03.生名の日ということは
この世界でやり直していくことにしてから一週間。
この一週間、熱にうなされていたとはいえ、自分の思考回路が、少し思い出すだけでも穴に埋まりたいほどに恥ずかしい。まだ黒歴史は続いているのか!
療養と言う名で与えられた期間が、やることが無さすぎて、自分の思考を見直させてきて、もうそろそろ地獄だった。
布団に潜りこんでいた自分を、オネットがたしなめる。
「お嬢様、今日は、前々から言っていた大切な日ですわ。眠くても我慢なさってくださいね」
中身は全部会わせて30代を軽く越えているのに、甘い声でたしなめられるというのは、精神的にかなりのダメージがくる。泣きたい。
仕方なく、そろそろと布団から出ていく。大切な日とはなんだろうか。
リュシーか誰かの誕生日なら、今の自分の年齢が分かる。今がいつ頃なのか、知ることができるチャンスだ。
この一週間、起きればひたすら羞恥に悶え、たまにオネットと会話し、それ以外は寝ているというなかなかに人間として終わった感じに生きてきた。まあ四歳なら許される生き方だ。そう納得しよう。
「……今日は、リュシーお嬢様の生名の日ですもの 」
ヴィネサンジュールキター! ぴったり四歳の誕生日か!! あ、だめだ頭痛い。
生名の日とは、四歳になった貴族の子息子女に、もう一つの名前が名付けられる日だ。その名前が、結婚するまでの名前となる。
真名は若い命を奪う。この国ではそう言い伝えられていたために、できた伝統行事だ。何故、真名が若い命を奪うのか、また、若い命と言うならば、何故生まれてすぐにつけられないのか、多く諸説があれど、真相は解っていない。
ちなみに、結婚するまで、というのは、この国では結婚するまでは半人前と考えられているためだと思われる。これもまた多くの諸説がある。
ただ、ヴィネサンジュールは伝統行事と言えど、かなり廃れてしまった。今では、そんな行事が存在するという事を知らない国民のほうが多い。
だが、ライアス家は古くから伝わる、いわゆる血統書付きの貴族で、古い故、伝統を重んじる。廃れてしまったとはいえ、ヴィネサンジュールも当然ながら、無視することができない。
簡単に言うと、ヴィネサンジュールというイベントによって、偽名が決められるというだけのことなのだが……
たった四歳の記憶。でもそのおぼろげな、かすかな記憶から考えても、リュシーの人生にとって、大きな転機になった日であるという事は、間違いない。
「……お似合いですわ」
暗い表情でオネットが用意してくれた服を着た。いや、自分の手前、オネットの表情は平静を保っているが、声や行動にいつものしゃきんとした感じがなくなっている。
昔の自分には解らなかったであろうわずかな変化。
仕立ての良い、高級品であると一目でわかる、祝いの衣装。
それが男児用であることに、二回目の自分は疑問を持たない。
「……リュシーお嬢様。良くお聞き下さい。今日から、お嬢様は、女の子ではなく、男の子と同じように、生きなければなりません」
四歳の自分にも解るよう、区切りをつけながらオネットは優しい声で話してくれる。
「急にこのような事になってしまいましたから、きっと戸惑いになると思います。旦那様の急な決定ですから」
言葉を区切るごとに、オネットが唇を噛んでいるのが解る。
今なら解るのだ。裏切ったと考えていた、彼女の愛情が。きっとオネットは、何度も、何度も主である父に考え直すように言ってくれたのだろう。
「お嬢様のお兄様が、身体も丈夫ではないから、と。だから、リュシーお嬢様は、家の長とならなければならぬと、旦那様が今朝、お決めになられました」
お兄様。そう言われて思い出すのは、体の弱い少年。兄と呼べるほど、親しくも、あまり会った事も無かった。正直、顔も思い出せない。
