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後宮の香女官は彼方を想う  作者: 鈴木しぐれ
第1章 血の雨が降るとき
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第1章-2


 宮廷に血の雨が降った。そう報告を受けた明龍だったが、明龍自身も目撃していたためそう驚きはしなかった。だが、ため息は盛大についた。


「はあ……」


 明龍が身に纏うのは、杏黄色の生地に四本爪の龍をあしらった(ほう)だ。襟元には金色の刺繍があり、皇太子であると一目見てわかる仕上がりだ。特に、四本爪は皇后や皇太子、上皇に許された意匠だ。ちなみに五本爪の龍は皇帝のみが身につけることができる。


「厄介だな」


 豪奢な袍に気を遣うことなく、明龍は紫檀の椅子に背中を預ける。眉間に皺が寄っていて、険しい顔だと言われるが、通常がこれなのだから仕方ない。二十五歳にもなって可愛げを求められても困る。


 報告によれば血の雨が降った範囲は宮廷のほぼ全域で、目撃した者も多く、すでに騒ぎになっているという。呪いだ、凶兆だと言いふらす者も出てくるだろう。


「殿下、本当に血が降ってきたのでしょうか」

「調べてみないとわからないが、もしも本物の血であれば、死体が多く出るだろうな」

「うう……」


 それを想像したのか、明龍の側近である(シュ)勇雲(ユウウン)がしおれた顔をしていた。顔に出すぎだといつも言っているが、直る気配はない。明龍よりも二つ歳が上だが、可愛げがある。年齢ではなく個人の特性なのかもしれない、というところまで考えて余計なことに思考が流れていると自覚した。明龍は切り替えて勇雲へ尋ねた。


「勇雲、報告だけではないのだろう?」

「それは、その、はい」


 勇雲は言いづらそうにしているが、だいたいの予想はついている。一つ頷いてみせて先を促した。


「貴族たちから殿下へ、この騒動の原因を探ってほしいとの依頼がきております」

「わかった。引き受ける」


 明龍は即答した。しかし、勇雲は不満そうな顔を崩さないどころか深めている。いつもはにこにこと人のいい笑顔だが、それ以外の感情もわかりやすい。


「このような調べ事、殿下がなさらなくてもよいではありませんか」

「皇帝陛下のため、この宮廷に平穏を。そのために俺の『力』が役に立つのなら、そうすべきだ」

「殿下が、そうおっしゃるのならば」


 明龍が言うことには、従うのが勇雲の素直でいいところである。『濁った音』も聞こえない。明龍は立ち上がり、さっそく調査へと動き出す。


「まずは、あれが本当に血だったのか、確かめる必要があるな」

「あ、この窪みに今朝の雨の残りが溜まっているようですよ」


 勇雲は欄干にある窪みを見つけて指さした。そこから雨を採取して調べることができそうだ。


「いよっと」

「は!? おい、何をしている!」


 勇雲は窪みに指を入れて、その指を躊躇いなく口に運んでぺろりと舐めてしまった。突然の行動に、明龍は驚きの声を上げるだけで止めるには間に合わなかった。


「殿下」

「不明瞭なものを口に入れるな、早く吐き出せ」

「あ、はい」


 勇雲はなぜ怒られているのかわかっていなさそうな顔で、欄干の下に吐き出していた。


「殿下」

「なんだ、医官を呼ぶか」

「いえいえ、滅相もないです。この雨、血ではありません。血の味がしませんし、なんだか砂っぽいです」


 血か否かを、口に入れて味がするかどうかで判断したことには、少々いやかなり引いてしまった。引くなというほうが、無理があるだろう。黙っている明龍を見て疑っているとでも思ったのか、勇雲がもう一度窪みに手を伸ばそうとしたので、腕を掴んで止めた。


「血ではないことは、わかった」

「雨を飲むなんてこと、昔は日常茶飯事でしたし、それで命繋いでましたから」


 勇雲はからりと笑ってそう言う。明龍と出会う前の彼があまりいい生活をしてきていないことは、わかっている。話そうとはしないから、聞いたことはないが。


「次は調べに出るぞ」

「はい、殿下」


 明龍は、勇雲を連れて宮廷内を調べてまわる。目撃のあった場所を順に巡っていくが、得られる証言がどれも似通ったものだった。雲が突然現れて、血の雨が降ってきた、と。


 原因を調べるといっても、そもそも雨の目撃情報以外の手掛かりがない。誰も『嘘をついている』様子もない。

 明龍は、額の皺をさらに深くさせる。今朝降っていた赤い雨を思い出しながら庭をじっと見つめる。


「ここの庭は、こんな色をしていたか……?」


 何か、違和感があった。草花が植え変わったわけではないのに、庭の見た目が変わっている気がするのだ。小さな池が赤い雨のせいで淀んだ色になっているが、一部の変化ではなく、全体の……


