13 THE HUMAN STAIN(白いカラス)
非常ベルに驚いたぼくらは、イオナの病室まで、廊下を走った。褒められたことじゃないけど、非常時だし。彼女の病室の前には、ナースステーションから駆け付けた看護師さんたちが何人もいて、事務職員らしい男性の姿もあった。その中に、ヒバリを見つけて声をかける。
「どうしたんだ? 彼女に、何か」
こっちを見たヒバリの瞳が濡れていて、嫌な想像で胸苦しくなったが……。
「ううん。あの男が見てるから大丈夫。ねえ、お願いがあるんだけど」
「あの男、って、お前の父親だろ? どうしたんだ。で、お願いって?」
「家出したいんだけど、行き先がないんだよね。今晩泊めて」
隣でケンジが噴き出した。さすがにぼくも呆れる。
「あのなあ。家出ってのはお泊り体験じゃないんだから……。まあ、一晩くらいならいいけど、喧嘩でもしたのか」
「……お姉さんが、窓から飛び降りようとして」
「何だって!」
「ぼくやあの男や、皆が止めたから大丈夫だったけど。あいつは……、お姉さんを名前で呼んで、抱きしめて泣いてた。びっくりしたよ。血も涙もない奴だと思ってたから」
「名前、か……」
当然だろう、医者なんだから。カルテには彼女の本名が載っているはず。だが、ぼくとの致命的な差のような気がした。
「うん。ちゃんと聞きとれなかったけど、子のつく名前だった。それで、何だか可哀想になって、出てきたんだ。だけどやっぱり、許せないから。もしも家に来てくれても、ママなんて呼べない。だから、僕が出て行く」
「お前の父親が、イオナを本気で好きだって分かっただけで、何も、再婚するとか決まった訳じゃないだろ。彼女の意思もあるだろうし」
「気休めをありがとう」
「嫌なガキだな。泊めてやんないぞ」
「でも、今日だけは嫌だ。顔を合わせたくない。もしも帰ってこなかったら……、それも嫌だ……」
「お子様二人で、仲良く失恋パーティでもしてろよ。俺は付き合わねーぞ」
「別に頼んでないよ。来いよ、ヒバリ」
「呼び捨てにするなって言っただろ」
ぼくらが歩きだしたとき、館内に、事務局長だという男性の声で放送があった。非常ベルが鳴ったが、問題はないので安心してくれというものだった。
結局、ケンジも交えて、ぼくらはケータリングの夕食を三人でとった。
「いつもこんな食事なの?可哀想に」
「目を泣き腫らしたガキと一緒に、外で飯なんか食えるかよ」
「そうだな。とうとう、男に興味を持ったのかと思われる」
ケンジが混ぜっ返し、ぼくは鼻を鳴らして、ビールの缶を開けた。
「どっちにしても、誰もご飯なんか作ってくれないんだ?」
「お前ん家だって、家政婦さんだろ。つか、近いってば近いけどさ……、ぼくより、実の母さんのとこ行けよ。前に、父親はバツイチだって言ってたじゃないか」
何の気なしに言ったが、ヒバリは一瞬表情を強張らせた。ケンジが思いきり、ぼくを肘でつつく。再婚しているのかもしれない。拙いことを言ってしまった、と思う。それでも、ヒバリは口を開いた。
「あの男が一度結婚した相手と、僕の母親は違うんだよ。まだ若いときに、病院の看護師に手をつけたんだって。本人は夢中だったらしいけどね、もちろん、結婚なんか許してもらえる訳なくて」
15歳の子供に、ぼくは、何てことを言わせてるんだろう。だが、ヒバリの言葉は続く。
「パパは、ううん、あの男は外国に留学させられて、その間に僕が生まれた。おじいちゃんが、女の人に無理にお金を渡して、僕を取り上げたんだ。戻って来たパパが、ああ面倒くさい、とにかくあいつがその人を探したけど、見つからなかったって。写真も何もないし、僕は、産みの母親の顔も知らない」
「……悪かった。もういい」
「知らないで言ったんだもの。島村さんじゃ、悪気もないだろうし。おじいちゃんやおばあちゃんは、その人のことは気に入らなかっただろうけど、僕はすごく可愛がってくれたから、辛いなんて思ったこと、あ、一回だけあるな。パパが何かどうしても断れなくて、結婚するってことになって。僕は三つか四つくらいだったのかな、おじいちゃんたちに、新しいママが来てくれるよって教えられて、何度も何度も練習して、ママって呼んだんだ。そしたらその人が、文字通りドン退きして……。当たり前だよね。好きでもない男と結婚する羽目になった上に、いきなり知らない子供もいるんだもの。冗談じゃないよね」
