【一】報復少女
一
◇◇◇
雷鳴轟く空の下、少女は立ち尽くしていた。空より落ち岩を打つ雨に濡れようとも、閉じた瞼を開かない。ぼろぼろの着物を濡らし、寒さに震える手はかじかんだ。手に力が入らなくなりつつあった少女は、握った短刀の柄を離してしまわないよう精一杯の力をこめる。その瞬間、彼女は目を開き——
「えっ、なにこれ……?」
——自身の足元に転がる遺体を見た。
「男の人が、倒れて……!」
男が息をしていないのは明白だった。背中から大量の血を流し、うつ伏せに倒れていたそれは雨によって洗われている。少女は次に、同じように洗われている凶器を見た。即ち、彼女が握った短刀である。刀身から血と雨の混合液が滴り落ちていた。少女は思考を巡らせ、今の状況を整理する。そして誰の目にも明らかな、しかし、認めるにはあまりに悲惨な結論へと到達した。
「私が、やったの?」
少女の呟きは雨音で掻き消され、何処へも木霊しない……唯一、彼女自身の頭の中を除いて。私だ。私がやった。私がこの男を殺した。頭蓋の内で無数に反射を繰り返したそんな言葉たちは、やがて収束してこう示す。
——逃げようよ
啓示を声としてはっきり聞いた少女は、先程まで懸命に落とさんとしていた短刀をあっさりと放り、後退る。一瞬のみ目眩を感じた彼女。収まった瞬間にはもう恐怖心で一杯になっており、それに煽られるように走り出した。足袋が浸水しようが泥が跳ねようが走る。七度転ぼうが八度立って走る。無我夢中で走る。逃避行の末に行く当てはないが、少女はそれでも走った。
——遠くに。もっと、もっともっと遠くに
頭の中に再び声が響く。少女は導かれるがまま逃げ続けた。やがて雨は止み、日輪が厚い雲の隙間から顔を見せ始める。その頃にはもう、彼女は自分がどこに居るのか分からなくなっていた。
時間と共に意識が遠のいていく。草を掻き分けながら川辺を進んでいると、川を横断する橋を発見。その下に身を隠し、ひと眠りしようと彼女は考えた。棒になった足を引き摺りながら向かい、ようやく休めると安堵した少女。力が抜けて自然と地面へ向かう体。落ちる瞼。
「……うん?」
眠りに落ちる直前、彼女は目の前に小さな箱を見つけた。だがしかし、その正体について考える余裕はなく、すぐに寝息を立てる。穏やかな寝顔であった。大凡、殺人を犯した者であるとは思えないほどに。
二
◇◇桜華◇◇
「だから何が言いたいかっていうと——ん! げほっ、げほっ!」
お団子を頬張りながら神酒と話していた私は、散々噛んでやったことに対する報復を受けた。
「あはは。それはつまり」
私が死にかけているのに、神酒は冷静だ。
「調査が行き詰ってるってわけだね? ちょうど、今の君の喉にある団子みたいに」
やっと飲み込むことが出来た。今のはこの二年間で五本の指に入るくらいの危機だった気がする……大袈裟か。
「うん、そういうこと。聞き込みをしても情報は得られないし、もう何を如何調べたらいいのか見当もつかないって感じ」
ずずずとお茶を啜りながら、神酒は「ふうん」と鼻で返事をした。むせてしまえばいいのに。
「だったらさ、桜華。こっちから情報に歩み寄るんじゃなくて、逆に情報の方から来てもらうっていうのはどう?」
「……と、仰いますと?」
神酒の提案をいまいち理解できず、私は首を傾げた。
「簡単な事さ。何か所かに、お互いに匿名の依頼箱を設置するだけ」
「依頼? 個人探偵みたいなことをやるってこと?」
「まあ似たようなものかな。桜華はさ、今の立場や目的が無かったとして、何か困りごとがあったらどうする?」
それはつまり、私が復讐を生きる意味としておらず、ごく普通の町行く美少女だった場合の話。その仮定に従うなら、答えは一つ。困りごとがあったら、そりゃあ……。
「私に限らず、普通は防人に頼むと思うけど」
「ご明察!」
どうしてか嬉しそうな神酒。
「そう。桜華の言った通り、普通は防人に駆け込むんだ。何処の誰が好き好んで怪しげな依頼箱になんか投函するだろう」
