05 MY LIFE WITHOUT ME(死ぬまでにしたい10のこと)
彼女の抱えていた秘密が明らかに。
結局、イオナはその日はもう戻らず、次の朝ぼくがオフィスを覗いたときも、来てはいなかった。彼女のオフィスなのだから、クローズもオープンも自由だし、いない日だってあったけど。前日にあんな別れ方をしたので、やっぱり気になる。結局、何もかも上の空で、一日が終わった。ぼくは諦め悪く、女の子を帰してから遅めに店を閉めて、部屋に戻る。
ドアを開けると、リビングから灯りが漏れていた。ここの鍵を持っているのは、もちろんぼくと、一応親と、そして……。
「遅かったのねえ」
いつの間にやってきたのか、イオナがソファに寝そべっていた。素肌の上に、ぼくのライカのシャツを勝手に着ている。ガラステーブルには、バラのリキュールのビンと、小さなグラス。少し飲んだのか、潤んだ瞳をしていた。
「ご機嫌だね。空腹のときに飲むと、また酔うよ」
「焼きそば作って食べた」
「焼きそば?」
キッチンを指差す。振り返ると、調理台にラップをかけた皿が乗っていた。
「多いから、半分置いといた。お皿は適当に使って洗ったわ」
レンジで温めて、冷蔵庫の缶ビールと一緒に持ってくる。ここで食事をするなんて、久しぶりだ。そういえばこれが、彼女に作ってもらった、初めての料理になるんだろうか……? 味よりも、うかつに感激している自分が情けない。
ぼくがもそもそと食べている間に、イオナは大人しくなって…、気がつくと、眠っていた。
「風邪、引くよ」
うっすらと目を開けたが、また閉じる。
「あんまり強くないんだから。飲みすぎちゃ、ってもう、聞いてないか……」
苦笑すると、ベッドに運んだ。悪戯をする気はない。朝になってから、ゆっくり話そう。身体でのコミュニケーションになるかもしれないけど。
「来てくれて、嬉しいよ」
聞こえてはいないと分かっていても、口にせずにはいられなかった。
翌朝。
ぼくが目覚めても、イオナはまだ眠っていた。ビンの残りから見て、飲んだのはほんの少しのはずだが……。頬にキスをしようとすると、僅かにバラの香りがする。あのリキュールのいいところだ。
「おはよう、朝だよ」
声をかけると、目を開けた。どこだか分からなかったのか、一瞬戸惑ったような表情を見せる。
「昨夜帰って来たら、イオナがここにいた。すぐに眠ってしまったから、ベッドに運んだんだ」
「う…ん……?」
とりとめのない返事には構わず、ぼくは彼女を抱きしめた。一晩我慢したんだから、ご褒美を貰ってもいいだろう。
「あん…、なに、するの……」
返事もしないで、シャツのボタンを外した。白い肌に唇をつけ、柔らかな胸のふくらみを手の中に収めて、ゆっくりと揉んでいく。
「ねえ。少し…、苦しい」
「あ、ごめん」
力が強かったのか。慌てて僕が手を離すと、イオナは起き上がり、そのまま洗面所へと向かった。怒ったのだろうか。それとも、気分が悪いのか?水音がして、咳き込む気配も感じられる。飲みすぎたんだろうか。
「イオナ?大丈夫?」
ノックをして声をかけても、返事がない。ドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。
そして、ぼくが見たものは。真っ赤な血を吐いて、力なくうずくまる彼女の姿だった……。
慌てて救急車を呼ぶ。イオナはかすれた声で病院の名を告げ、そこに連れて行ってくれと言う。かかりつけだろうか?とりあえず、ぼくも付き添った。処置室に運び込まれた彼女だったが、すぐにどこかへ移されるようだ。検査ですか、大丈夫なんですかと詰め寄ると、看護師は少し考えてから、ぼくにもついてくるように言った。
エレベーターに乗り、最上階へ。どういうフロアなのか、人影も少ない。そのまま奥へとストレッチャーは運ばれ、突き当たりの部屋に着いた。
「付き添いの方は、ここで」
ドアの横の小さなベンチに座っていると、白衣の男が走ってきた。ぼくには目もくれず、病室へと入っていく。ガラスや金属の擦れ合う音が、いっそう不安をかきたてる。いったい、どういうことなんだろうか。
