嘘と本心
聖女が去って数刻。
再び部屋が騒がしくなったのは、夕方に入ったころだった。
誰かと会っていたのだろう、立派な身なりをした王子セシルが、わたしには向けられていないけれど怒りを目に宿し、部屋の中に入ってきた。サリーシャではない女官が、慌てたようにお茶の準備に取り掛かっている。年齢もわたしより少し上ぐらいで、働き始めてからまだそう経っていないのだろう。突然現れた、しかも怒気を放つ王子に哀れなほど動揺している。
彼女は結局、お茶を淹れ終わると同時に逃げるように部屋を出た。
王子が出て行くよう命ずるような手振りをみせたからだ。
「シエラが来たらしいな」
お茶を少し飲みながら、彼が話しかけてくる。
声も、どこか苛立ったような響きがあった。付き合いが長いとはいいがたいわたしでもわかるぐらいなのだから、よほどのことがあったのか、あるいはそれを隠し切れないのか。
両方のような気がしつつ、わたしもお茶を少し飲み。
「来ましたが、それが何か」
「……余計なことを、言ったらしいと聞いた。すまない、シエラはまだ子供だからな」
「いえ、別に……気にしていませんし」
気にするほどでもない、だろう。
確かに腹が立ったのは事実だけれど、先に手を出したのはこっちだ。わたし自身は特に気にしていないし、処罰なども求めない。向こうがどう思うかは知らないけれど、同じだろう。
もっとも、王子は違うらしい。
「君に危害を加えるなんて……シエラは何を考えているんだ」
ぶつぶつと、聖女を罵って表情をゆがめる。
このことでわたしが、彼を嫌うという心配があるのだろうか。
……好かれている、とでも思っているとすれば、それは思い上がりだといいたい。今はまだ嫌いまではいっていないが、別に隙というわけでもない。無関心で、彼などどうでもいい。
でも、それも今日までだろう。
明日になれば、明日すべてが終われば。
わたしは彼を――憎む。
「後悔、させてあげます」
「……ラキ?」
「あの聖女様を『捨てて』、わたしを無理やり浚ったこと。暴食王を殺した誉れすら叩き潰すほどの汚点を、あなたの名前に刻んで差し上げます。死に際に、絶対に後悔させる」
「ラキ、君は」
「貴族や王族の、特権階級の傲慢さには反吐がでます。好きといえば、一目ぼれといえばなんでも許されると思っているなら、もう一度死んで生まれなおした方がいい」
「何を言って……」
「神に殉ずる聖女と、純愛に生きた王子。えぇえぇ、実に結構なお話ですね。それに無関係なわたしを巻き込まなければ。お二人のどうでもいい見栄のため、地位や名誉のため、わたしは生贄になるわけですね。仕方がありませんよね、わたしは腐るほどいる下々の民ですからね」
「だから、そうやって自分を卑下するのは」
「何を言っているんですか? 卑下させているのはあなたですよ」
そうさせる世界にわたしを引きずり込んだのは、ほかならぬあなたですよ。
いくら純愛を歌ったところで、養子縁組したところで、わたしの生まれは変わらない。
実の両親は平民で、この身体に流れる血も平民のもので。
わたしは平民には愛される存在になるかもしれないけれど、彼ら以上に接することになる上流社会からはずっと蔑まれたりあることないこと言われる生活を送ることになるのだ。
そんなものは目に見えている。
これまで城で働いてきて、身にしみてわかっている。
わたしは自分を卑下する趣味はない、だって回りは同じだからだ。平民は財力の差こそあれどみな同じで、わざわざ卑下するような材料なんてそうめったに見つからない。
だけどここではそこかしこにある。
すべてにおいて、わたしは卑下する材料しか見つけられない。
「わたしは、暴食王を愛しています」
王子が、息を呑む。
「だからわたしは、あなたを憎む。きっと憎む。愛されるなんて思い上がりは捨てた方がいいですよ。あなただって、わたしがあなたの友人や家族を殺した上で同じことを言えば、わたしと同じことを思うでしょう。それとも、それでも愛し愛されるとでもいうのですか?」
