03 SHAKESPEARE IN LOVE(恋に落ちたシェイクスピア)
多分、彼女を本当に、好きになってしまったみたい。
朝になって、そっと起き出してシャワーを浴びる。戻ってくると、イオナはシーツに包まり、ベッドに上半身を起こしていた。
「朝ごはん買ってくるよ。シャワー浴びて、これでも着てて」
本当はやっと手に入れたサンローランの限定Tシャツだが、いかにも無造作に手渡すと、ぼくは外に出た。すっかりおしゃれになってしまったけれど、ぼくにとっては近所のパン屋さんでしかないベーカリーで、いつものパンを買う。ビン入りのジャージーミルクを持って、ビルの一階の、ぼくの店にも寄る。
選ぶのに、少し時間がかかってしまった。まさかとは思うが、帰ってしまってたらどうしよう……、なんて杞憂で、下着の上に大き目のTシャツをはおったきりの姿で、ぺたりと座っていた。
「お腹空いたわ」
「ごめんごめん」
「何それ?」
パンの袋とミルクのビン、新聞の他に、指に引っ掛けていたハンガーつきのツーピースに目が行ったらしい。
「着替え。下から持ってきた」
「下?」
「うん。一階のブティック」
「ふうん。洋装店ご経営、と」
「……ついでに不動産賃貸も入れといて。ビルオーナーでもあるから。それ何て国勢調査?」
もう人の話は聞いていなくて、がさがさと紙袋を開けていた。中には、くまちゃんの顔の形のパンが入っている。ここで女の子と夜を過ごしたりして、次の朝に買ってくると、必ずうけるんだけど…。
「可愛いでしょ?食べ方があるんだよ。まずね、頬っぺたにチュウして、くまちゃんがぽうっとなるから、そしたら頬っぺたを、パクって……」
だが既に彼女は両耳を引きちぎり、顔の真ん中から二つに引き裂いて中身を覗いていた。嫌いなものは入っていなかったらしく、すぐに食べ始める。席を立ってコーヒーを淹れ、戻ってくると、ぼくの分も両耳と顔を四つに分けて重ねられていた。何だか、無残だ……。
「着替えてよ。同じ服じゃ、嫌でしょ」
「別に……。帰るだけだから、どうでもいいわ」
「今日も休み?」
確か、サトミちゃんと同じ会社だと思ったんだけど。まあ、いいか。
「持ってきちゃったから、着てよ。気に入るかな」
彼女は立ち上がり、隣の部屋に入っていく。しばらくして出てきたときには、薄くお化粧も済ませていた。紺色のニットが、肌を引き立てる。別布でついた白く大きな襟とカフスが、ディオール風で品がいい。
「やっぱり、よく似合う」
薄手のジャストサイズは、女性を綺麗に見せると思う。隣に立って、後ろから腕を回した。生地ががさつくこともなく、ウエストを抱くことができる。
「イオナちゃん…、もう…、イオナって呼んでいい?」
「どうぞ。そう呼びたければ」
ちらりと目だけ動かして、彼女が返事をする。
「ねえ、電話番号。今度は、いつ逢える?」
「私ね、会社辞めるの。引越しも考えてるし、いい機会だから全部変えようと思ってる」
「……うん」
「サトミにはちゃんと教えるつもりだから、後で聞いて。名刺交換してたわよね」
「そう……」
言いたいことはわかった。ぼくには教えたくないってことだ。これ以上しつこくするのは、格好悪い。ツーピース一着は、授業料だ。それも、要らないと言うのに無理に渡したのは、ぼくだ。
「気をつけて帰ってね。店の名刺、渡しておくよ」
さりげなさを装って、ぼくはやっと、それだけ言った。
「ええ。ありがとう」
くるりと身体をひねると、イオナはぼくにキスをした。返す余裕なんかなくて、ぼくの唇に、ピンクの口紅だけつけて、それは離れていく。
「じゃあ」
唇に何かが貼りついてるみたいで、気持ち悪い。だけど、ぬぐいとることはできなかった。あの柔らかな感触まで、今すぐには忘れたくないから。ぼくはぼんやりと、そのまま立ち尽くしていた……。
数日後。
「若旦那、いるかい?」
「その呼び方は止めてよ」
テナントの募集や管理を頼んでいる、近所の不動産屋のおじさんが店に顔を出した。
「三階のオフィスね、小さい方。見てみたいって人が来たんだけど、あいにく、別の客も来て忙しくって」
「ぼくならどうせ、暇だって?」
「いや、一応、聞いてみてからとは思ったけど。それに第一、綺麗な女の人だよ。フリーライターとか、ゴーストライターとかって言ってた」
