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3/3

3.真っ赤なキス

*****


 それから十年が経ち、そのあいだにおばちゃんはおっちゃんとおなじく癌で亡くなり、すっかり有名になった我がラーメン屋は、ぼくとソフィアで切り盛りしている。ソフィアはすっかり名物女将だ。美しい彼女を目当てに訪れるお客さんもいる。そんなふうに環境が移ろいでも、ぼくに対するソフィアの俺様主義は変わらない。「ジョン、遅いわよ!」とか、「お客さんを待たせるなんてサイテーよ!」などと言ってくる。ぼくはそれが嬉しいなぁと感じていた。二人の関係が板についてきたことも喜ばしかった。


 ソフィアは近所の高級ホテルを寝床にしている。離脱したと言っても、王室からすればなにかあっては困るということなのだろう。となると、ソフィアはこの先もずっと監視下に置かれるということなのだろうか。安全ではあるものの、それはそれで、窮屈なことではないだろうか。


 ――ぼくはその日も、店舗の二階で粗末なベッドに入り、寝つこうとしていた。そんな折のことだった。引き戸がノックされたのだ。あれ? 店も裏手の勝手口の鍵も全部閉めたのにと思う。店の予備の鍵を所持しているニンゲンはいる。だったら、まさか……? 「ねぇ、ねぇ、ジョン、いる……?」というか細い声。まさにお伺いを立てるような声。


 ぼくは起き上がって、短い距離を歩き、引き戸を開けた。ソフィアだとはわかっていたのだけれど、まさかパジャマ姿だとは思わなかった。大きな白い枕を抱えている。


「ソフィア、どうしたの?」

「ここに来たかったの。SPのヒトたちには無理を言ったわ。入ってもいい?」

「もちろん、いいよ。拒む理由なんてない」

「なんだか、ジョンのセリフって、いちいち事務的なのよね」

「そうかな?」

「そうよ。でも、あなたらしいからゆるしてあげる」


 ソフィアにベッドを貸してあげて、ぼくは地べたに布団を敷いてそのうえに寝転がった。ソフィアはなにも言わない。そのうち寝息でも聞こえてきたらかわいらしく思ってしまうだろう。


 「なにかあるなら、言いなさいよ」


 つんけんした声。


「だったら、一つだけ」

「なあに?」

「どこでぼくのことを知ったの? ぼくが"伝説の勇者"だって、最初から知っていたよね?」

「なーんだ。そんなこと」

「少なくとも、ぼくからすれば、初対面だ」


 失礼な話ね。そう言って、ソフィアは静かに笑った。


 「おとうさまがあなたに勲章を授けるとき、私はその場にいたのよ。それはもう、きれいな純白のドレスを着て」


 ぼくは記憶をたどる。だけど、どうしたって、ソフィアがいたことは思いだせなかった。勲章を授与されるから緊張し、周りのことなど目に入らなかったということだろうか――違うだろう。ぼくは図太い。緊張なんてしない。緊張したことなんて一度もない。


「どうする? 明日は休む?」

「どうしてそんな話になるのよ」

「ホテルに戻って着替えて出勤。面倒かなって」

「それくらいなんでもないわよ。でも――」

「でも?」

「明日は休業日にしちゃ、ダメ? それはできない?」

「そんなことはないよ。急に赤唐辛子を買いつけに行くとなったとでも言えばいい。実際、おいしい時期だしね」

「だったら決めた。あなたが言うとおり、赤唐辛子の畑に行くわよ」

「そうなの?」

「ええ。そうよ」

「行って帰ってくるだけで、一日かかるよ?」

「だいじょうぶよ。早起きするから」

「畑って、赤いだけだよ? ほんとうに赤いだけなんだよ?」

「赤色。とっても魅力的じゃない」


 ソフィアはふんと鼻で笑った。


「さあ、寝なさい、ジョン。寝坊したらゆるさないんだからねっ」


 だいぶん黄ばみが目立ってきた白い天井を見上げてから、ぼくは目を閉じた。そろそろ壁紙を張り替えてもらいたいなあと思いつつ、深い眠りにつけそうな気がしたのと同時にソフィアがここにいるのは、申し訳ない気がした。



