07 GIRL NEXT DOOR(ガール・ネクスト・ドア)
再び、「ぼく」の語りに戻ります。「ぼく」もヒバリも、同じくらいお人好しで……。
「おや?」
朝早く、ぼくがイオナの病室へ向かっていくと、ドアからはあの医者が出てきた。
「どうしました?」
冷ややかな声。そりゃ、歓迎されないのは知ってるけど。でも、気になることがある。
「あ、あの……、こんなに早くから、診察ですか?」
「ええ、そうですよ」
「もしかして、また具合が悪くなったんじゃ……」
「いや、そういう訳ではないが。…君もまあ、おめでたい男だね。失礼、いい人と言い直すかな」
「どういう…意味です……?」
じゃああんたは、訳の分からない人だと思いつつ、ふと、白衣のポケットに目が行く。仕事道具の聴診器の他に、ネクタイがはみ出していた。ブランド物の濃い色のシャツはしわになり、髪もぼさぼさだ。
それこそぼくの仕事柄、相手の服装は気になる。白衣の下はいつも、ダークな色のシャツに、ヴェルサーチの細身のタイだった。スーツを着るとしても、きっと薄い色にするんだろうと思っていたんだけど、それより……。
普段から気を遣わないのなら目立たないが、あれだけ気取っていた男が、こんなに服装を乱している。容態に急変があれば、一晩付き添ったとしても不思議はない。だが、安定しているのなら、この不自然さは拭えない。朝早く、女の部屋から出てきた姿を見て、彼女の具合が悪いのかと素直に思う自分は、おめでたいと言われても仕方ないだろう。
「他の入院患者さんとは違うから、あまり堅苦しいことは言わないけれど、面会時間は守ってください。ああ、それから、今は着替えているかもしれないので」
医者は大人気なくも、最後に一言添えると、さっさと歩き去る。
「あ、はい……」
ぼくはしばらく、その後ろ姿と病室のドアを、交互に見つめていた。それでも、意を決して、ドアをノックする。
「イオナ、ぼくだよ」
「あら、おはよう」
小首をかしげる彼女の様子に、変わったところはない。少なくとも、今さっき、何かが…あったようには見えない。ただの思わせぶりだったのかもしれない。息子にも、嫌味な奴と言われていたくらいだし。
「どうしたの?朝から」
「いや……、店を開ける前にって思って。それに、この時間ならヒバリはいないだろ」
「うーん。それはどうかしら」
その言葉が終わる前に、ぱたぱたと足音がする。誰かに咎められたのか、一度停まり、少しゆっくり目に近づいてきた。
「お姉さん、大丈夫?」
ノックと同時にドアが開き、そう言いながらヒバリが入ってくる。
「……何だ、オジサンもいたの」
「そう呼ぶなって言っただろ、ヒバリ」
「僕を呼び捨てにしていいのは、お姉さんだけだよ。島村サン」
「ぼくは島村じゃないさ、ヒバリ君」
「うふふっ、ずいぶん仲良しね。島村って、島村ジョウ?」
イオナは笑い出した。ヒバリがぼくを馬鹿にして『ジョウ』と呼び、いつの間にか苗字までついてしまったというわけだ。
「もういいよ、何でも。お前も朝からよく来るな。家は近いのか?早く学校行けよ」
「人のこと、言えるのかな。ま、いいや。僕の家なら、すぐ隣だよ。だから、来たいときに来る」
「ヒバリや院長先生は、病院の隣のご自宅に住んでいるの。先生のお祖父様が、この病院の創立者だそうよ」
「そういうこと。ご近所さんだからね」
……嫌なガキだ。
「でもね、普段はちゃんと、面会時間は守るよ。今日は特別。パパが昨日帰ってこなかったから、ちょっと心配になって。だけど、何でもなさそうで良かった」
ぼくは一瞬、息を飲む。やっぱり、あいつはここにいたのか?
