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ネーラの名の下に

 聖都から馬車で一日。

 間に一泊挟んでたどり着いたのは、聖都の次に大きな街だった。

 ミィは、それなりの規模を誇る商家の一人娘、らしい。本人が何も言わず、それらしいそぶりもなかったのでカディスはまったく気づかなかった。とはいえ、家計が苦しい家でもなかったので、仮にこれが明らかにされていたとしても結婚の許しはでなかっただろう。

 ミィをひとまず彼女の母に預け、カディスは義父となる男と二人っきりになった。

「……よろしかった、のですか」

「ん?」

「あんな大金を」

 しかも、貴族との接点を得ることもない出費を。娘が心底惚れた相手だから、と言うにはあまりにも大きい損失だとカディスは思う。その穴埋めをできるのか、彼には自信がない。

 人よりよい教育を受け、知識も十二分に持っている自負はある。

 何より彼女への思いならば、誰にも負ける気はしない。

 しかし商いとなると、問題は変わってくる。いずれ義父の家業を継がねばならないが、ちゃんとできるのだろうかと思うと不安だった。未知の世界は、やはり恐ろしい。

 しかし、目の前の男はくすくすと笑い出す。

「……あぁ、構わないよ。リーヴィリクム程度は、どうでもいい」

 程度、と切り捨てる男に、カディスはさすがに疑問を抱く。

 リーヴィリクムは『程度』で済むような家ではない。王家の次に格式のある四大貴族の一つなのだ。しかもうち一つは王族の分家で、それに次ぐ立場にある。残りの二つは当代の聖女を抱えるフランベル家。そしてフランベルとは長く縁戚関係にあるシルミア家――ミィをそれとなく救ってくれた、サリーシャの実家である。もっとも彼女は、シルミアの分家出身だが。

 ともかく、どの家も過去に何度も王妃や、あるいは王族の花嫁を出してきた名家だ。

 それを『程度』呼ばわりは、一介の商人としては不自然としか思えない。

「あの……それで、俺は、いえ私はこれから何を」

「それなんだけどね。ミィには、この話はまだ内緒にしておいてほしいんだが」

「はい」

 何を言われてもいいよう、覚悟を決める。数年の修行を申し付けられるのか、他にいろいろなにかあるのか。何にせよいかなる課題も受け止め、彼女の夫として立派にならねば。

 だが、相手が告げた言葉は、あまりにも意外な物だった。


「君には僕の代わりに、僕が継ぐはずだった『ネーラ』の名を継いでもらう」


 そういって、目を細めて笑う男――いや、義父。

 その笑みにカディスは、とっさに何もいえなくなった。その立ち姿、雰囲気、声音。数年前に世を去った先王に、彼はあまりにも似ていた。もしかすると現国王よりも、彼はかの王に近しい何かを持っているかもしれない。だが、そうなると彼の素性の可能性が狭まってしまう。

 いや――一つしか、残らないのではないか。

 そう思ったカディスが、最後に気づいたのは『ネーラ』という響き。

 その響きを語尾に持つ家が、確か。

「僕はネーラの名は要らなかった。だって不必要だからね。彼女と生きるには。そう、僕は君と同じだ、カディス。僕もすべてを捨てて、侍女だった妻と添うことにした。それに対して後悔はひとつとしてないよ。あの人も、何もかも知っていてわざわざこんな――記録を掘り返さなければ思い出せないような別邸と財産を、忌み子である僕に贈ってくれたのだから」

 彼の過去に、カディスは言葉を失う。

 最初、カディスは彼は元貴族なのだろうかと思った。何らかの理由でその位を失い、代わりにこうして商いをして生活をしているのだと。しかし……彼は、きっと『元貴族』ではない。

 貴族という程度では、すまないはずだ。

「あなたは、まさか……」

 城にいる限り、一度は必ず耳にする物語がある。

 それはそう古い時代ではなく、せいぜい二十年ほど昔にあった話。


 ――侍女と恋仲になって、遠方に幽閉された王弟。


 幽閉先で死んだとも、今も幽閉されているとも、気が触れたとも囁かれる存在。

 その王弟は、しかるべき身分の令嬢などと結婚して、分家の当主となるはずだった。近代の国王夫妻はどうにも第二王子に恵まれず、久しくその名を持つものがいなかった名家。


 エクリュネーラ。

 それは王家に連なる唯一の家。


 その当主になるはずだった、かつて王弟と呼ばれた男は。

「君は聖都の中枢に立つべき人間だ。ただの商人が使いつぶすには、あまりにももったいないと思うんだよ。だから空座になったままのエクリュネーラの名を携え、舞台に戻りなさい」

 そのために『ネーラ』の名を。

 エクリュネーラ家の当主を、君が継ぎなさい……と言う。

 カディスは息を呑み、返答に困った。彼の言葉が真実ならば、その名を自分如きが継いでいいわけがない。そんなことは許されないはずだ。カディスにとって、それはあまりにも重い。

 リーヴィリクムの名すら、重いと思った。兄が戻ってきた時、心の底から安堵した。そんな自分に王族の一員に加わるなど、無茶が過ぎる。みっともなく手が震えるのを、感じた。

 それに、自分よりもミィが心配だ。

 彼女は貴族ですらない。貴族として生きた時間があるだけカディスはマシな方で、ミィは何も知らないのだ。彼女をそんな場所に、連れて行きたくない。傷つけてしまうだけだ。

 だが彼は名を得て、そして城へ戻れという。

「フランベル家を通じて、兄上にはもう連絡を入れた。城へ行けば、すぐにでも継承の許可が下りるだろう。あの人だって息子を補佐する優秀な人材を、あんなくだらない俗物のために失いたくはないはずさ。だから君は安心して聖都に戻って、元のポジションに戻りたまえ」

「で、ですが」

「家は聖都にある、僕所有の屋敷を使いなさい。……あぁ、それから最後に」

 義父はにっこりと、温和な笑みを浮かべて。

 かつてカディスが騎士として、忠誠を誓った現国王と同じように笑って。

「甥を……セシルのことを、頼んだよ?」

 あれはきっと兄上に似て優秀だけどダメな子だからと、言った。

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