12 JASMINE WOMEN(ジャスミンの花開く)
少し、前のこと。
タクシーで病院に戻ってきた女は、馴れた足取りでエレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。結局、何もできなかったと思う。目的があった訳でもないけれど。
弱り果てて泣いていても、強がり着飾っていても、どうせ死ぬんだ。開き直ったら、少しは元気が出たので、今日は化粧をして街に出てみた。ついでに、借りているあの部屋に行ってみた。もちろん、彼と、顔を合わせることになるとは思っていたが……。
店には、見覚えのある、彼の友達の美容師もいた。相変わらず馴れ馴れしく近づいてきた。どこか気弱な自分が伝わったのか、その男なりの励ましが感じられて、どうしてか笑えた。もちろん、当人には何の興味もないが。そのうちにヒバリは来るし、面倒になって帰って来てしまった。
「話したかったな」
ポツリと呟く。普通に、接したかった。
ここにいれば、あのひとが優しくしてくれる。泣き言を言っても、辛抱強く諭してくれる。もう、惹かれ始めているのだろう。夜も側にいてくれれば……、抱いてくれれば、眠れる。だけどそれは、自分が『可哀想』だからだ。死にそうだからだ。そして、データが残るからだ。でなかったらきっと、あのひとにとっては、何の価値もないだろう。
だから……、彼に我がままを言って、困らせて、笑って帰ってきたかった。迷惑なのは分かってる。だけど、どうせもう死んでしまうのだから、少しくらいは許してもらえると思う……。
本当は、誰にでも脚を開くような女ではない。派手に装ってはいても、根本は変わらない。誰か一人に、心を許して甘えていたい。この身体に何のトラブルもなかったら、あんな、気軽に話ができる、彼のような人と楽しく過ごしたかった。
「誰かを困らせた、罰が当たったんだわ」
ほんの悪戯のつもりで始めた、ネット上のファンド。最初はただの取引だったが、つい出来心で、他人のIDやパスを類推し、試しに入れてみたら通った。なり済ますことはなかったが、何をしたいのかは分かった。自分は、その逆を張ればいい。パスワードクラックだけでも、犯罪だとは気づいていたけれど、面白かった。そして、同じ『趣味』の者もたくさんいることも知って、それはそれでまた面白くて……。いつでも止められるように、OLの仕事は辞めなかった。楽しいけれど、のめり込みたくはなかったから。知らぬ間に増えた通帳の残高を眺めていたら、何だか身体がだるくて、肘に違和感を覚えた。念のために行った医者から、次々に大きな病院を紹介されて……、ここで、あのひとに現実を告げられたんだった。
欲しいものが好きなだけ買えて、楽しく暮らせるお金を手に入れたはずだったのに。先が短すぎて、文字通り、一生かかっても使いきれないなんて。絶望していた自分に、どうせなら、データを残してくれないかと、あのひとは言った。それまでは、病院の特別室でのんびり暮らしてくれていい。新薬の治験をさせて欲しい、傷みを抑える処置も必ずすると言った。
会社は辞めることになり、後輩の郷美と出かけた先で彼に出会って、最後のつもりで遊んだけど、病院は退屈だから、つい甘えが出て、また会いに行ってしまった……。そして結局巻き込んで、今でも迷惑をかけている。自分なんか、早く、いなくなればいいのかもしれない。
ここは、天井の高い病院の八階だ。もし飛び下りれば。そう思って窓際に行くが、内側の手すりが邪魔で、抜け出ることは難しい。よじ登るなり、椅子でも何でも使って、力ずくで割ってしまえば飛び出せるかも……。だがもう、それだけの腕力も、気力もない。手すりに縋って、そのまま床に座り込む。涙がぽろぽろ溢れ出て、もう止まらなかった。
「失礼します。回診のお時間です。あら?」
軽いノックの後、看護師が回診車を押して入ってくる。その後ろには、主治医である院長が続いていた。
「どうなさいま、」
看護師の問いかけよりも早く、院長の男が窓際に歩み寄り、彼女を抱え起こす。
「どこか痛むのか?」
女はゆっくりと首を振り、顔を背けて呟いた。
「窓、開けて」
「息苦しい?」
「飛び降りる」
「そう言われて、はいそうですかと開ける馬鹿がどこにいる。我がままも程々にしなさい。あまり気分が良くないのだろう。だからそんな風に、」
