第二話 茜色に染まる
「ん゛あ゛あ゛!!!」
うつぶせに倒れていた俺は何とか起き上がった。砂が口の中にたくさん入っていて気持ち悪い。口の中の砂をペッと吐き出して周りを確認する。どうやらビーチのようだ。目の前は広大な海が広がっていて背後には崖がそびえたっている。崖の高さはかなりあるがさっきの山ではないようだ。
周りを見渡してもさっきの山はどこにもない。海と砂浜と崖だけだ。いろんなことが一斉に起こりすぎて何が何やらわからない。
呆然と海を眺める。一定の周期で波が押し寄せ心地よい音が聞こえる。斜めから刺す少し弱い日の光があたたかい。つんとする潮のニオイもする。ふと流れてくる潮風が頬を撫でる。どうやらこれは現実のようだ。
「そうだ!こういう時は!」
今起きている現実に対して呆然としていたがはっとして、急いでポケットの中にあるであろうスマホを探す。
これは紛れもなく非常事態だ。
どう連絡を入れたらいいか全くわからないがそれでも連絡をしないと会社で何を言われるかわからない。
しかしズボンのポケットの中にスマホはない。ジャケットにも入っていない。そういえばカバンも持っていない。落下中に落としてしまったのだろうか。どうやって会社に連絡を取ればいいのか!無断で休んだら怒られるというレベルではない!
かなり焦ったが心の中である考えがひらめいた。
これは異世界転生というやつではないだろうか。
自然と笑顔がこぼれ心が弾んだ。もしそうならかなりラッキーだ。つらい現実を誠意をもって生きてきたかいがあったというものだ。こういうのはほとんどの場合チート能力があったりハーレムを築き上げたり、のんびりスローライフするものだと相場が決まっている。しかも、普通魔法が使える世界だ。めちゃくちゃ強い魔法が使えるのだろう。これは興奮する。
ということは、かわいい女の子が俺を迎えに来てくれたりギルドがあったりするのだろう。しかし、周りには誰もいない。そうか。これは歩いていたら襲われている女の子を救ってその子に惚れられてハーレムというパターンかもしれない。そうに違いない。
女の子を助けるにはおそらく戦うことになるだろう。俺が使えるのは魔法スキルか剣術スキルか…。そうだ。ステータスを確認しよう。
「ステータスオープン!」
腕を胸の前に掲げてそう叫んだが何も出てこない。それから思い当たる言葉で叫んでみても何も起こる気配はなかった。もしかしたらギルドでカードをもらって…というパターンかもしれない。しかし、周りには砂浜と崖があるだけで建物や人の気配もないのだが。
しかしまだ焦る必要はない。大丈夫だ。俺は今まで頑張って生きてきたから今こうして異世界にたどり着いているんだ。さすがに魔法くらいは出るだろう。
「頼む出てくれ!ファイアー!」
手を前に出して叫んで見たが何も起こる気配はない。
それから30分ほどいろいろなことを試したが何も起こらなかった。そりゃそうだ。
途中から気が付いていたが落ちてくるときただこの山に登れば元の世界に帰れるといわれただけだ。魔法があるとかチート能力だとかステータスだとかそういうことは一切言われなかった。だからこそ期待したところもあったのだが。
内臓に鉛玉が詰まっているかのような重さと気持ち悪さを感じる。異世界に転生してしまったというのに何の道具もなく、特殊能力もないなんて。ちょっとくらい現実は俺に味方してくれてもいいじゃないか。碌な人生が送れず、いきなり異世界にたどり着き何の能力もないなんてみじめすぎる。
パニックになりそうだった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
あの時望遠鏡をのぞいていなかったら。
マスターに引き留められたタイミングで帰っていたら。
あの時ドアを覗いていなかったら。
あの広告を見て変な気分になっていなかったら。
いつもの日常のままでいられたのに。
いつもの日常?一時間前の満員電車の圧迫感、上司にびくびくしながら過ごす日々、何も変わらない日々を繰り返すだけの現実、会社とテレアポで常に相手から不要、無能、いらないと評価される毎日それがいつもの日常じゃないか。
ただ精神もプライドもボロボロになって捨てられてゆく社会の底辺が今までの日常で俺には輝かしい人生なんてないとあきらめざるを得ないのが今までの日常だった。
それでもあの日常に戻りたいと少し考えてしまった。確かにつらいことは多い。でも人間不思議なことで辛いことをずっと繰り返してゆくと慣れてしまう。ストレスはもう尋常じゃないけれどあの会社を辞めることは想像できなかった。
少なくともこの世界とは違ってかなり狭くてぼろいが自分の家もあるし、ぜいたくはできないが毎食食べていけるお金もある。彼女はいないが田舎には父と母がいる。今はそれらすべてがないのだ。生活の基盤がないのなら毎日がしんどい社畜の人生でもロマンはあるけれど生きるか死ぬかわからない生活よりはましだ。
でも目の奥にまだあの山がこびりついている。あの凛とした美しく彫刻のような山が。
あのまま死んだような日常を送っていてあの景色は見ることができたか?