「これから、辛い事が増えるでしょう。ままならないことも、増えるでしょう。大人の勝手な都合のせいで、とお思いになる事でしょう」
オネットは、小さい自分に目線を合わせて話してくれる。眼が揺れている。
「その思いはきっと、お嬢様のこれから先の将来もずっと、それこそ、オネットが居なくなってからも、その気持ちはなくならないでしょう」
確かに、前の人生で、ずっと自分は、勝手な父を呪い、周りの勝手な大人たちを憎んでいた。そこに、オネットも含まれていた。
「そんな、憎まれても仕方の無い事を、」
四歳の自分に、真摯に向き合ってくれるオネット。リュシーの記憶に、こんな思い出は無かった。
言葉が途切れた。俯いた彼女から、水が落ちている。以外と、彼女は不器用だ。謝ることも、許しを請うこともしない。
「オネット」
静かに彼女の名前を呼ぶだけで、彼女はさらに深く俯いた。子どもの足で、二歩、三歩と歩くだけで、彼女の膝に届く。
身長を合わせてくれていたオネットの膝に座って、短い手をいっぱい伸ばして、彼女に抱きつく。見た目で言うなら、しがみつく、と言ったほうが近い。
彼女に愛されていた事が、今なら深く解る。一回目の人生で、誰よりも愛情を注いでくれた。
そんな彼女に、愛なんて返した事がない。愛情を注いでくれていた事を、心の奥底では誰より、知っていたのに。
酷い言葉しか、返せた事がない。彼女を振り回した事しかない。
それが、どれだけ彼女に辛いことだったのか、今なら解る。乳母として仕えてくれただけでなく、愛情を持って母のように接してくれた、オネット。
懺悔ではない。
リュシーの時には伝えられなかった言葉を。
「たくさん、あいしてくれて、ありがとう」
自分が取りこぼしていた愛情が、どれだけ多かったのか。
オネットに抱きついた上から落ちてきた水を、自分は今度こそ拾う事ができただろうか。
まあこうして黒歴史を増やしていくんですよね!
後悔はしていないけれど羞恥は増える。なんで自分はこんなにもロマンチストなのだろうか。胸が痛い!
というか、今だからこそ思うけど、お父上急すぎるよね。ヴィネサンジュールがいい区切りだから?
それにしても急すぎる。もしかすると、何かしら理由があるのかもしれない。
前は気がつかなかった何かが。
まあ、ここで父の性急な「男児になれ」話についての考察をしているのは、ただの現実逃避だ。
こんな多い人の前に立つのは、高校の卒業式以来だな。
そう考えながら立っているのは、階段の上の父の横。
階段下には、リュシーのヴィネサンジュールに集まってくれた、古い家柄の貴族たち。
男児用の服を着たリュシーを見て、驚いている。
男児のように育てられるといっても、もう既にリュシーが女の子というのは知られているため、このヴィネサンジュールの意味は、ライアス家の後継者の発表か。
歴史的にも、神が男の装いで家を継ぐというのもあったし、別に何も問題はないらしい。
男尊女否の風潮も、昔ほど露骨ではないが残っている。それに、ライアス家は旧家だ。そのため、歴史に則り、みせかけ男児として育てるようだ。
父が口止めをしたために、これからリュシーが女だと知る人は、どんどん限られていくのだが。
取り合えず、この世界に来て、父を久しぶりに見た。当たり前だが。
初めての言葉は「お前は今日、何も話さなくて良い」でした。リュシーもそりゃあグレるわ!!
誕生日のはずなんだけどな、リュシー。隣で偉そうに話す父を横目に、ため息が出そうになる。
きっとこういうやつが、将来「お父さんの服と一緒に洗濯しないで!!」とか言われるんだろうな……
よし、その内、「お父さんなんて大っ嫌い!」という伝家の宝刀を抜いてみよう。眉一つ動かなさそうだけど。
多くの人に見守られながら、そんな決心をした。