あるメイドの困惑
私がノースの町の王宮魔術師、ジェイデン・コールス様のお屋敷に仕えて一か月になる。
平民の私が貴族のメイドになれたのは、一言で言えば運が良かったからだ。コールス家の就業条件の良さはノースの町でも有名だったが、幸運にもメイドの中に私の知人がおり、彼女の紹介という形で私は採用された。ここが駄目なら親の持ってきた縁談を進めるか、あるいは安い賃金で住み込みの下働きになるかという瀬戸際だったので、私はほっと安堵の息を漏らした。
コールス家の使用人たちは皆気さくで、メイドの中には貴族の令嬢をいるらしいが、私は誰か知らない。持ち物や仕草でそれとなく察することもできるが、触れない方がいいのだろう。この家で働くものは皆同じ使用人であり、仲間である。そこに生まれは関係なく、互いを尊重し合うべきだ。そういうメイド長の言葉に、私は感銘を受けた。
感銘を受けたのだが、あくまでそれは使用人の間のことである。決して屋敷の中とは言えど、仕える者と仕えられる者の線引きは、はっきりしているはずだ。だから目の前の光景に、私は自分の目を疑った。
ふわふわとした茶髪を揺らす先輩メイドが、奥様を床に座らせて仁王立ちしているのだ。
「あのねぇリーコ! 困るのはリーコじゃないのよ、私たちなの。わかる?」
「はい、申し訳もございません」
奥様は廊下に自主的に正座――落ち人が持ち込んだ拷問用の座り方だ――をして、頭を下げている。シンプルな紺のワンピースが、磨いたばかりの床に広がる。私はほっと「さっき床を念入りに掃除してよかった」と胸をなでおろしたのだが、頭を振ってその思考をかき消した。そもそも、奥様を床に座らせるなんて間違っている。
「シ、シンシアさん!」
「なぁに? 今お説教してるの!」
「いえ、お説教じゃなくて……奥様! 相手は奥様ですよ!」
「それが……?」
「えっ」
「えっ」
奥様と私の困惑の声が重なる。――え、奥様?
驚いて奥様へと視線を向けると、その真っ黒な瞳はまっすぐに私を射貫いていた。そして私の顔をたっぷり見つめると、合点が行ったようにああ、と声を漏らす。奥様はスカートの裾をぞんざいに叩きながら、よっこらせと優雅さのかけらもない声をあげて立ち上がった。
「そういえば最近入った子なんだっけ?」
「は、はい! カリナと申します……っ!」
「あーえっと、別にそんな緊張しなくて大丈夫だよ。取って食いやしないから」
「そうだよ、奥様なんだし」
一通りお説教して気が済んだらしいシンシアさんが腕を組みながら、うんうんと頷く。いえ、奥様だから大問題なんですが。そんなメイドからの適当な扱いを気にした様子もなく、奥様は痛むのか足をさすりながら、からからと笑った。
「えっとね、新人さんは知らないかもしれないけど、私元はメイドの出なんだ。シンシアとは、元同僚」
「えっと……」
「あ、うん。貴族の令嬢とかでもなくて、ただの平民だよ。といっても、落ち人だからこっちの世界の平民にも当てはまらない微妙なとこなんだけどね」
「さ、さようでございますか」
いくら奥様が元平民と言えど、現在はこの屋敷の当主の妻である。つまり、貴族。
「まあそんなにかしこまらなくても、私もジェイも気安い方が好きだから。えーっと……リーコ・コールスです。一緒にこの屋敷を盛り立てていきましょう!」
「も、盛り立てて、ですか……?」
奥様から差し出された手を握りながら、問いを返す。すると奥様は、首を傾げながらシンシアさんに視線を向ける。
「あれ? 間違えたかな?」
「うーん、貴族っぽくはないかなぁ。18点」
「それ何点満点?」
「もちろん100だよー」
「辛辣」
そういいながら年頃の少女みたいにくすくすと笑い声を漏らす二人を見つめて、私は首を傾げるしかできなかった。
□
ハウスメイドの仕事に草取りは入るか、否か。そう頭の中で議論しながら、うだるような赤の根源の日差しを背中に一身に受けていた。ぬぐってもぬぐっても汗が流れ出る。脱水症状で頭がくらくらしながらも、私は花々の隙間からにょきと頭を出す名も知らぬ雑草を抜いていた。庭師はいるが、草木の伸びが早いこの時期はメイドまで庭の手入れに駆り出されるらしい。いつもは優雅にほほ笑んでいるニコレッタさんですら、しゃがみこんで土を触っていた。
ふいに、影がかかる。不思議に思い振り返ると、そこにはたくさんの手ぬぐいを持った奥様が笑顔で立っていた。
「暑いね、お疲れ様」
そういって奥様が渡した手ぬぐいは、ひやりとしていた。真っ白な布の端に、小さく青い糸で刺繍がしてある。奥様の意図が分からずじっと見つめ返すと、彼女はふふと親しみやすい笑みを浮かべた。
「ああそれね、冷却の魔術がかかってるの。首に巻いておくと、涼しいよ」
「ま、魔道具ですか!?」
魔道具と言えば、この屋敷にもいくつも置いてあるのを目にするが、本来ならば銀貨数枚では足りないものだ。それをこんな、使用人に渡すなんて変だ。給料から天引きでもされるのだろうか。手ぬぐいを片手にあわあわとしていると、同じものを受け取ったニコレッタさんが優雅にほほ笑む。
「もらっておきなさい。趣味なのよ」
「趣味、ですか……?」
「そうそう、私の趣味なの。まあジェイの手は借りるんだけど、簡単なものならすぐできるから」
奥様はこともなげに言うが、これ一枚だって下手した平民が一か月ほど遊び歩ける金額になるかもしれない。それを惜しむ素振りもなく、使用人たちへと配布する。それも一枚や二枚ではない。