「はなして」
だがもう抱き上げられ、ベッドに運ばれていた。靴だけ脱がされて、横たえられる。
「ロマンチックな状況ではないのが、ほとほと残念だがね。安定剤を打ってあげよう」
「いらない。もう嫌。楽に死なせて」
「駄目だ」
「いやっ!」
ヒステリックな叫び声に、医師も顔色を変える。女の腕を掴んで押さえつけると、後ろ手でベッド回りのカーテンを引きながら、彼女の上にのしかかった。
「外してくれ」
こちらを見てもいないが、自分に言われたのだと判断した看護師は、急いで回診車を引っ張って、病室を出た。この患者さんが、ある意味、特別なことはもう分かっていたが……。暴れるのを押さえるのなら、人を呼べと言うだろう。逆に、出て行けと言われた。病院とはいえベッドの上で、カーテンで隠して。やっぱり、これって……。
聞き耳を立てるつもりはない。ただ、このままナースステーションに戻れば、院長はどこへ行ったと聞かれるだろう。上手く答えられるようになるまで、少しだけ、ここで落ち着こうと看護師は考えた。
「どうしたの?」
急に声を掛けられ、ぎくりとして振り向く。そこには、よくここに出入りしている少年の姿があった。
「待って、ヒバリくん。今、院長先生が診察中なの」
「じゃあ、何でそれが外にあるの」
ヒバリの視線の先には、自分が引いて出てきた回診車がある。残して来れば良かったのかもしれない。だがその場合、今度は自分一人が外にいる言い訳を考えなければならなかっただろうし……。
「つ、使わないものも、あるから」
「いいよ。無理しなくて。こんなこと、多いの?」
まっすぐに見つめられて、首を振ってしまう。
「そっか。だから、困ってたんだ。ごめんね。……あの、クソオヤジ。よくも……」
言葉の途中で、表情が歪む。少年らしい純粋さで、父親の行動が許せないのだろう。
「お姉さん、帰ってる? あのね、」
ガンガンとドアを叩き、返事も待たずに開けて、話しながら入っていく。だが、その言葉はすぐに止まった。
「何、してるんだよ?」
ベッドを囲むカーテンから、医師が姿を現す。眼鏡とネクタイが外れている。髪も乱れていた。
「……診察の邪魔だ。出て行け」
「どこが? 看護師さんも追い出して、シャツに口紅までつけて」
「黙れ」
「さっき会ったとき、お姉さんは元気だった。いつもみたいに綺麗にお化粧してた。あんたに診て貰うほど、具合なんか悪くなかったはずだよ」
「急変したんだ。口紅は、介抱したときについたんだろう。とにかく、」
「嘘つき! 自分の立場を利用して、乱暴しようとしたんだろ! お姉さん、大丈夫なの?」
そう言って、少年はベッドに近づいた。だが、カーテンを開ける勇気はない。もし、最悪の想像が当たっていたら。それはかなり確率が高いけれど、頭がおかしくなりそうだ……。
「出て行けと言っている」
弱気を見澄ましたような父親の言葉に腹が立って、勢いで、カーテンに手を伸ばしたが……。
「もう、止めてよ」
女が出てくる。ブラウスのボタンが三つか四つ外れ、下着が見えてはいたが、その先にはまだ進んでいなかったようだ。
「出てって。院長先生も、ヒバリも」
「駄目だ。せめて落ち着くまで」
「こんな男と二人きりにさせられないよ」
「じゃ、私が出て行くわ」
ドアの方を見たが、その間には彼らがいる。窓を振り向き、駆け寄った。今なら、意地の力で飛び出せそうな気がする……。
「止せ! 薔子」
「止めて!」
叫びながら、父子が走ってくる。窓を開け、身を乗り出した、ところで捕まった。
「放してよ!」
もう、目的が何だか分からなくなっていた。とにかく、ここから飛び出さなければならないと思った。二人を押しのけ、手すりによじ登る。騒ぎに気付いた看護師が、とっさに非常ボタンを押す。
すぐに大勢の者が駆け付けたが、もう、女は大人しくなっていた。
「頼む。もう無茶は止めてくれ、薔子。頼むから……」
座りこんだ医師がうずくまった女を抱き、囁くように繰り返す。涙ぐんだ赤い目に、他の者は遠慮を覚え、そのまま出て行く。
「……どうして?」
やっと言葉が返って来て、男は表情を緩め、額に落ちた髪を撫でて直してやった。
「君を、失いたくないんだ」
「私なんか、いてもいなくても変わらないわ」
「何度言えばいいんだろうね。愛しているよ」