そしてまた、廊下に足音が響く。
「走っちゃダメですってば」
「うるさいよ!」
看護師に口答えをする、聞き覚えのある声に顔を上げると、あの、ヒバリという少年だった。
「何で、あんたがここにいるの?」
「何で、って……。今朝急に、血を吐いて…救急車を呼んだら、ここに連れて来いと……」
「お姉さんを殺す気か?何をしたんだ?まさか……、い、いやらしいことでも?」
「え、いや…、何もしてない。昨夜帰ったら、部屋にいて…すぐ眠ってしまったし……」
混乱して、言わずもがなのことまで口にしていると、ドアが開いた。
「騒ぐな」
先程の医者が、一言だけ言って、またドアが閉まる。ぼくらは声を潜めて、話を続けた。
「教えてくれ。どういうことだ?」
「……医者は、患者については守秘義務があるから。何も答えられないよ」
嫌なガキだ。
「でも僕は、医者じゃないから。教えてあげてもいい」
「……頼む」
ヒバリはぼくを、バカにしたような目で見てから、口を開いた。
「お姉さんは病気なんだ。だけど、治せない。ここで出来るのも、痛みを抑える治療だけ。だから、検査や診察の無い日は、自由に外に出てていい許可が出てる。だって、何もしてあげられないんだから……」
「……」
うつむくヒバリを、ぼくは何も言えずに見つめた。嘘だろ。だって、イオナはあんなに若くて綺麗で、普通に暮らしているじゃないか。
「だけど、パパがきっと治すよ。パパに出来なかったら、僕が医者になって、必ず治す」
涙をぬぐって、ヒバリが顔を上げる。そのときまた、病室のドアが開いた。
「お話がしたいそうです。あ、ヒバリくんはまた後でね」
看護師に言われて、ぼくだけが中に入る。少しだけにしろ、興奮させるなと注意をすると、医者も看護師も姿を消した。
「迷惑かけて、ごめんなさい。連れてきてくれて、ありがとう」
点滴につながれた彼女が、小さな声で言う。心電図の電極と、何か分からないチューブも付けられていた。
「いや……」
聞きたいことはたくさんあるけれど、その姿を見ては、何も言えない。
「あのね、オフィスの机の引き出しに、お家賃代わりに少し置いてあるから。それで中を片付けて、また使ってください」
「……。もう二度と来ないみたいな、言い方だね」
「だって、もう分かったでしょ。ここが私の住まい。そのうち、どこにも行けなくなるわ。本当に、終の棲家よ」
「ヒバリが、必ず治すって言ってたよ。だからあのオフィスも、ずっと使えるだろ?」
イオナは、寂しそうに笑う。
「ヒバリが大人になる頃には、私はとっくに死んでるわ」
「止めろよ、そんなこと言うの!」
声が大きくなってしまい、それに気づいて、ぼくは黙りこむ。
「ねえ、棚の上の保温庫に、タオルが入ってるんだけど」
少し経ってから、彼女が口を開く。
「うん」
「顔、拭いてくれる?男の人に会うのに、誰も気遣ってくれないんだから」
「だからって、その相手に拭かせなくても……」
やっと、表面だけでも、いつもの調子に戻った。口元にこびりつく乾いた血を拭いてあげると、ぼくはそっとキスをする。
「明日も見舞いに来るよ」
それだけ言って、僕は病室を出た。ドアの前には、ヒバリと、医者が待っていた。
「お姉さんは、何て?」
「オフィスを引き払いたいと言ってた。でもヒバリが、必ず治すと言ったと伝えておいたよ。だから、そのままだ」
「僕を呼び捨てにするなって言ったろ!」
不満そうな顔だが、それでも、ぼくの言ったことは気に入ったらしい。
「失礼だが。彼女とは、どういう……?」
医者が横から口を挟む。これがヒバリの父親か。面差しが似ているが、あまり感情を表さない、冷たい感じの男だった。
「最近知り合ったばかりだけど、親しくさせてもらっているつもりですが」
「昨夜も?」
「ええ、ぼくと一緒でした」
ぼくを上から下まで、ジロリと睨むと、不愉快そうな表情が浮かぶ。
「これで分かったでしょう。絶対に、無理はさせないことだ」