「あの……ありがたく、頂戴いたします」
「うん、効果が切れたら言ってね」
何がうれしいのか、そういって子供みたいな笑みを浮かべる奥様に、私は首を傾げたくなった。
□
旦那様は威厳がある方だが優しく、まるで貴族の鏡のようなお人柄だ。奥様は平民の生まれゆえかとても気さくで、一緒にいるとほっとしてしまう空気を持った方。奥様の身軽さには驚かされることもあるが――先日はキッチンメイドと一緒になって食事の下ごしらえをしていた――それも徐々に慣れつつある自分がいた。
そんな奥様の気質を受け継いでか、お二人のご長男のクリフォード様は齢2歳にして、毎日屋敷の中を臆することなく動き回っている。気が付くと旦那様の執務室にいたり、使用人の談話室にいたり。それまではいいのだが、お庭で泥まみれになって遊んでいることもあった。乳母のエリスさんが声を張り上げて、クリフォード様の名前を呼んでいることも少なくない。
何人もメイドがついているのに、いつの間にか姿を消してしまうので、既に魔術の才能に目覚めているのではないかとメイドの間ではもっぱらの噂だ。その話に便乗した奥様は、我が子は天才かもしれない、と打ち震えていた。あっさりと皆に流されていたが。
古株のメイドが多いので奥様の扱いは、公の場以外ではぞんざいである。私もついうっかり流してしまいそうになるので、慣れとは恐ろしい。
しかし、奥様は夜会となればひとたび優雅な貴婦人に変身される。艶のあるたっぷりとした髪を結い上げ、薄い薔薇の花弁のように染められた頬と庇護欲をそそる外見は、まるでまだ恋を知らない乙女のようだ。
賛美の言葉をかけられる奥様は、屋敷に戻るとその貴婦人の仮面をすっかり脱ぎ捨てて、経産婦に乙女とか、と自嘲するように笑っていた。なんともまあ、最後まで決まらないお方である。
私たち屋敷のメイドから見ると奥様は自由奔放で、気さくで、どちらかというと野に咲くたんぽぽのようなかわいらしさを持った女性なのだが、他の貴族からするとそれは違うらしい。
奥様が旦那様と結婚した当初、いくら嫡子ではないといえ見目麗しく優秀な旦那様を狙っていた他家のご令嬢たちからは、大きな反発があったと聞く。
旦那様を奪おうと襲い来る令嬢たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げ――はしないが、奥様は上手に躱した。ちくりとした嫌味など刺さった様子もなく、平然と、胸を張って宣言した。
――私はジェイを愛してします。例え女神に甘言を囁かれたとしても、私はジェイの隣を選びます。あなたがたにその覚悟はありますか?
奥様が落ち人であることは、貴族の間には知れ渡っていた。奥様が、何も恥じることはないと隠さなかったからだ。
そして女神の贖罪とも呼ばれる、落ち人の帰還も市井にまで広まっていた。つまり奥様は、事実、女神の甘言を跳ね除け、旦那様の隣を選んだのだ。
奥様の宣言から目に見えて勢いの落ちた令嬢たちを、奥様は今度は上手に懐柔し始めた。飴と鞭を使い分け、美しい刺繍の品や、年若い子たちが好むような珍しい髪飾りを贈ったりしたそうだ。
ああいうのは昔から得意なんですのよ、と布でできた花飾りをホワイトブリムにつけたエリスさんは意味深な微笑みで語った。
奥様は不思議と、年頃の令嬢たちの扱いを心得ていた。私には平民出身である奥様がそんな技術をどこで身に着けたかなんて想像もできなかったが、見事な手腕で奥様は徐々に令嬢たちに受け入れられていった。令嬢たちよりも幾分か年上だが、今ではお姉さま、お姉さまと慕う者さえいるらしい。
当主たちは旦那様によって、令嬢たちは奥様によって。クリフォード様がお生まれになる頃には、お二人の婚姻を反対する声は聞こえなくなった。
「クリフーほら、天気がいいわよ」
廊下の先のバルコニーで奥様がクリフォード様を腕に抱いて、外を見せている姿が視界に入る。コールス家の屋敷は暑い盛りだというのに、廊下まで涼やかな風が吹いていた。奥様と私の間には随分と距離があるので、掃除をしながら和やかな様子をこっそり眺めていると、執務を終えられた旦那様がやってきて、クリフォード様を奥様から受け取る。
「ほら、お父様よー」
「おー、とー?」
「……やっぱり、お父様呼びはもうちょっと先がいいんじゃない?」
「そうか? クリフならやれると思うが」
「ぃーこー!」
「あ」
クリフォード様の発音しきれない言葉に、お二人が顔を見合わせる。
「ジェイが私のこと名前で呼ぶから、クリフがそっちで覚えちゃった」
「仕方ないだろう……ママ?」
「うっ」
「とでも呼べばいいか?」
「くすぐったいからやめて」
奥様が耳まで真っ赤にして、うつむく。それを引き寄せ、旦那様は見ているこっちがとろけてしまいそうな笑みで、奥様の額にキスをした。
「俺は妻を、名前で呼びたい」
「……でも、クリフが」
「いいじゃないか、呼び方など」
「自分はこだわ――」
旦那様は奥様の言葉を妨害するように、唇をふさぐ。私はこれ以上見てられないと、物音を立てないようにこっそりその場から逃げ出した。お二人の雰囲気に当てられて、きっと私の顔は赤く染まっているだろう。顔が熱い。
途中私とすれ違い廊下の先へと行くケイトを止めながら、呼吸を落ち着ける。ケイトが不思議そうな顔で「どうしたの」と尋ねるが、私は首を傾げて知らないふりをした。