確かに。どこの誰が置いたのか。そもそも依頼は本当に対応してもらえるのか。それすら分からないような箱に頼みごとを入れるなんて、ちゃんちゃらおかしな話だ。
「つまり神酒は、それでも尚、依頼箱に入るような頼みは普通の頼みじゃないって言いたいわけ?」
「あはは、その通りだよ。闇市みたいな雰囲気で、防人には頼めないような頼みが集まるかもしれない。もしそうなれば、高祠之国の闇に迫る近道になり得ると思わないかい?」
一里も二里もある。だけど私は、神酒の考えを理解した時からちょっとした不安を抱いていた。
「もし依頼内容が、とんでもない大犯罪の手伝いだったら?」
「その時は……『残念、箱は只の悪戯でした!』でお終いさ。その依頼書をこっそり防人の駐屯所に放って、社会貢献したっていいし」
「なるほどね……」
私はちょっと、神酒の事を極失礼な方向に誤解していたかもしれない。生来の豪運で以て何もかもを強引に押し通すんだと思ってたけど、彼女は彼女なりに色々と考えているみたいだ。
「という提案なんだけど、どうかな?」
神酒はそう、私の顔を覗き込んで言った。
「行き詰ってうだうだ言ってるより全然いいと思う。やってみようか、ちょっとわくわくするし」
「あはは。そう来なくっちゃ!」
とりあえず、神酒の家にお邪魔して準備を進めることになった。箱を用意して、その箱が何なのか示す文言を書かないといけない。
内容はこうだ。
——依頼箱。何かお困りごとがございましたら、文書にて承ります。どうぞお気軽にご連絡ください。依頼料は応相談
「お金とるんだ」
「あはは、当然さ。いくら稼ぐ方法が無数にある私とはいえ、ただ働きは御免だからね」
そんな依頼箱を十個用意し、町に出る。防人の掲示の近く、路地裏のごみ箱の横、祠の陰。いかにも怪しげな箱を、これまたいかにも怪しげな場所に設置して回る。なんだか背徳感があるな……。
「よし、あと一箱だね。これは何処に置こうか」
防人にしょっ引かれないかと、半ば怯えながら神酒の言葉に耳を傾けていた。そんな私の心臓を止めてやろうという陰謀か、背後から唐突に——
「あら、桜華じゃない」
「ひゃんっ!」
思わず変な声が出てしまった。蠱惑的とまでは言えないものの、町行く人の何人かは魅了してしまったかもしれない。私って罪な女。……などと考えることで手遅れにも平静を演じ、振り返って声の主を確認する。後ろに居たのは、堂々とした立ち姿の女性と、その隣でにこやかに笑う男の子。先日、道場で知り合った姉弟だ。
「愛徳に、刀真くん? 吃驚した、まさか南西部で会うとは思わなかったよ」
「こんにちは、桜華お姉さん」
「それより今の声は何?」
刀真くんのとは似ても似つかない種類の笑顔を浮かべて言う愛徳。恥ずかしさのあまり今すぐ斬り伏せてやろうかと思ったけど、やめた。理由は単純。そんな事をすれば、斬り伏せられるのは確実に私の方だからね。
「私の声はいいから。二人はどうしたの? 何か用事?」
聞いてみると愛徳は咳払いをして、揶揄うような顔を真面目な顔に変えた。百面相?
「あの日以降、道場を休業してるの。ここ数日はその休みを使って、新しく道場を始められる場所を探しているわ」
防人の掲示に曰く、道場の町で起きた襲撃事件では犠牲者が出なかったとのこと。だけど同時に、襲撃犯の捕縛に成功したわけでもないらしい。より正確には、下っ端数人は捕らえたが毒を飲んだらしい。要するに、駆け付けた小次郎さんや五月雨の戦果は、襲撃犯——彼らはスサノオと呼んだ——の撃退に留まるということだ。八咫鏡の贋作を掴まされたと知れば、また襲ってくるかもしれない。だから場所を変えようというわけだろうね。
「いい物件は見つかった?」
「いくつか候補はあるわ、まあ順調といったところね。……問題は、場所より名前よ」
「名前?」
「そう。場所もそうだけど、名前も変えないといけない。これが大問題なの」
私は思わず首を傾げた。心映会という道場の名前は、確かに己の心に向き合うという教えを反映したいい名前だと思う。でも、だからって愛徳が言うほどの問題なのかな?