もう訳が分からない。頭の中はショート寸前とかいうやつだ。前の日常、見ず知らずのこの世界。俺はなんてついていないのだろう。大きくため息をつくと同時にもうすべてがどうでもよくなって海岸沿いでただ体操座りをする。
だんだん日が水平線に近くなってくる。もう夜も近いというのに食事もなければ寝床もない。そもそも崖と海しかない。
時間の流れは残酷だと思った。混乱しているこっちには気にも留めずどんどん進んでいく。そうやって時間が進んだことを見て焦っているうちに選択できることはどんどん減っていって無難な方、無難な方へと選択が流されて俺のように社畜になるのだ。
おそらくあの女優みたいに成功した人は時間を大切にして、一瞬一瞬力を抜かずに生きて選択してきたから成功しているんだ。やはり俺にはそんなことはできない。俺は本当にどうしようもないのかもしれない。
「わかってんならさっさと動けよ。俺よ。」
情けなくて自傷の笑みを浮かべて言葉を吐き捨てる。悩んだり止まっているところで今の状況が変わったり救助が来るとは思えない。とりあえず砂浜を進んでゆくことにした。
しばらく下を向きながらとぼとぼ歩いていると、どうやら湾内に入ったらしく、反対の海岸が見えはじめていることが分かった。もはやそんなことはどうでもいいと感じた。
しかし崖による死角がなくなりその湾内のすべてが視界に入り込んだ時そんな消極的な考えが、いや、それだけではなく今までうじうじと悩んだことがすべて吹き飛んだ。
世界のすべてが赤に染まっていた。海は夕日の光を受けキラキラとオレンジ色に輝いている。
海岸沿いに見える町はぽつぽつと暖かいオレンジの光を放っており、それが山際に続いている。
天に向かってそびえる壁のような山々は湾を囲むようにそびえており、その山肌が太陽の光を反射して真っ赤に輝いている。この世に存在している原子の一つ一つまでが赤色に染まっているように感じた。
この景色は今までの日常を送っていたら決して見ることができなかったものだと直感で分かる。
「人生変えるなら今がチャンス!」
またふとあの女優がいていたフレーズが頭に浮かぶ。正直なところ初めてあの広告を見た時は怒りが走った。バカにしやがって、そう人生甘くない、お前は人生イージーモードでいいよなと思った。頭の中で99%はそんなことは戯言だ、まやかしだ、俺が電車に乗ってるうちに二度とその文字見せるんじゃねぇぞ、そう思っていた。
でも1%は違ったと思う。
その戯言につられて扉を開けた。あの荘厳な白い山を見た。赤く彩る世界にもこうしてたどり着いた。今までの辛く希望がない日常が変わったのだ。
もしかしたらあの女優もどこかのタイミングでこんなハプニングに近いような出来事に出会ったから俺たちとは違う人種になれたのかもしれない。
そして俺もそのチャンスをつかんだのだと思う。変わるために必要などこか人と違うことをおこなったのだと思う。
俺はこの現実世界の何倍も美しいこの世界で成功してやるんだ。そうこの景色に誓った。




