んでいることもだが、もう一つ気になることがあるんだ。雲が突然現れたというところだ」

『雲でございますか?』


「塩と赤土は、かなりの量が用意されていた。でなければ、宮廷全体に赤い雨を降らせることはできない。だが、その準備をした日に偶然雲が出てきた、というのは都合が良すぎると思わないか」

『確かに。そうでございますね』


 あの少年の話でも竹筒は地面にたくさん置かれていたと。その準備をしておいて、雲がなければ回収し、また雲を待つ、なんて非効率すぎるうえに、何度も不審な動きをしていたら誰かに見つかってしまうだろう。


「まあ、血の雨の原因を探れ、という依頼は完了した。改めて、力添え感謝する」


 香蘭は、律儀に礼を言う皇太子に対して揖礼をもって返答した。


 確かに血の雨の原因は判明したが、何とも後味の悪い終わりだろう。香蘭は、陽の光の下で早々に見えなくなっていく反魂香をじっと見つめていた。





 尚香局に戻った途端、香蘭は女官たちに囲まれた。

「殿下とお近づきなんて、生意気よ!」

「一体、どんな手を使ったわけ?」

「口が利けないからと同情でも誘ったのかしら? それとも色目? あんた顔の出来はいいものね」


 返事も言い訳もできないことをわかっているくせに、彼女たちは勢いよくまくし立ててくる。香蘭は首を振って否定をして頭を下げていたが、収まる気配がない。口撃だけでは物足りなくなったらしく、肩を突かれ、床に倒された。


「――ッ」


 叩いても蹴っても声をあげない香蘭は、彼女たちにとって恰好の憂さ晴らしの標的だ。日々溜まっている不満を、何かの口実を見つけては、こうして発散する。今日は特にひどい。一介の女官、彼女たちにとっては圧倒的に格下の


 『黙黙』が、皇太子からの呼び出されるなんてことは大事件だ。だから、目立ちたくなどなかった。

 香蘭は、目を閉じて終わるまでひたすら耐えるのだ。


「何をしている」


 いつの間にか、部屋の入口近くに明龍が立っていた。彼女たちが一斉に凍りつく。香蘭へ当たることに夢中で気がついていなかったようだ。もちろん、香蘭にも気づく余裕なんてなかった。


「来い」


 明龍に手を引かれて、香蘭が転がるようにして尚香局の部屋を出た。背後では言い訳めいたことを叫ぶ同僚たち声が聞こえていたが、明龍は一切耳を貸さない。


「これだから……」

 その後に続くのは、後宮は嫌いだとか、人は嫌いだとかそういう類の言葉だろう。


 早足で宮廷内を歩いて、庭に出たところでようやく止まってくれた。明龍の歩みが速くて、香蘭は少し息があがってしまっていた。


「あれは常態化しているのか」


 振り返った明龍は、冷めた表情で問いかけてきた。一方で、声には香蘭を気遣う色が滲む。ただの女官の状況を気にかけるなんて、人嫌いと括るにはこの人は優しい。


 筆談用のものは、置いてきてしまったから、言葉で返事をすることができない。香蘭は、肯定も否定もせず目を伏せた。


「詳しいことはあとで聞く。ついてきてくれ」


 香蘭が首を傾げると、明龍が眉間に皺を寄せた顔のまま続けた。


「皇帝陛下から、お声がかかった。俺と君に」

「!?」


 香蘭は声にならない悲鳴を上げた。上げたくても声は出ないのだけれど。香蘭は混乱のあまり、何度も首を振った。


「俺も内容は知らないが、尚香局の近くにいたから、一人で向かわせるよりはまだましかと思って行ったところ、あのような……。ともかく、急いで向かおう」


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