手をとって、口付けて
手伝ってもらっておいて、何もしないまま返すのも心苦しい。
わたしはとりあえず、お茶の準備をした。お菓子は全部上にあるので、お茶しか出すものがないけれど。もっぱら全員がリビングにいるせいで、必要なものはみんなそっちだ。
今から上にとりに行く、ということはできない。
嘘がつけないわたしには、どうしてわざわざ一人で食べるのかという理由を、適当にでっち上げるようなことはできなかった。やればやるほど、墓穴を掘るのが目に見えている。
「どうぞ」
「ありがとう……いい香りだ。味もちょうどいいよ」
香りを吸い込み、一口。イオ様は、お世辞なのだろうけれど褒めてくれた。たったそれだけのことなのに、わたしは思わず頬が緩んでしまう。やはり、こういうのは嬉しく思う。
そもそも、わたしのような下っ端は、自分達のためにお茶を淹れるぐらいしかしない。お客様などに淹れるのは上の人。有象無象に存在する下っ端は下っ端らしく、他の人の邪魔にならないように雑用をするのがお仕事だ。失礼のない程度の礼儀作法は学んだけど、お茶の淹れ方なんてものは基本的に見よう見まねか、家でやっていた通りにちゃっちゃと片付ける。
ミィなんかは、お母さんが教えてくれたとかで、侍女長も驚く上手さだった。
おかげでわたしやラヴィーナも、それなりにはお茶を淹れられる、と思いたい。
「ここの生活は、大変?」
「いえ……みんな、優しいですから」
「……暴食王も?」
「はい」
そう、王さまは優しい。優しい人だと、思う。嫌いじゃない。いい人だ。どうして彼が暴食王なんだろうと、衝動のことを抜きにしても思うくらい。もっと威圧的というか、悪そうな人だったら気持ちも楽だった。あんなことも、いい逃げするようなことも、なかったと思う。
本当に、そうだったらよかったのに。
それなら適度な距離を保ちつつ、何事も無く時間が過ぎて。
そしてすべてが、滞りなく終わったのに。
どうしてそうならなかったのか。
どこで、何をまちがえてしまったのだろう。
「……」
自覚しつつも、ついため息がこぼれる。
ため息は不幸を呼ぶとも言われ、吐き出すほどに幸せが逃げていくらしい。でも人間はふとした瞬間にため息をこぼしてしまう生き物で、だからわたし達はずっと幸せではいられない。
そんな話を昔聞いたときは、どうして幸せになれないのか不思議だった。
ただの御伽噺のようなものに、真剣に悩んでいた。
今はわかる。
――あまりに過ぎた幸せは、結局は滅びをもたらすからだ。
人間は『幸せ』が大好きな生き物で、手に入れるためにいろんなことをする。それは時にたくさんの笑顔を生み、時にたくさんの悲しみを生んだ。悲しいことは不幸せだけど、それによって得たものも少なからずある。そうやって人間は、前に進んできたわけだ。
だからわたし達は、幸せを失ってしまう『ため息』を与えられた。
幸せを永遠にしてしまったら、何も要らなくなるから。
前方へ、幸せを失うかもしれない未来に、わざわざ進む必要も無いから。それは平穏と呼べるものかもしれないけれど、同時にある種の滅びでもあり。神様はそれを嫌がったのだ。
まぁ、そんな話はともかく。
人前でため息というのは、あまり褒められた行為じゃない。つかれた瞬間に激怒するようなことはなくとも、わたしも含めて少なくとも好む人はいないと思う。
イオ様はあまり気にしなさそうだけど、謝罪はしておくべきだ。
「あ、その……すみません、ちょっといろいろあって」
「いや、僕は気にしないよ」
「ありがとうございます……」
その気遣いが嬉しい。
そして、同時に自分への嫌悪が浮かぶ。吐き出しかけた息を飲み込みながら、そういうことをしなきゃいけない自分が心底嫌になってきた。侍女たるもの、それが主でなかろうとも目上の仕えるべき方々に、自身について気遣われることなどあってはならないというのに。
むしろ、気遣いつつ無言で対処するのが、わたし達の役目なのに。
情けない、本当に情けない。
どうせ、といいながら抱えていた思い。拒絶されても覚悟の上だ。そのはずだった。実際は覚悟も何もあったもんじゃない。聞いてもいない答えを勝手に妄想しては、息を吐く日々。
だったら、さっさと訊きに行けばいいじゃない。
そんな声が内側から聞こえる。
わたしの中の、大多数の『わたし』がその声を支持するけど、わたしは今だに声に是の返答を送れないでいる。だから身体も動かないし、だけど日々ダメージが蓄積していくのだ。
「……何か、悩みがあるんだね」
言葉と同時に、頭に感触が振った。
最初、何をされているのかわからずに固まってしまう。でも、だんだんと自分が何をしてもらっているのかを、じわりじわりと何かが染み込んでいくように理解できた。
頭を、撫でられている。
あやすように、なだめるように、慰めるように。
「君の目の先に誰がいるのかは知らない。でも」
イオ様はわたしの右手を、そっと自分の手のひらに乗せた。
ゆっくりとした動作なのに、わたしはそれを阻止することもできない。
「諦めはしない。相手が誰であっても、僕は君だけを愛している」
そして、指の甲に、唇が触れた。
何かを誓うような仕草、しっとりと感じるぬくもり。そんなところに、何かをされるなんてことは考えもしていなかったわたしは、今度こそ完全に意識が停止して凍りつく。
どんな反応をすればいいのか、わたしにはわからない。
ただ、頬になぜか熱が集まっていった。
恥ずかしいのか嬉しいのか、戸惑っているのか。
「何度でも、僕はこの思いを口にする。僕は、君を愛しているんだから」
祈りのような言葉だった。それでいて命令のようでもあった。
まるで、その響きに縋りつくような。
だけどきっと、命じられているのも縋りたいのも『わたし』だ。自分で始めた物語から逃げ出したくて、放棄したくてたまらないわたしが見てしまった、浅ましく愚かな逃げ道。
以前のわたしなら、そう言えた。
言って、自分を嘲笑しながら拒否の意思を伝えられた。
だけど今は――今は。




