『わたくしの旦那様は素晴らしいのです』蛇足番外編(主人公はセラフィーナ) 2.男爵夫人に届いた報せ
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――どうしてそんなことになったのか。
やりきれなさばかりがセラフィーナの心を埋める。
蹲ったままオフィーリアの眠る石版に手をつく。
涙を滂沱と流せば、年甲斐もなく鼻水まで垂れそうになった。はしたなくも啜ると、眉尻を下げておっとりと微笑むオリヴァーがハンカチで拭ってくれる。
「……オリヴァー、痛いですわ」
「濡れてぐちゃぐちゃになった化粧も、ついでに落とそう思ってね」
「痛いですってば」
「そうだね」
「……っ、痛くて、たまらないのです!」
既に瞼を腫らしたセラフィーナの目から、次から次へと透明な雫が零れ落ちていく。彼女が痛むのは、きっと――間違いなく、心なのだろう。
それに気づきながら、オリヴァーは強がるセラフィーナの涙をハンカチで隠す。
彼女はいつだって強がりだ。けれど、決して強固な心の持ち主ではない。取り繕っているだけだから、わずかな綻びに気づいたオリヴァーが解し、セラフィーナの弱さを受け止める。
オルコック伯爵カーティスからオフィーリアとローランドがどこに埋葬されているのか訊いたカルヴァート男爵夫妻は、教会墓地に向かう前に寄りたい場所があった。
――鈴蘭の庭園。
オフィーリアが愛した場所。
オフィーリアがまだ元気だった頃、彼女は優艶に微笑みながら言ったのだ。
『旦那様と、毎年庭園の鈴蘭を眺める為に散歩をするのです。そのひとときが、わたくしにはとても大切なのです』
彼女にそこまで言わしめた庭園を、セラフィーナは一度見てみたかった。
さわさわと、鈴蘭の花が風に揺れる音がした。
視界には、白と緑の絨毯が広がる。
風ゆえに崩れそうな髪を抑えながら伏せた睫毛。
しかし人の気配に顔を上げれば、白髪の交る黒髪を纏めた女性が数歩先に立っていた。
簡素なドレスは彼女の身分が貴族ではないことをあらわすが、けれど彼女は大きな手荷物を足元に置き、淑女顔負けの仕草で綺麗な礼を執った。
「お久しぶりでございます、セラフィーナ様」
淡く笑んだ顔に刻まれるいくつかの皴。若く見える彼女だが、恐らく見た目年齢よりもずっと歳をとっているのだろう。だって、彼女は――。
「オフィーリアのメイドの……メアリー、だったわね。久しぶり」
セラフィーナの記憶にぼんやり浮かぶ、ミモザの会の際にオフィーリアの傍にいた黒髪のメイド。当時のメアリーは、まだ髪に白髪が交ってはいない見事な黒髪の娘であった。
思えば、長いことセラフィーナはオフィーリアに会っていなかったのだと思う。
――もっと、何度も、一分一秒でもいいから会う努力をするべきだった。
苦味を帯びた心に即席の蓋をして口角を上げてみせたものの、失敗してしまったらしい。背後から見守るように立っていたオリヴァーが、セラフィーナの肩を慰めるように優しく抱いたから。
強い自分を取り繕うようにセラフィーナは言葉をつぐ。
「メアリー、これからどこかへ行くの?」
セラフィーナは何気なく訊いた。それは、メイド服を着ておらず、メアリーは大きな鞄を携えていたから問うただけで、深い意味はなかった。
寄り添う二人に温かい眼差しを向けながら、メアリーは言葉を紡ぐ。
「……主を失ってしまったので、邸を辞して、のんびり家で老後を過ごそうかと」
「そう、なの」
思わぬ自分の失言にセラフィーナは睫毛を伏せるが、メアリーが気を悪くした様子はなかった。
「ですが、帰る前に、セラフィーナ様にお逢いできて良かったと思います」
「え?」と再び視線をメアリーへと戻したセラフィーナに、彼女は青い瞳をまっすぐ向けて言った。
「セラフィーナ様に、お伝えしたいことがあったのです」
不思議な色を浮かべたメアリーの瞳。目の形は笑んで見えるのに、決して愉悦も幸福も宿していない。
ゆえに、セラフィーナはどこか躊躇うように眉宇を顰めた。
「なに、かしら?」
メアリーは目を細める。
「オフィーリア様は、すべて話すことを望んでいないのかもしれません。ですが、私は貴女になら、話したいと思います。……どんな形であれ、オフィーリア様の幸せを望んでくださった貴女に」
そうして、黒髪の彼女はオフィーリアとローランドの恋を話し始めた。
オフィーリアは、ずっと片恋のままだと思った状態で、それでも幸せだと言って死んでしまった。彼女は矜持にかけて、初夜から一度たりてローランドの名も愛の言葉も紡がなかった。
ローランドは、オフィーリアに確かに恋をしていた。だからこそ、オフィーリアの本心を知って自害した。例えそれがメアリーの言う青い薔薇の呪いの為だとしても、彼は一度間違いなく絶望したのだ。そして、来世に託した。
『ごめんなさい――オフィーリア様は、それだけセラフィーナ様に伝え忘れてしまったとおっしゃっていました』
さわさわと揺れる鈴蘭の音にかき消されそうになりながら届いた、メアリーの言葉。何度も脳裏に蘇るそれは、セラフィーナの胸を抉る。
やるせなくて何度もオフィーリアの名が刻まれた石版を叩く。痛くて苦しくて、やり場のない感情をなんとかしたくて。
それでも行き場のない感情がとぐろを巻く。辛くてたまらず、石版についた手をぎゅっと握った。手のひらに爪が食い込む。そんな痛みなど、この胸の痛みに比べれば大したものではない。
「どうして、気づかなかったのです? ――貴方達だけが!」
オフィーリアとローランドは、セラフィーナの目には確かに愛し合っているように見えた。セラフィーナだけではない。慈しむ眼差しといつだってオフィーリアを優しく気遣うローランドの姿、ローランドに寄り添い立ち、愛おしむ眼差しで夫を見上げるオフィーリアの姿。誰が見ても、二人は愛し合い、仲睦まじい夫婦でしかなかった。亀裂など、そこには見つけられなかった。
「どうして、貴女達だけが互いの気持ちに気づかなかったのです……っ」
セラフィーナは悲劇が嫌いだ。陰鬱な気持ちを引きずってしまうから。だから、”オフィーリア”にも幸せになってほしかった。『ハムレット』のヒロインと同じ名前の――大切な同士だから。幸福に満たされてほしかったから、幸せを祈った。
「セラフィーナ」
どこまでも温和な夫の声に、縋る。石版とは違う、温かいオリヴァーの体温に包まれれば、不思議と心が凪いでいく。オリヴァーは、いまやセラフィーナの精神安定に必須なのだ。
泣きすぎてぼんやりと痛む顔面と頭。ゆらゆらと揺れる思考で、セラフィーナは呟く。
「……ローランド様は、青い薔薇の呪いに託しました」
「そうだね」
オリヴァーは子守唄をうたうように優しい声で肯定した。
だから、セラフィーナも続ける。
「ねぇ、オリヴァー。二人はまた、めぐり逢えるかしら? 私も、二人にまた逢いたいですわ」
くすりと小さな笑声がオリヴァーから零れる。
「――逢えるよ。私も一緒に」
その言葉が、セラフィーナにとってどこまでも救いになった。
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