「昨夜は何もしてな、」
だがもう、さっと背を向けて、歩き出していた。
「パパ、何を怒ってるんだろう?」
ヒバリがぽつりと呟く。そりゃ、決まってるさ…と、ぼくは心の中で答えた……。
翌日の夕方、ぼくは適当な言い訳をして、店を後にする。病室を訪ねると、有り難いことに、彼女に付いていたコードやチューブは取り外され、点滴も一つだった。顔色も悪くない。だが、有り難くないことに、ヒバリがいた。そうか、この時間は学校帰りか。
「大家さん、暇なの?」
「彼女が心配なだけだよ」
「大丈夫よ、意外に元気」
話をして、彼女のことを少しは知りたかったが、仕方がない。次の機会を待とう。それどころか、またあの医者までやってくる。
「ヒバリ、今日は塾だろう。……ああ、君もいたんですか」
「今日は休む。お姉さんのお見舞いの方が大事だ」
「誰かのせいで昨日、救急搬送されてきた患者だぞ。顔だけ見たら、満足してさっさと帰れ」
一言一言が、とげとげしい。ヒバリに向かって言ってはいるが、ぼくにも帰れと言っているんだろう。
「心配しないで、勉強してらっしゃい。私も、寝てなきゃ院長先生に叱られるわ」
「そうそう、安静が第一。面会謝絶にしたいくらいだよ」
医者の言葉に、イオナは肩をすくめて笑った、いや、笑おうとした。だが、表情が強張る。
『痛っ』
唇がその形に動き、ぼくはぞっとして見つめる。ヒバリも、歩き出そうとしたまま固まった。
真っ先に駆け寄ったのは、やはり医者だった。
「痛むのか? 何故、早く言わない!」
「ちがうの。いま変に動かしたら、少し痛かった、だけ……」
叱られた子供のように頼りない声が、ぼくの胸に突き刺さる。言葉は強かったが、医者の扱いは優しく、そっと支えてやっている。もうぼくらには構わず、ナースコールを押すと鎮痛剤を言いつけた。
「邪魔だ。出て行け」
さすがに逆らえず、ぼくとヒバリは廊下に出た。
「塾、行くのか?」
「まさか。勉強なんて出来ないよ。多分、注射で痛みを止めて、眠らせてあげるんだと思うけど……」
ぼくは少しためらったが、ここはヒバリに頭を下げることにする。
「昨日の話、もう少し教えてくれないか」
病院のカフェテリアに連れ込み、端のテーブルにつく。ヒバリはあまり言いたくなさそうだったが、ぼくも必死だった。
「僕も詳しくは知らないけど、骨肉種の特殊なもので、肩から始まって、小さな腫瘍がたくさんできているらしい。だから、手や足を切断して治るものでもないし、とっくに肺にも転移しているから、一年後の生存率は一割以下だって、パパが告知したみたいだよ」
「……酷いな」
「うん。僕もそう思う。だけど、パパはそういう人だ。その上に、どうせなら、新しい治療を試してみないかって持ちかけたんだ」
「どうせ死ぬ患者だから、モルモットに?」
「悪く言えば、そういうこと。パパは家で仕事の話はしないけど、資料を見つけて、興味を持ったから見に来てみた。そしたら、あんなに若くて綺麗な女の人で……」
ヒバリは言葉につまり、鼻をすする。だが、また続けた。
「でもね、パパも変わってきたみたい。今はお姉さんが好きになって、本気で助けたいんだ。だったら、許してあげようかなって思ってる。もちろん、お姉さんは渡さないけど。頑固で嫌味なバツイチのオヤジになんか、渡さないよ。そうそう、横からしゃしゃり出てきた、オジサンにもね」
「……オジサンって言うなよ。それに、ぼくのほうが親しい」
「今頃、何言ってるの?」
「嫌な奴だな、お前も」
ぼくらは不毛な言い合いを続け、バカらしくなって口をつぐむ。
何があったのか分からないけれど、あのときイオナは病院を抜け出して、ぼくの部屋に来てくれた。ぼくのところに、逃げ込んで来てくれた。それは、忘れない。
ただの偶然だと、彼女は言うだろうけど。
ライカのシャツ…ライカインダストリー。上質のリネンやコットンの、綺麗な柄のプリントシャツなど。「ぼく」の普段着。カメラではない。
バラのリキュール…イタリア製の「リキュールローズ」