「ヒバリ」
「そしたらパパがすごい怒って、そのまま実家に帰しちゃった。で、二度と戻ってこなかったんだ」
「ごめん。本当に」
ヒバリがやっと話を終えてくれて、ぼくは頭を下げた。
「ううん。言いかけたことだから。きっと、パパは僕の母親や僕のことを、大切に思ってたんだろうし。だから、誰かを好きになったのは、お姉さんがやっと二人目だと思う。もちろん、譲るつもりなんかないけどね」
「まあ……、何だ。飲め」
ケンジが無理にビールなんか飲ませたら、ヒバリはすぐに眠ってしまった。
「こいつの父親って、あいつが惚れそうな奴か?」
「……そうだね。ぼくにとっては嫌な男でしかないけど。医者で独身で、あんな街中の大きな病院の院長で、隣り合った敷地にお屋敷があったら……。顔は、ヒバリと似た感じだよ。悪くない。白衣の下も、大抵はブランド物だ。子供だって、もうこんなに大きいんだし、関係ないってば関係ない上に、ヒバリ自身が、彼女をめちゃめちゃ慕ってるからな」
「六本木のペンシルビルのオーナーじゃ、敵わないってか?」
「ふん」
「今頃、どうしてんだろうな。でもよー、いくら夢中だからって、息子が家出したら、女の部屋に居座っちゃいねーだろー?」
「それがさ……、さっき、いったん家に寄っただろ?」
着替えを取りに戻ったヒバリは、ちゃんと置き手紙と、ぼくの電話番号まで書いて、家政婦さんに渡したらしい。
「既に、家出じゃないな。話の途中で、あの男から、普通にパパになってたし」
「うん。多分、ちゃんと連絡も行ってるだろう」
「……だけど、あいつにはお前の方が似合ってる」
「何だよ急に」
「お前みたいなお人好しを振り回してた方が、あいつらしい。年上の男に甘えて縋るなんて、らしくねーよ。ま、一番似合うのは俺の隣だけどな」
「最後は余計だよ」
ビールの缶を振って空なのを確かめたケンジが、また新しいものを取り上げた。
「それより、どこが悪いんだ? あのフロア、普通の病室じゃなかったよな」
「ぼくなんかじゃ、分からないけどね。本人は、あと一年ももたないって思ってる。あの医者が、最初にそう言ったらしい」
「え……?」
「どうせ死ぬなら、モルモット代わりに実験治療に協力してくれってことになって、病院に入ったんだってさ。ヒバリは元々あの病院によく出入りしてたらしくて、イオナが若くて綺麗だから憧れたんだと思う。でも、今は医者がもう、絶対に治すんだっていう気になってるんだけど、彼女は無気力なままなんだ。ここには気晴らしに来てたんだけど、しばらく顔を見せてなくてね」
「でも今日は、お前に逢いに来たんだろ」
「ケンジが茶化すから、すぐに帰っちゃったじゃないか。病院で、具合悪くなったのかな。飛び降りようとしたなんて、余程、辛かったんだろうか……」
「可哀想だな」
「うん」
「手は出したのか?」
「……ここに、二度、泊まった。でも、二度目は先に寝られちゃって、朝になったら……」
「どうした?」
「気分が悪いって、血を吐いた。救急車を呼んだら、あの病院に連れて行けって言って……そのまま……」
あの時のことを思い出すと、今でも、目の前が真っ白になる。震えているぼくの肩を、ケンジが押さえた。
「落ち着け。もうあいつは元気だろ。今日だって、」
「うん……」
「つか、一回は手を出したってことかよ! くそー、頭きたー。で、どうだったんだよ?」
「どうもしない。もう忘れた」
もしも万一、イオナがあの医者を選ぶなら、ぼくは全てを忘れる義務がある。だからぼくは、そう答えた。ケンジは頭を抱える。
「お人好しすぎて、泣けてくるな。医者は治すのが仕事だからな、治させてやればいい。あいつが元気になったら、横からかっさらえ。お前がグズグズしてるときは、俺がいただくから安心しろ」




