井上さん
彼は生き様について更に悩むようになっていった。
コーティが予言した通り、ネクストゲートでの記憶は風化し、その前後の記憶と一体になって曖昧になっていった。
眠りついて夢を見ると、コーティやグレゴリ達と教室で授業を受けていたり、小学校の頃の仲間がネクストゲートの世界に現れたりした。
最早、ネクストゲートは彼にとって完全に過去のものになり、大切で最も価値のあったはずの二年間を自分の中でどう扱うべきか判断がつかなくなっていた。
あれだけ恋焦がれたコーティでさえ、その顔はぼんやりとしか思い出せず、あの燃えるような情熱が本当に自分の内から出たものなのか自信がなくなっていた。あの感情はゲーム内のイベントとして発生したものなのかもしれないとすら思い始めていた。
彼は他に相談すべき相手が見つからなかったので、余裕のある日を窺って井上さんを馴染みの居酒屋へ呑みに誘い、ネクストゲートに端を発する全ての想いを打ち明け、今後どう生きて行くべきか相談した。
安酒をちびちびと口にしていた井上さんは話の内容が真面目な相談だと判ると、身じろぎもせず、亭主が鮮やかに焼く焼鳥をカウンター越しに見つめながら真摯に聞いていた。気のせいか、彼には井上さんのコップを持つ手が少し震えているように見えた。
長い話を聞き終えた井上さんは口篭もってしまい、彼はやはり他人にすべき話ではなかったと後悔を始めた。
井上さんは貧相な腕を曲げて顎の不精鬚をさすりながら考え事をしている様子だったが、急に立ち上がって「一週間待ってくれ」と言い残し、唖然とする彼を残して店を出ていった。呑み代は全て彼持ちだった。
彼は一人でヤケになって安酒を呷り、閉店時間に店主から追い出され、翌日二日酔いでフラフラになりながら出社した。
その後、抱えていたプロジェクトが大詰めに入った事もあり、彼は三週間ほどすっかりその一件を忘れていた。
スケジュールが落ち着いた頃、ふと思い出してグラフィックチームを尋ねると、彼はそこで井上さんが一週間も前に自主退社していた事を知った。
彼は井上さんの携帯に電話すると、元気そうな声が返ってきたので安心した。
「おー、丁度良かった。目的のモノが手に入ったから、今日辺りこっちから連絡しようと思ってたんだ。ところで次の休日……あー、取れたらでいいんだが、一日俺に付き合ってくれんか」
次の休日も返上で仕事になりそうだったが彼は「はい」と答え、スケジュールを切り詰めたり、同僚に割り振る仕事をちょっぴり増やしたりして都合を付けた。
休日の朝、彼は井上さんと羽田で待ち合わせ、正午前には長崎の大村空港に着いて佐世保行きのバスの中に居た。井上さんは何も説明しなかったが、バスの中で黙って彼に一枚の紙切れを渡した。
それは名前と日付がセットで並んだリストで、その中の二人の名前が赤で記されていた。
名前の片方は彼のものであり、もう一つは知らない女性の名前だった。二人に付けられた日付は同じ日で、それは彼がネクストゲートを辞めた日だった。それ以外に同じ日付の付いた名前は無かった。
彼はその女性の正体と、井上さんが会社を辞めた理由──どうやって手に入れたかは解らないが、他社の個人情報を利用した事がバレれば、会社にも被害が及ぶだろう──を理解して涙に目を瞬かせたが、井上さんは「話は全部終わった後だ」と言って目的地に着くまでふて寝を決めこんだ。