誓いの口づけを
久しぶりに再会した彼女は、とても美しいと思った。
同時に、今にも消えそうだとも思った。
「……お久しぶりです」
どこか恥じらうように視線を床に落とすシエラリーゼは、その年齢に似合う普通の少女のように見えた。初めて、そう思えた。セシルが知る彼女は常に、聖女シエラリーゼだったから。
セシルは彼女がしたことを知っている。
ミィという少女を救い、カディスにもう一度会わせたこと。そしてカディスは彼女の手をとって遠くへ行き、きっとその先で幸せになるのだろう。寂しいが、彼のためなら仕方ない。
だが、カディスは優秀な人材だった。
それを失わせたことを、彼女は気にしているのかもしれない。
「カディスのことは、あれでよかったんだ」
「でも」
「君は彼女を救いたかったのだろう? だったら、それでいい。僕は――そんな君が、とても好ましいと思う。僕には不釣り合いなくらいに、シエラはすごく優しくて、素晴らしい」
あれだけ言えなかった言葉が、今更ぽろぽろと溢れてくる。
次がないかもしれない、と思う恐怖を知ったからか。カディスがいなくなることで、また明日彼に教わればいい、ということができなくなるということで、感じてしまったのだろうか。
時として、人はたやすく声の届く範囲から消えることを。
「君は自分がそれにふさわしくないというかもしれない。だけど僕も同罪だ。今更どうやっても償えないことで、きっと死ぬまで背負っていくことになる『罪』だ。……こんなことを言ったら優しい君はきっと、首を縦に振るのだろう。だけどそれしか言えないから、僕は言う」
――どうか、一緒に茨の冠を背負ってくれないか。
彼を犠牲にした罪を、彼女を犠牲にした罪を、一緒に背負ってくれないか。
いや、違う。
「君が背負うものを、一緒に背負いたい」
きっと、一人で抱えて一人で生きて、そして一人で死ぬつもりなのだろうけれど。そんなことは許さないし許せない。だから同じものを背負いながら、二人で一緒に生きていきたい。
シエラリーゼは唇を噛んだ、泣きそうな顔をして。
だけど、ゆっくりと表情が変わる。
「……羨ましいなんて、思ってはいけないと。だけどわたくし、ミィが、彼女がとても羨ましいと思って。妬ましいとすら、だけどそんな自分が嫌で、彼女の手助けをしようと思って」
「シエラ」
「あの二人が幸せになれたなら、わたくしも幸せになれると、思ったのです」
自分の力が誰かを幸福にできることを、もう一度確かめたくて。
幸せになれない自分の代わりに、二人が笑顔であればよいと願って。
「わたくし、幸せを望んでもよいのでしょうか」
「僕が許すよ、だから一緒にいてほしい」
君の幸せは僕と一緒にいることでしょう、なんて気取ったことを口にする。
シエラリーゼは少し驚き、嬉しそうに微笑んで小さく頷いた。
セシルは腕を伸ばし、何より愛しい人を抱く。たったそれだけのことにずいぶんと無駄に回り道をしたような気がするけれど、最後にこうなったのだからそれもまた経験というものだ。
「で、でもわたくし、もう聖女では」
「そんなのどうでもいいことだ。僕はシエラリーゼ・フランベルだから愛した」
長い髪を結い上げたことで顕になった耳元に、そっと囁く。
――誰よりも綺麗だよ、僕の最愛のお姫様。
真っ赤になった彼女の手を引き、まずは母の元に向かう。散々迷惑をかけ、心配させた彼女から、シエラリーゼのためだけに渡されるものを、受け取るために。
だがその前に、とセシルは再び足を止める。
「セシル様?」
どうかなさったの、と問うシエラリーゼを抱き寄せ、そっと唇を塞ぐ。
今日はできそうにないからね、と言うと、ばか、と小さな声が返る幸せがあった。だが二人はこれに勝るとも劣らないもう一つの『幸せ』があることを、まだ知らない。
■ □ ■
その夜開かれた王子セシル主催の夜会に、国中の貴族が集まった。
彼は『元』聖女との婚約を一旦白紙にしたまま、未来の王妃の座は空白である。ゆえに同年代の令嬢やその両親は、『元』聖女が引きこもっている間に奪い取ろうと画策していた。
同年代の娘がいない家は、時代のめぐり合わせが悪かったと悔しがるのみ。
しかし、その手の貴族の中で無駄に機嫌のいい家があった。
この国に四つある名門貴族のひとつ、リーヴィリクム家である。
次男の失態から得られた財で、彼らはこの夜会のための上等な衣装をしつらえた。王子狙いの貴族と違い、彼らは王子に長男であり後継者となる息子の優秀さを伝える、という目的を持ってここにきている。かつて件の次男が座っていたポジションに、長男を据えたいのだ。
ひときわ華やかな格好をする彼らは、人々の注目を浴びつつ会場に入る。
思ったより静まり返っていたそこには、長い金色の髪を結い上げた少女がいた。
すでにその位を失った元聖女、シエラリーゼ・フランベル。
長らく公の場に姿を見せなかった彼女が、なぜか元婚約者であるはずの王子セシルの傍で微笑んでいた。ましてやその髪を彩っているのは、王子の母が所有する髪飾りだった。代々未来の王の花嫁にだけ渡されるもので、それを身につけるのは彼女が王子の花嫁と決まった証。
おかげで着飾ってきた令嬢の表情は、百年の恋も冷めるほど引きつっている。
まぁ、それはリーヴィリクム家の面々には、まったく関係ないことだ。
彼らの目的は長男に役職を与えることであって、王子の花嫁はどうでもいい。