「なるほど、土の色か」


 明龍は自分の持った違和感の正体に気がついて口端を上げた。元々は黄土色に近い色だった庭の地面が、今は赤茶色になっているのだ。一部ではなく、見える範囲のほぼすべてがそうなっている。


 勇雲の、砂っぽいという発言も合わせると、血の雨ではなく、大量の赤土が降り注いだことになる。一体、なんのために。


「いや、目的は犯人に聞けばわかる話だな」

「犯人がいるのですか」


 まだ状況を把握していない勇雲に、明龍は今まとまったばかりの推測を話して聞かせた。勇雲は顔を輝かせて明龍を褒めたたえた。


「赤土とは、思いもよりませんでした。さすがです、殿下! では、犯人を捕まえに参りましょう!」

 さっそく走り出そうとする勇雲を、待て、と一言で止める。素直に足を止めたが、不服そうな顔をしている。


「聞いてまわっても、証言がなかっただろう。朝早くに降らせるのだとしたら、夜中に動いているだろうが、司灯(しとう)や夜警の者から不審な物や人を見たという報告は上がっていない」

「そう、ですね。誰も見ていないとなると、あとは幽霊くらいしか……」

「幽霊?」


 明龍は勇雲の言葉を繰り返した。勇雲は、すぐにハッとした表情になって頭を下げた。


「申し訳ありません。昨日、女官たちがそのような噂話をしているのを聞きまして。荒唐無稽なことを申しました」

「いや、書物で一度見たことがある。幽霊と話すことができる香があると。確か名は……反魂香」


 明龍は、頭の片隅にいた知識の欠片を引っ張り出した。自分で言っておいて、苦笑した。それこそ荒唐無稽の話に他ならないだろう。だが、手掛かりがそこから繋がることもあるかもしれない。


「無駄足になるかもしれんが、尚香局へ行く。最近、香士が入ったと聞いた」

「かしこまりました。先触れを出しておきましょうか」

「いや、事前に知らせて対策を取られるほうが厄介だ」

「対策ですか」


 勇雲がよくわかっていない様子だったから、明龍が歩きながら説明をした。


「反魂香が実在するとしたら、幽世に干渉する術であるから、禁術にあたる。もしも、使い手がそれを理解していたら、隠すなり逃げるなりするかもしれないだろう。もしくはそいつ自身が犯人の可能性もある」

「なるほど。ですが、禁術であるなら素直に話しますかね」


 明龍は、勇雲の心配に口端を上げて返した。


「俺には関係のないことだ、嘘は通じない。だから調査がまわってくるんだろう」

「……貴族の方々が頼りになさっていて、側近としても誇らしい限りです」


 勇雲が言った途端、明龍は苦いものを口にしたかのように、顔をしかめた。こめかみあたりを押さえて、勇雲を軽く睨む。


「そんなつまらないことで、嘘をつくな、と言っているだろうが。不満なら不満と言え」

「も、申し訳ありません」


 勇雲の発した言葉が、明龍には濁って聞こえていた。それは、言葉を発した相手が嘘をついている証拠だ。明龍は物心がつく頃には、『他人の嘘を聞き分ける耳』を持っていた。どんなに表情を取り繕っても、思いと言葉が違っていれば、その声は濁った耳障りの悪い音となって明龍に届く。


 人は自分の利益のため、嘘をつく。宮廷では濁った音ばかり聞こえてきて不快で仕方がない。笑顔で嘘をつくやつらばかり見ていれば、人が嫌いにだってなる。


 政治上の駆け引きが日常の貴族たちにとって、嘘が通じない明龍は厄介な存在らしく、こうした調査を押し付けられるのだ。いわば子どもじみた嫌がらせである。

 勇雲はそれが不満らしく、時々こうして出てしまう。嘘をつかないと誓いを立てたくせに。


「まあ、皇太子のくせに獬豸かいちの力とは格好がつかない、というのはわからなくもないが」

獬豸は人の嘘が分かると言われる瑞獣で、正義を司り縁起はいいとされるが、皇帝の象徴たる龍と比べれば格は下がる。

「殿下自身がそのようなこと、おっしゃらないでください!」


「それよりも、お前は嘘をつかないように、気を引き締めてくれ」

「はい、申し訳ありません!」


 大きい声で反省を口にする側近に、明龍はため息をつきつつも怒りは湧いてこない。嘘が必ず知られるとわかったうえで仕えているのは、勇雲だけだ。


「香士といっても、所詮は女官。誰であろうと俺の前で取り繕うことなど、不可能だ」


 それがまさか、口の利けない相手だとは思ってもいなかった。


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