「……だが、不毛だ」
「不毛で結構。そうさせたのはあなたです。あなたのせいで、わたしは彼だけを思い、ひっそりと生きる道を奪われた。ならわたしと同じように、不毛な一生を送ってもらいましょうか」
聖女もそうだし、王子もそうだ。
自分達がしていることが、善行だと信じて疑わない姿は嫌悪すら抱かせる。
彼のために死ぬ運命を受け入れた少女。死ぬどころか、彼の願いを叶えた少女。彼女の運命なんて知りもしないで、彼女が叶えてくれた願いを抱えてほくほく顔だっただろう王子。
実にお似合い。実に相性のいい二人だ。
後始末とか周囲への影響とか、何も考えていないバカばっかりだ。
「……最初から聖女と、おとなしく結婚すればよかったんですよ」
たとえ彼女がもうじき死ぬとしても、わたしの知らない世界の話だ。そこで勝手に死んで勝手に葬式を上げて、勝手に悲しんでいればいい。わたしを巻き込まないでほしい。
少しぬるくなったお茶を飲み干して、かちゃん、と乱暴に戻す。
流れる沈黙。
ふとわたしが前を見ると、王子はうつむいていた。表情は前髪に隠れて見えず、硬く結ばれた口元がかすかに震えているようにも見える。今までと違う様子に、違和感を覚えた。
「あの、セシル殿下……」
「誰からも言われたさ、みなに言われたさ。どうしてシエラリーゼではなく、君を選ぶのかということを。身分以前に『かわいそう』ともな。君は王妃になるための教育も受けていないのだから不幸になるのは目に見えているし、今までがんばってきたシエラにも失礼だと」
だが、と彼は続けて。
「教育を受けてきたから、がんばってきたから。だからシエラリーゼを王妃にする。それは何か違うと思わないか? 彼女は王妃になりたいなんて、一言も口にしない。僕のことだって殿下やお兄様としか呼ばない。……そうさ、彼女は僕じゃなくても問題はないんだ。僕を望んでいるわけじゃない。聖女として未来の王と結ばれることはいいことだとか、変な相手に嫁ぐくらいなら知っている相手がいいとか、そういう妥協をしているんだ。それこそ幸せじゃない」
彼の言葉に、わたしはさらに違和感を抱く。
さっきのシエラリーゼの姿からは、そんな妥協のようなものは見えなかった。むしろ、彼のことを一番に考えた結果、彼の願いを叶えることにしたという感じだった。
少なくとも、彼女は王子のことを『妥協して選んだ相手』のようには見ていない。
わたしにはそう思える。
むしろ――。
「聖女としての使命を終えれば、彼女は普通の令嬢に戻れる。そうなれば、彼女は自由になれる。好きなところにいけるし、好きな相手と結婚だって……それが、一番だろう」
静かにそういいきって、数秒。
半分ほどお茶を残したまま、王子はよろりと立ち上がる。
「明日は早い。今日は早めに休むように」
最後にこちらを見ないままそういい残し、彼は部屋を出て行った。入れ替わるように入ってきた女官はさっきとは別の人で、てきぱきと茶器を片付けると、わたしに入浴するよう言う。
入る気はあまりしなかったけれど、抗う気もなかった。
一人がいい、とだけ告げて、そのまま浴室へ入っていく。
女官の一人に手伝ってもらいながらドレスを脱いで、たくさんの花が浮いた絵本みたいな湯船に身を浸し手足を伸ばした。はぁ、と漏れたため息が、浴室の中にこだましながら響く。
やっぱり駄目だ、改めて思う。
わたしにはシエラリーゼの代わりなんてできない。なれるわけがない。わたしがあの人を諦めきれず忘れられないように、彼もまた彼女を忘れる日など永遠にこないのだ。
死した聖女は、ずっと彼の中に眠る。彼女の話が本当なら、彼女は自由になることもなくそのまま死んでいくのだから。それは事情を知らない彼の目にも明らかで、きっと気にするに違いない。ずっと気にしたまま生きて、処刑させたからかと後悔して、生きて死んでいく。
死した彼もまた、わたしの中にずっと残り続ける。
あぁ……これじゃ駄目だ。
これじゃ、誰も幸せになれない。