「私からしたら、場所の選別の方がよほど大事な気がするけど。名前ってそんなに重要?」
「分かってないわね」
呆れたように、溜息混じりで言う愛徳。これにはもう慣れた。
「じゃあ桜華。あなたは自分の名前が猿公だったらどう?」
「う~ん、それはだいぶ嫌かも。こんなにも可愛い絶世の美少女には、その名前は合わないし変だね」
「……。それはともかく、名前は古来より大切な物とされていて、己の在り方を示すの。それに神聖な面もあって、名前を奪われることは支配されることと同義だったり、相手に馬鹿にしたような名前を付けることで格式を下げたり——」
「つまり姉ちゃんが言いたいのは」
呪文を唱えているみたいだった愛徳を、刀真くんが遮った。
「名前は魂に並ぶ大切な物だから、蔑ろには出来ないって事だよ」
分かりやすく教えてくれた刀真くん。一方のお姉ちゃんは顔を少しだけ赤くして、「そ、そういうこと」なんて威張ったような口調で言った。
「えっと、感動の再会を邪魔して悪いんだけど」
今度は神酒が言う。
「桜華、もう行かないと日が暮れるよ」
「ああ、ごめんごめん」
そう言えば、残りの依頼箱を設置しに行こうとしてたんだった。
「神酒、行く前に紹介しておくね。道場の主をやってる愛徳と、弟の刀真くん」
周囲をきょろきょろと見回し、近くに人が居ないことを確認して忍び声で続ける。
「この前話した、八咫鏡の所有者だよ」
「ちょ、あんた」
愛徳が一歩前に出た。
「ごめん、でも落ち着いて愛徳。彼女は神酒。私の友達にして協力者だよ。だからその……事情を知ってる仲間ってこと」
「なんだ、そうだったのね。……ご紹介に預かった愛徳よ。こっちが弟の刀真。私も桜華の事情は聞いてる。仲間だって言うなら、また何かの機会に会うかもしれないわね。その時はよろしく」
愛徳にしては聞き分けがいいな……なんて失礼な事を考えているうちに神酒も名乗り、私と同じ目的を掲げていることを明かした。
「よろしくね愛徳、刀真くん。共通の友達が居るわけだし、お互い堅苦しいのはなしにしよう。それにほら、十個も二十個も歳が離れてるわけじゃないだろうから」
愛徳とも刀真くんとも握手を交わしており、すっかり馴染んでいる。神酒の表情から察するに、彼女の事を「神酒お姉さん」と呼ぶ刀真くんには、若しかしたらとある少年の姿が重なっているのかもしれない。
「それはそうと、用事があるなら邪魔できないわね。私たちも予定があるし。刀真、行くわよ」
「うん、姉ちゃん」
じゃあまたと解散し、暫く姉弟の背中を見送った。
二人の姿が見えなくなった後で、神酒と箱設置場所を目指す。最後は川辺だ。南西部の町から、川に沿って港町方面に歩いた場所に設置することにした。
「桜華。川辺に置きたいって言ったのは君だけど、何か理由でもあるのかい?」
「ん? ああ、まあなんというか、川辺には困ってる人が来やすいなあと思って」
薬袋然り吉三さん然り、十人十色な理由で思い詰めた人が、川辺によく足を運ぶ。
「……なるほど、それなら納得できる。経験上、ね」
神酒はそれ以上詳しく言わなかったけど、彼女の場合、その経験というのは自分自身のことかもしれない。
箱を置いて私たちも解散。明後日またお菓子屋で合流し、箱の様子を確認する約束を交わした。