「殿下、此度は我が息子カディスが、とんだ失態をいたしまして」
下から様子を伺うように、媚びた態度と声で迫る。
失態だ。
あれは紛れもなく失態だった。
確かに最終的に金は手に入ったのだが、予定は大きく狂っている。元は、円満退職させてあいたところに、戻ってきた長男を押し込む予定だったのだ。そうすることでありとあらゆるものを手に入れることができたというのに、このまま引き下がることなどできはしない。
そもそも、王妃が女児を産まなかったことが災いの始まりだ。
彼女がもっと子を産んでいれば、こちらもいろいろ手段が増えていたのだ。
うまくいけば今は絶えている王族の分家の名を、このリーヴィリクム家が復活させられたかもしれない。そうすれば一族の地位は、この上なく高まったに違いなかったのだ。
周囲に責任を押し付けながら、当主は息子を紹介して。
「どうか、これをあの愚か者の補填としてお使いください」
息子を生贄に差し出すようなそぶりを見せつつ、年若い王子に頭を垂れた。
それを見ていた王子セシルは、にこり、とやわらかい笑みを浮かべる。
だが、その口から零れたのは『否』の返答だった。
「残念だが、その地位にはすでに別のものが着いてしまっている」
「な……」
「というよりも、そもそもそこは空座にもなっていない」
笑う彼の、視線が遠くに向いた。当主とその家族が、それ以外のものが、釣られるように広間の出入り口の方を見る。そして――息を呑んだ。そこに立つ二人に、言葉を失った。
小柄な少女の手をとって、入ってきた一人の青年。
少女はこういう場は不慣れなのだろう、どこかおびえたような様子を隠せない。だが青年と視線を合わせると緊張や不安が和らぐのか、思わず見ていた少年らが見惚れるほどやわらかい笑みをこぼした。それを見た青年にちらりと睨まれ、すぐに視線をそらしていたが。
近づく彼らを見て、リーヴィリクム家の当主はわなわなと震えた。
そこにいたのは一族から抹消した、『愚か者』と蔑む息子の一人だったからだ。
「き、貴様がなぜここに!」
「カディスがいるのは当然だ。彼は『エクリュネーラ』なのだからな」
「え、エクリュネーラ……そんな、そんなバカなことが!」
「ちょうどいいから紹介しよう。カディスの妻となった彼女は我が従妹、つまりはかの王弟の一人娘であるミレイア・エクリュネーラ嬢だ。事情があって叔父上は身分を秘したまま庶民に混じって暮らしていらっしゃったが、今回のことで自らが背負うべきものを背負うとお決めになられたという。しかし彼女は娘であるゆえにネーラの名を継げないので、このカディスが婿入りして名を継ぐこととなった。今宵、長く不在だったかの一族は、再び表舞台に上がる」
淡々と当然のことのように連なる言葉に、リーヴィリクム家の一員は無言だった。
寝耳に水、というどころではない。まさか息子が見初めた相手が王族だったなどと、誰が想像できただろう。それを息子ごと手の内からたたき出すという方法で手放し、そのくせ目論見はほとんど達成できていない。金も、これまでのことを思えばすぐに消えて無くなるだろう。
思い出したのは、あの夜の――その正体が王弟だった男の態度だ。
完全にこちらを見下した様子。
当然だ。相手は王族だ。いくら表舞台から姿を消し、気が触れたとも囁かれるとはいえ、彼はれっきとした王族の一人であり、もし彼に息子がいたならば、その子は王になれる立場だ。
そんな相手からすれば、たかが貴族の一つなど……。
「ミレイア――いや、ミィ、かな。君にはシエラリーゼの話し相手になってほしい。これから私はいろいろと忙しくなるから、一人にすることが増えてしまうだろう。マナーや作法は彼女から教わるといい。いや、彼女も十年近く離れていたし一緒に教わるというのが正しいかな」
「は、はいっ。がんばります!」
よろしくお願いします、とぺこりと頭を下げる少女。
先日、自分の父が王族であることを知らされたばかりの彼女は、まだまだ現状を飲み込みきれていないというか、カディスを通じてしがみつくので精一杯といった様子だ。
だがその目には、確かな強さが見て取れる。
早速あっちでお話をしましょうね、とシエラリーゼは少女の手をとり、すたすたと奥へと引っ込んでいった。二人を出迎えるのは、華やかな場に似合う衣服を着込んだ黒髪の少年少女。
顔のよく似た二人に、ミィはもみくちゃにされながらさらに引っ張られていってしまう。
それを見送ったセシルは、少し不安そうにしていたカディスを見て。
「さて、カディスには明日から馬車馬のように働いてもらおう」
「……休暇が欲しいんだが」
「却下だ。そもそも充分休んでいただろう。黙って働け」
そんな会話を合図にしたように、周囲は再びにぎやかさを増していく。
突然の王族分家の復活など、無かったかのように。
そそくさとその場から逃げるように、人知れず消えたリーヴィリクム家であるが、長男が家を継ぐ頃から徐々に財政的に陰りが見え始め、彼が家を継いで十数年もするころには屋敷を含む土地などは人手に渡り、いつしか名門貴族という語りからその名が消えていたという。
代わりにその座に収まったのは、セシル・イオ・エクリュネイルの息子ルシアンが名乗ることになった、彼の妻の姓を冠する新たな貴族――シルヴェリード家であった。