*****


 途中で界隈を行き来している公共の馬車――交通手段を待っていたところに、藁をを引いてのんびり進むおんぼろな馬車と出くわした。ぼくは「悪いから」と言うのに、ポニーテールに髪を結っているソフィアは積極的に「いいじゃない。乗せてもらいましょう。なにせタダなんだし」と言うのだ。結果、お世話になることになり、ぼくたちは馬車が引く荷台の藁のうえにお邪魔した。ソフィアは文句を言うこともなく――いまさら文句を言われても困るのだけれど、藁のうえに仰向けに寝転がった。「藁って柔らかいのね」と微笑む。気に入ったらしい。元王女なのに、豪放なことだ。


「ねぇ、ジョン、あなたは誤解しているかもしれないけれど、私は自己責任であなたとラーメン屋をしているのよ?」

「誤解なんかしていないよ。ただ、申し訳ないとは思ってる」

「私が元王女だから?」

「うん、そりゃあね。そんな気持ちは、きっと消えることがないんだ」

「だったらね、ジョン、私はこんな粗末な馬車に乗って、藁のうえで空を見上げたりはしていなかったと思うのよ」

「そうだね。それはそうなのかもしれないね」

「私はね? ほんとうに好きで、いまの立場にいるの。絶対に文句なんて言わないの。それでも、おとうさまとおかあさまはうるさくて」

「もしきみが王族に戻ったなら、ぼくは商売なんてできないんだろうね」


 本気でそう思っている?

 そんなふうにだけ述べた、ソフィア。


「ぼくはいまのラーメン屋を続けることができれば、それだけでいいんだ。ほかになにも望まない。おっちゃんはいいヒトだったんだ、もちろんおばちゃんも。ああ、どうしてだろう。ぼくは"伝説の勇者"と呼ばれていたときよりも、いまの時間を刻むほうが、ずっと気分がいいんだ。いまより幸せなことはないよ」


 ソフィアは藁のうえに寝転がったまま、「そうなんでしょうね」と言った。「あなたにとってはそうなんでしょうね」と続けた。


「王族に戻りなよ」

「嫌」

「戻って」

「嫌」

「ぼくと一緒にいたって、格好がいい未来なんか見えないよ」

「あーら、私には見えるわよ? あなたはこの先、どれだけ年をとっても、とある激辛ラーメン屋の主人なの。どれだけ年を重ねても、どれだけ年をとっても、あなたはラーメン屋なの。もう一度、言ってあげる。そんな人生って、ちっとも悪くないじゃない」

「"伝説の勇者"から、言うよ?」

「あーら、なにかしら」

「"伝説の勇者"として、生きていく(すべ)はあったんじゃないかなって思うんだ。なのに放り出してしまった。ぼくは負け組なのかもしれない。ときどき、そんなふうに考えるんだ」

「それはラーメン屋をやっているヒトすべてを侮辱する言葉よ」

「だからってソフィア、ぼくは――」

「いいからついてきなさい。まずは赤唐辛子の畑に立ちたいの。赤唐辛子がなければ、私たちは、きっとこんなふうに、出会うことだってなかったんだから」

「ほんとうは、ほかのヒトを雇ってもいいんだ」

「それって本音?」

「ソフィア、きみは――」


 かっぽかっぽと進んでいた馬車は、ゆっくりと止まったのだった。



*****


 ぼくは「ひゃぁぁっ」と驚きの声を上げた。主人が案内してくれた先の畑がとても見事だったからだ。少し進めば、足元が赤に染まる。とにかく、赤、赤、赤。見るのは初めてではないのだけれど、見るたび圧倒される。きれいな赤というより、派手な赤という言葉のほうがきれいに役立つ。ほんとうに赤いのだ。この畑は途方もなく、まるで血のように赤い。