「……先生の患者は、私一人じゃないでしょう」
「勤務時間が終われば、パパは危篤の患者さんだって放って、家に帰って寝ちゃうよ。だから、お姉さんが具合悪いんじゃないかって思って」
何と言うか、ぼくと同じくらい、おめでたい奴だ。
「お前、いい奴だな」
「何だよ、急に。……あ、拙い。オジサンの相手をしていたら、遅刻しちゃう。じゃあね、お姉さん」
「行ってらっしゃい」
イオナは手を振って、笑顔を向けた。ヒバリの姿が消えた後、ぼくの方を見る。
「ヒバリがどうして、いい子なの?」
「……ごめん」
「何が?」
余計なことを言ってしまった。口は災いの元。だけど、思わせぶりに黙るのも、彼女を苦しめるだろう。
「ぼくが来たとき、あの医者がこの部屋から出て来たんだ。ぼくは、『彼女の具合が悪いんですか?』って、ヒバリと同じことを聞いた。そしたら、『君はおめでたい男だね、いや、いい人と言うべきか』って言われたんだよ。それで、つい……」
「二人とも、優しいのね」
「昨夜は、あの医者と寝たの」
「そうよと言ったら、どうする? 帰る?」
「いや。奴を殴ってから、きみを連れてここを出て行くよ。許せない」
「あらあら、熱血ね。じゃあ、違うと言ったら?」
「信じるよ」
「……困ったわね。私にはあんまり、あなたの相手をしてあげられる時間が残っていないの。だから、その優しさは、誰か違う人に向けてあげて」
「嫌だ。ぼくの勝手だよ」
イオナはため息をついて、天井を見つめる。これ以上、会話を続ける気はないようだ。
廊下にワゴンの音がして、また、誰かがドアをノックする。
「おはようございます。朝食です」
勢いでぼくが受け取ったが、トレイを見て不思議に思った。
「量、多くないですか?」
主食が二つ。丼ものと、麺類。それだけでも十分な量なのに、副菜もボリュームのあるものが三品ついていて、病院食のイメージは全くない。
「ええ…と、ドクターの指示だそうで。あと、言付かって来たんですけど、全部食べないと、今日の外出許可は取り消しって」
看護助手の女の子は戸惑ったように言い、頭を下げて出て行った。
「ぼくでも、こんなに食べないけど」
「私だって食べないわよ。ただの嫌がらせだわ」
「嫌がらせ?」
「食べないと、外出許可は取り消しなの」
「どこに出かけるつもりだったの?」
「あなたのビルの中のオフィス」
「手伝う」
ぼくは、思わず言ってしまった。
「そう? ありがとう。覚えてる? 私が、好き嫌いが多いこと」
そういえば、そうだった。ぼくは頷く。
「嫌いなものばかり入ってるんだけど」
仕方なく、ぼくがほとんど片付ける。その間に支度を済ませた彼女を連れて、ぼくは上機嫌で病院を出た。
「お腹が空いたわ」
「だったら、ちゃんと食べろよ!」
呆れた。だけど、これがイオナだ。ぼくはあのときのベーカリーに寄り、サンドイッチを買ってあげた。
オフィスに着くと、イオナはPCを立ち上げる。
「信じられない。なにこれ!」
忙しくキーボードを叩き、すぐに、自分の世界に入ってしまった。何日も間が空いて、投資の運用が滞っているらしい。彼女が経済的に余裕があるのは、ネット上での資産運用と聞いたことがある。それなら、邪魔はできないと思う。
ぼくがコーヒーを淹れると、軽く手を振る。お礼なのか、バイバイなのか、良く分からない。
そして午後には案の定ヒバリが迎えに来て、イオナは帰ってしまう。
明日も来てくれるだろうか。また、迎えに行ってみようか。今頃はどうしているんだろう。まさか、あの医者と一緒、じゃ、ないよなあ……。病室を訪れ、彼女と話をする、いや、我が物顔に抱き寄せ、あるいはベッドに押し倒す妄想が浮かんで、ぼくはぶるぶると頭を振った。
どうかしてる。色々と溜まっているのは、ぼくの方かもしれない……。
パスワード管理の甘い人物のことを、Joeといいます。
ヒバリはその件で「ぼく」をけなしていたが、いつの間にか苗字をつけたようです。
リアルタイムでサイボーグ009を読んだわけではないだろうが。