第6話 約束の場所で
私は、厳格な両親に育てられた。
彼はそんな私に、全てを解放して過ごす、怠惰なひと時を教えてくれた。
私にとって、それは麻薬のようだった。
それは、何事にも代えがたい至福のひと時だった。
私と会う前の彼は、研究に没頭していた。
しかし、私と同棲する様になってから、彼も変わった。
彼もまた、この至福のひと時に、浸る様になっていった。
・・・・・・
彼から話しがあると言われた。
「そろそろ私も、きちんと就職を考えようと思う」
「……どうしたの?」
「まぁ、いつまでも裕子に、養ってもらう訳にはいかないから」
「……」
彼は大学院の博士課程に進んだが、博士論文の審査に通らず、助手として、その研究を続ける考えを話していた。
しかし、どうもその研究、興味深い結果が得られそうにない。
そこで、更にその研究を続けるか、それとも研究テーマを変えるか。
また、研究テーマを変えるのであれば、企業の研究所に移る考えを話してくれた。
彼が自分の将来を自分で決める。
それについて、私は口を挿む事ではない。
ただ『いつまでも私に養われている訳にはいかない』との理由で、今まで取り組んできた研究を捨ててしまうのは……。
そこにはアカデミック世界での、経済的に苦しい現実があった。
・・・・・・
その年の年度末、彼は大学から離れ、一般企業の研究所へ就職した。
それによって、彼も相応の収入を得られる様になった。
しかし、会社から与えられたテーマは、今までの研究と異なり、勉強をし直しているとの事。
最初の三年間で、それなりの成果が出せなければ、研究職から外される様だ。
新しいテーマでの研究。
本来ならば、寝食を忘れて取り組まなければならない。
以前の彼は、収入は少ないが、生き生きしていた。
しかし、今の彼は変わってしまった。
現実から逃げるかの様に、毎晩遅くまで飲んで来る。
そして、この部屋に帰ってくる事が、苦痛の様に感じられた。
私は、どうしたら良いのか。
・・・・・・
それから何日かして、彼は私に言った。
「来期から、事業部への異動を考えている」
「……異動?」
「私にとって、研究職だけが仕事じゃないと思う」
……なんだろう。
彼は、三年間で結果が出せなければ、研究職から外されると言っていた。
しかしまだ1年目。
自分は研究職に向いていないと結論付けたのだろうか。
……大学から離れる時もそうだった。
自分にとって大切なものから逃げるかの様に……。
彼は、何に焦っているのだろう。
私は、彼を支えたい。
しかし、私の存在が、今の彼を追い詰めている。
いけない。
このままでは……彼は私と、やっていけない。
そして私も、やっていける自信がない。
一晩、考えた上で、私は彼に打ち明けた。
「別居しましょう」
その時彼から、ほっとした表情がうかがえた。
私は話しを続けた。
「そして1年後の今日、お互い、やっていける自信を取り戻して、最初に会ったあの場所で、あの時間に会いましょう」
彼は、ただ「わかった」と言った。
・・・・・・
翌日、仕事を終えて帰宅すると、私のマンション郵便受けに、封筒が入っていた。
中に入っていたのは、私の部屋のカギだった。
そして、ただ一言、記されていた。
『いままで、ありがとう』
私は、自分の部屋へ走った。
扉を開けると、その部屋は綺麗に掃除されていた。
そして、彼の私物は無くなっていた。
その時、私は思ってしまった。
1年後、約束の場所に、あの人は来ない。
私から解放されることを、あの人は望んでいた。
・・・・・・
それからの私は、独りで堕ちて行った。
一晩考えて打ち明けたあの日。
あの時の私は、何だったのだろう。
わたしは……愚かだ。
彼が出て行った時、綺麗にしてくれたこの部屋。
たちまち散乱した部屋に堕ちていった。
もう……失って惜しいものなど……何もなかった。
・・・・・・
それから1年が過ぎた。
彼が約束の場所に来たかどうか、私は知らない。
ただ、私は行けなかった。
彼への想いは変わらなかった。
しかし、彼とやっていける自信が、持てなかった。
私は彼の優しさに甘えてしまい……彼は自分を追い詰めてしまう。
・・・・・・
それから数ヵ月後、部下である主任に交際を申し込まれた。
主任には、当然彼女がいると思っていたのだが、ずっと私を見ていたと言われた。
そして、私はようやく立ち直ることが出来た。
私は、部下である主任と結婚した。
そして、二人の間に女の子が生まれた。
会社での仕事と子育ての両立、大変だった。
しかし夫が支えてくれた。
私は……幸せだ。
結婚してからの私は、常に自分自身を見張っていた。
だらしない生活に浸かっていたあの頃に戻らない為。
今の私は、頭のてっぺんからつま先まで、夫の前でも武装している。
そして時々、昔の彼の事を思い出してしまう。
元気に生活してるだろうか……
ちゃんと食べているだろうか……。
・・・・・・
それから3年が経った。
今年から幼稚園に通う娘と、手をつないで歩いていた時、偶然、昔の彼が、前方から歩いてきた。
私はすぐに分かった。
しかし、お互い目を合わせる事なく、すれ違った。
しばらく歩いた後、私は振り返った。
すると、彼もまた、振り返っていた。
彼は一回り以上若い娘と、恋人繋ぎしているではないか……この犯罪者め!
その時、私の中から、自分を縛り付けている力が……抜けた。
この世界、たいていの事は許される。
私はその彼女さんに会釈した。
その彼女さんも、私に向けて会釈してくれた。
私は娘と手を繋いで歩き出した。
後ろから、彼に向けた彼女さんの声が聞こえてきた。
「ダメーッ!」
私が クスッと笑った事、二人には内緒だ。
【 完 】
『養っていた彼氏との だらしない生活♪』に最後までお付き合い頂いた読者さま、本当にありがとうございました。
さて、次回作ですが、タイトルは
『あの婚姻届け……何処へ行ったのでしょう』
拙作『家出女子高生を自宅に連れ込んで英才教育してみました』の続編となります。
おじさんが渡した婚姻届け、いったい何処へ行ってしまったのでしょう。
今後とも、お付き合い頂けますよう、よろしくお願いいたします。




