09 DOWN WITH LOVE(恋は邪魔者)
また、医師とイオナの話です。08の日の夜、『あにいもうと』02話の次くらいになります。
深夜。MRIの断層画像を数多く貼りつけたボードを前にして、男が何か書きものをしている。もう消灯時間は過ぎ、時折静かに廊下を歩き過ぎるのは、夜勤の看護師だろう。
ふと、デスクの上の名刺を手に取ってみる。頭を打って、視力を失ったという患者が紹介されて来て、脳内にどうも影がある。画像診断では、骨片か異物か、腫瘍か梗塞かも判断しかねるため、開頭手術を提案してみた。今のままでは嫌だから、わざわざここに来たのだろう。ならば何でも、やってみればいいではないか。多少は思い上がっているにしても、彼にとっては、正しいことを親切に言ったまでなのである。
だが、患者の兄だというこの男は、かなり激して言い返してきた。まあ、患者も家族も、大抵は委縮して『何でもお任せします』というのが多いから、珍しく感じたのだろうか。
三十代前半に見えた。それで警視とはエリートなのかとも思ったが、公安部の役付には、キャリアはあまり就かないと聞く。ただの慣習か、汚れ仕事なのかは知らないが。余程の努力をして昇格を重ねたのか、それとも、閨閥か? 姓も違っていたし、誰か有力者の娘婿にでもなったのだろうか? いや、あれだけ妹を溺愛し、患者本人も兄を慕っている様子は、尋常ではなかった。少し前なら、恋愛感情など理解できなかった頃なら、気づかなかったかも知れない。 そう考えると、どこか興味深い。次に会うことがあれば、一度きりの近親婚が次世代に与える影響など大したことではないと、教えてやろうか。遺伝的な問題よりも、社会秩序を護るために、タブーは存在するのだと。激怒されるかも知れないが……。
珍しくも思考は脱線し、時間がゆっくりと過ぎていく。はっと気づいて、ノートパッドに視線を戻した。三割も可能性があれば、ためらう必要などない。そして自分が、その確率を大きく引き上げてみせる。病巣を完璧に取り除く映像を思い浮かべ、技術的な満足を味わっていると……。
「笑うなんて、珍しいわね」
女の声に、彼は顔を上げる。
「君か。まさか、今頃戻ってきたのではないだろうね。今日は診察が忙しくて、君をベッドに縛り付けておくのを忘れていた」
「もちろん九時の消灯で眠ってたけど、お手洗いに起きただけ」
「病室にあるだろう。わざわざ着替えて、化粧までしたのかい? それとも、私に逢いに来たのか? そこのソファよりは、君の病室のベッドの方がまだマシだな」
軽い口調で誘う素振りをしてみせたが、女はそれには何の反応も示さない。ゆらゆらと視線を泳がせ、また彼に戻した。
「……灯りが、漏れてたから」
「うん」
「もしも私のデータだったら……、またもっと悪くなってたら、知りたかったの……」
濃い化粧でも、華やかな服でも誤魔化せない、頼りなげな表情。医師は努めて、優しい視線を向ける。
「君じゃない。他の患者さんだ。本当は朝から晩まで、君だけにつききりでいたいのだが、そうもいかない。だが、君は私が必ず治すのだから、不安を感じる必要はない」
「悪くなってた方がいいわ」
「怒るぞ」
「苦しいの。早く楽になりたい」
「治ればいい」
女は目を伏せ、黙り込んだ。そしてそのまま、部屋を出て行こうとする。
「待ちなさい」
急いで立ち上がり、とっさに掴んだ手首が細すぎて、胸を衝かれる。それでも敢えて何も言わず、指を絡めて手を繋いだ。
「はなして。お部屋に帰って寝みます」
「一人で眠れるのか」
「眠れなかったら、明日ぼんやりして過ごせばいいわ。どうせ先は短いもの」
「何度言えばいいんだ。私が必ず、」
「おやすみなさい」
指をゆっくりと解し、女が後ずさる。そのまま夜に溶けて行きそうで、医師は歩みを進め、彼女を抱き寄せた。また、痩せたような気がする……。
「ちゃんと食事をしろと言っているだろう?」
「だってどうせ、」
「黙れ!」
短く叱りつけ、唇を塞いだ。相変わらず、女には反応がない。切なくなって離せば、ぽつりと呟く。
「病院くさいわ」
「当たり前だ、病院だからな。消毒薬の匂いがしみついているだろう。嫌なら脱ぐが? 白衣だけじゃなく……、ああ、そうだ。今からでも外泊許可を出そう。私の家に来なさい、どうせ隣だ。ここよりは、ベッドは広い」
「おかしなひと」
「そのまま、ずっといてくれていい。検査のときだけ、呼びに行く。息子がまとわりつくかも知れないが、相手にしなくていいから。家政婦は通いで、気兼ねもないし」
「もう死にそうだから、そんなに優しいの?」
「……止めてくれ。頼む」
自分の方が、胸苦しかった。こんな気持ちは初めてで、どうしていいか分からない。
「ごめんなさい。でも……、だから私には、構わない方がいいわ。ただの研究対象で十分です。ご自宅に連れ帰るなんて、もってのほかよ。今日だって、どこで何をしてきたか分からないような女じゃないの」
「自分からそう悪ぶって見せるのは、大したことはしていない証拠だ。どうせあの若造に思わせぶりなことでも言って、からかって帰ってきた程度だろう」