 「うわぁっ。大したものねぇ」


 ソフィアが声を上げた。彼女は大きな麦わら帽子をかぶっている。ワンピースから覗く首回りは相変わらず真っ白だ。初夏の日差しは強い。心配だ。


「ソフィア、日陰に入ろう。きみが真っ赤に茹で上がっちゃうところは、見たくないよ」

「そういうところが嫌なのよ。あなたが私を対等に見てくれてないっていう証拠じゃない」

「ぼくはきみのことを思って――」

「余計なことは言わないで」


 ソフィアは畑の主人と談笑し始めた。「今年のは特別、いいんだ」と主人が誇らしげに言う。「そんなふうに見えるわ」と、ソフィアが笑う。「ウチの激辛ラーメンもいっそうおいしくなるわ」と、にこにこ笑んでみせる。


 ソフィアがぱたぱた駆けてきた。


「すごくよくできてる。素人でも見ただけでわかるわ。この赤唐辛子さえあれば、絶対に絶対に、ウチのラーメンもすごくおいしくなる。先々の見通しは明るいわね。やったーって感じ」

「ビジネスだよ」

「ビジネス?」

「そうだよ。作るほうもそうだし、買うぼうがいる。だよね?」


 ソフィアにぱしんと左の頬を、右手で張られた。軽くである。


 「そんなこと思ってないのに、どうしてそんなことを言うの? 誰も得をしないじゃない」


 そのへんの理由が、ぼくにはわかった。ぼくが"伝説の勇者"だったということはどうだっていいのだ。ソフィアはぼくにまえを向けと言っている。ラーメン屋としてがんばれと言っている。それを手伝ってやるぞと言ってくれている。


 ぼくはソフィアに苦笑を見せ、それから「ついてきて」と伝えた。なにも言わずにあとを追ってくる、ソフィア。ぼくはソフィアに対して、元王女に対して、「ぼくなんかに付き合わせて、悪いなぁ」と、そして「ソフィアはもっと幸せになれるはずなのに」と、言ってみれば弱音を吐いた。


 「幸せよ? 私は幸せよ?」


 真っ赤に染まった唐辛子の畑に足元を染められたまま、ソフィアは笑った。


「よくないと思うんだけどなぁ」

「それでも好き。私はあなたが好きなのよ、ジョン」


 ぼくはニ歩三歩と進んで、広がる真っ赤な絨毯の上で、ソフィアのことを抱き締めた。


「ごめんね、ソフィア。ぼくだってきみのことが、とっても好きらしいんだ」


 ソフィアが抱き返してきた。


 「あなたは"伝説の勇者"だった。若いんだから、"伝説"っていう評価はどうかと思うのだけれど。でも、あなたには"勇者"として戦うこともできた。それでもあなたは裏路地のラーメン屋の主人になることを選んだ。そうあったって、それでいいじゃない。私はそんなあなたのことを、愛しているんですからね」


 涙を流したくないから、空を仰いだ。

 真っ青。

 雲一つない。


「お願い、ソフィア。ぼくと、ずっとずっと、一緒にいてほしい」

「私もそれを望んでる。心配しないで。不安にならないで」

「尊いよね。ぼくたちの関係って」

「だから、私を大切にして」

「わかっているよ」


 真っ赤な唐辛子たちに囲まれて、ぼくたちは深いキスをした。


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[一言] ああ、本当に……尊い( ´∀` ) 2人のこれからに、幸多からんことを( ´∀` )
[良い点] 面白かったです。 ソフィアちゃん、肝っ玉女将さんになりそうな予感がします。激辛ラーメンが食べたくなりました!
[良い点] 第四王女、強烈なアプローチ! 王籍離脱に、庶民の中で働く姿が、言動とは裏腹に健気ですね。 かわいい。 ( *´艸`)
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