「全然違うじゃない。それに、ゴーストライターって……」
「まあ、ものを書く人だ。仕事場として使いたいらしいよ。ここなら、遊びに出るにも近いからとか」
「へえ。わりと若い人なんだ」
「そうそう。あ、すみません。お待たせしました。オーナーに案内してもらってください」
後ろを振り向いて、声をかける。ぼくもつられて、そっちを見た。
「ええ、よろしく」
店のショーウィンドウの向こう、ビルの入り口に立つ人影は、逆光で顔はよく見えなかったけれど、ぼくにはすぐわかった。アップにまとめたうなじを、白い襟が引き立てる。ぼくの贈った服を着た、イオナが立っていた。
「どうぞ。エレベーターはこちらです」
店の子に後を任せると、僕は彼女を連れて部屋に向かった。エレベーターから出て、廊下に誰もいないのを確認すると、ぼくは早口で聞く。
「どういうつもり? こんな悪戯しなくても、普通に遊びに来てくれればいいのに」
「仕事場を探しているのは本当よ。それに、手ごろな物件があるといって紹介してもらったのも偶然」
嘘つき。でも、本当に、本当だろうか。それなら……。
「イオナに毎日逢えるなら、ただでいいよ。その代わり……」
「嫌よ、交換条件なんて。だったらちゃんとお家賃払って、気持ちよく使うわ。それに家賃だけじゃ、中途半端じゃないの。だいたい、この服だって可愛いけど、どうせなら靴もバッグも合わせて欲しかったわ」
「光熱費通信費その他は全部、込みでいいです……」
「あ、そう」
素直に受けられてしまった。本当に、提供しなきゃいけなくなったようだ…。
それでもいいや。別に、生活に困っているわけじゃない。こんな近くに、イオナが来てくれたことの方が大事だ。気を取り直して、ドアの鍵を開ける。
「狭いけど、こんな感じ」
青山の中古家具屋で買ったイタリア製のデスクと、来客用のソファにテーブル。洗面所に、お湯を沸かす程度の小さなキッチン。
「家具類はとりあえず、ぼくが買って並べただけ。これでいいなら、本当に来てよ。あ、ところで仕事って……?」
「そうね。何かするわ」
イオナはそっぽを向いて言った。やっぱり。仕事場探しなんて、思いつきで口にしたのか。ぼくは笑いながら、デスクの前に立つ彼女を押した。
「なあに?」
「また逢えて嬉しいよ」
「そう?喜ぶほどのことじゃないわよ」
素っ気なく言われても、別に構わない。いいよ、きみはそんな女だ。押されてデスクに腰掛ける形になったイオナを、ぼくそのまま押し倒す。予想外のことではないのだろう。大人しく横たわった彼女を抱いて、唇を重ねた。ボタンを外せば、白い肌にたどり着く。続きをしたいけれど、今は無理だ。しかたなく手を離し、立ち上がった。
「いつから来るの?」
「そうね、明日からでも」
「ぼくとは、いつ逢ってくれる?」
「いつでも会えるわ。ここに、顔でも見に来てくれれば」
「意地悪だね。二人で一緒に出かけようよ」
「じゃあ、月に1回くらい」
「人でなし!」
「他に、29回も他の女の子とデートできるじゃないの。私は、30人の中の1人でいいわ」
もう何も言わずに、身を起こしたイオナに、もう一度キスをした。デスクに座ったかたちの彼女を強く抱くと、すっと両脚を開く。ぼくの身体を軽く挟むようにして、堪らなくエロティックだった。こらえきれずに脚を撫で上げる。くそう…、こんなところじゃなければ…。
イオナはくすくす笑って、唸っているぼくの腕から逃れていった。
「じゃ、帰るわ。そうそう、私のことは、これからは先生とでも呼んでね」
「ふふっ。もの書きの先生か。二人のときは?イオナでいいの?」
「呼びたかったら、それでもいいけど……。本名じゃないかもしれないわよ」
「え?」
「いいオンナ、ってこと。あのとき、思いつきで言っただけ」
「……」
「だから、サトミが笑ったの。でもまあ、大したことじゃないわね」
イオナ、いや、彼女はデスクから降り、さっさと帰っていく。ちゃんと賃貸契約を交わして本名を知るチャンスを逃してしまったことを、ぼくは後悔した……。
だけど。
これからだって、チャンスはある。いつの間にか、彼女に本当に惹かれているようだ。
3話目にして、ヒロインの名前が名無しに戻ってしまったのでした。
サンローランの限定Tシャツ…表参道ヒルズ店オープンの限定50枚・36750円。