「分からないわよ」
女が食い下がったが、微かに笑って、首を振る。
「キスでもされたのか? 許せないな、私のものに手を出すとは。図々しい」
「貴方も図々しいわ」
「私は、当然のことをしているまでだ。妻にすると決めた女を口説いているのだが、可愛らしくも私に逆らってみたり、追いかけさせようとして逃げたりする」
「抱きたいのならいつでもどうぞって、言ってるでしょう」
「何の反応もない、人形のような身体をか? それならまだ、拗ねた女の泣き言を宥めている方がいい。何を言われても、答えは決まっているからな。私が治すのだから安心しろと」
「優しくしないで。似合わないわ」
「一人くらい、そういう存在がいても構わないだろう」
カルテや画像を手早く片付けて、ファイルにまとめ、引き出しに入れた。かけた鍵は、ポケットに放り込む。
「もう、寝みなさい。眠りにつくまで、側にいよう」
「じゃあ、ずっと起きてるわ」
「それなら私が、君を抱いて眠るよ」
「止めてよ、もう……。誰もが私に優しくするのはどうして? 可哀想だから? ねえ、教えてよ」
「私が、相手への同情で態度を変える男だと思うかい? ただ、君を愛しているからだ。あの男の理由は知らん。考えたくもない。ヒバリは、君に憧れているんだろう。新しい母親になってくれると知ったら、大喜びだろうな」
彼女が借りているオフィスのオーナーの若者も、どう考えても彼と同じ動機だろうが、分かっているからこそ不愉快に感じる。息子も、再婚するとでも言ったら喜ぶどころか、激怒して父親に突っかかり、自分が結婚するのだと騒ぎたてるだろう。その辺は、今、論うことではないが。
病室のドアを開け、中に入った。この部屋だけは、いつもドアを閉めることにしている。
「ちゃんと化粧は落して寝なさい。十年後に後悔するぞ」
「十年後なんて、」
女の反論は無視して、先を続ける。
「美容外科に行く金くらいは構わないが、せっかくの肌をシミで汚すこともない」
彼女をバスルームに押し込み、医師はベッドサイドの椅子に腰かけた。今夜は、ここで過ごすことになりそうだ。本当は、直に抱いて眠りたい。いや、眠らせない。一晩中でも愛し合いたい。少しでも反応があれば奮い立つのだが、あれでは……。
抱いても逃げないが、キスをしても応えない。服を脱がせ愛撫を加えても、全くと言っていいほど反応せずに……、結局は、こちらが挫けてしまう。恐らくは死への恐怖から、何事にも無気力になっているのだろう。どうしたらいいのだろうか……。
やがて戻ってきた女をベッドに寝かせ、自分も隣に横たわる。と言っても、着衣のままだ。一度外しかけたネクタイが、緩んだ状態で首に下がっている。
「どうしたの。中途半端ね」
「この前、君が解いてくれただろう? 今夜も」
「呆れた。でも、その位なら、してあげるわ」
長い絹紐が、シュルッと音を立てて滑り落ちた。シャツのボタンをいくつか自分で外し、それから、女を抱き寄せる。
「愛している」
耳を塞ぎたくても、抱きしめられていて動けない。彼女は顔を背けようとした。
「言い難い言葉だったが、一度口にしてみると、大したことではないようだ。自分の気持ちだからな」
「じゃあ、誰にでもおっしゃればいいわ。安売りっぽいけど」
「それは無理だ。薔子」
急に名を呼ばれ、彼女はびくっと身体を震わせた。
「いや」
「私はまだ、何も言っていないぞ。それともあの男のように、イオナと呼んだらいいのか? そういえば前から気になっていたのだが、愛称か?」
女はためらい、やがて口を開く。
「彼に、初めて会ったとき……、適当に言ったの」
「ハハッ、これは傑作だ。名前も教えたくなかったのか。では私も、絶対に教えてやらないことにしよう」
「でも今は、結構気に入ってる」
「困った女だ。私を振り回して。だが、仕方がない。愛しているよ、薔子。ゆっくり眠りなさい」
「眠れないわ。狭いし、貴方が話しかけて煩いし、」
呟いた唇を、男が無理に塞ぐ。女は儚げに身を震わせ、逃げようとした。
「どうしたんだい。いつもは何の反応もないのに」
「……苦しかった、だけ」
「違うな。私を意識し始めたんだろう。たとえ嫌がられたのだとしても、感情を持たれたのは進歩だ。恥かしくて、逃げる素振りをしたのだったら良いが」
「じゃ、そう思ってればいいわ。うぬぼれ…、うっ…、」
もう一度キスをされて、憎まれ口は途中で止まった。
「ああ。もちろんそうするよ。今夜は、眠れとは言わない。眠らせない。君は、感じないふりでもしていればいい。無理だとは思うけれど」
「もうすぐ死んでしまうのに、身体だけ玩ばれて、可哀想な私」
「前提条件が間違っている。君は死んだりなんかしないし、私が妻にする。それから、」
「なあに」
「どうせなら君も積極的になってくれた方が、お互いに、快いと思うが」
「嫌よ」
「では仕方がない。薔子が歓んで啼くまで、励むことにしよう」
「意地でも黙ってる」
女の強がりに、男は微かに笑った。
「これからベッドを共にすることについては、否定しないのだね」
イオナの名前は、薔子です。薔薇の「薔」です。吝嗇の「嗇」ではありません。