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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
特殊情報収集班:任務

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傷を見る


 店を出てからも、三人はすぐには施設へ戻らなかった。


 リヒターはさっきまでより自分から店を覗くようになっていた。何かを見つければ二人にも声をかけ、マティアスが足を止めれば同じものを見る。

 街へ出た時には二人についていくだけだったことを思えば、少しずついつもの感覚が戻ってきているのだと自分でも分かった。


 マティアスも、その変化には気づいていた。施設を出た直後より会話が増え、広場では笑っていた。だからこそ、途中で何度か首から肩を庇っているのが見えても、すぐに帰ろうとは言わなかった。

 傷の確認を理由に、ようやく自分から楽しみ始めた時間まで終わらせたくなかった。


 ヨナスも同じように考えていたらしく、痛みについては触れないまま次に見る店の話をしていた。

 それでも、少し人通りの少ない道へ入ったところで休めそうなベンチを見つけると、三人とも自然にそちらへ向かった。


「傷、まだ痛みますか」


 座ってからマティアスに聞かれ、リヒターは隠す必要もないのでそのまま答えた。


「ええ、少し」


「朝より悪くなってるとかは?」


「それはないわ。動かすと気になるくらい」


 リヒターにとっては、それ以上気にするほどの状態ではなかった。傷が痛むことも、身体を動かせば引かれることも珍しくない。処置は済ませてあり、悪化もしていないなら問題はない。


 マティアスも、本人がそう判断しているなら今すぐ帰らせるほどではないと思った。ただ、さっきから何度も同じ側を庇っている以上、本人が言う「少し」と、自分たちが想像する「少し」が同じかは分からなかった。


 少しの間、次にどこを見るかという話をしていたが、会話が途切れたところで、マティアスは昨日から聞けずにいたことを口にした。


「昨日、何があったのか聞いてもいいですか」


 リヒターはすぐには答えなかった。

 今朝までなら断っていたと思う。ヴェルナーと話した後も、自分から誰かに説明したいとは思わなかった。

 それでも二人と食事をし、街を歩き、普段と変わらない話をしているうちに、昨日のことを思い出しても自分までそこへ戻されるような感覚は薄くなっていた。


 マティアスも返事を急かさなかった。聞きたいのは事実だけではない。昨日、リヒターがあれほど変わった理由を知りたかったが、本人がまだ話せないなら、それ以上踏み込むつもりもなかった。


「全部は話せないけど、それでいいなら」


「はい」


 ヨナスも、それで十分だと思った。リヒターが自分から話せる範囲を決めた以上、その外側まで推測で埋める必要はない。


「ハッシュヴァルドは、私があの場に残るなら口を出すなって言ったの。最初はそのつもりだったわ。エレジは自分で答えてたし、あの時点では危険なことをされてたわけでもなかったから」


「必要がなければ何もしないつもりだったんですね?」


「そう」


 あの場で自分がすべきだったのは、エレジを一人にしないことだった。それ以上は、本人が答えられる限り任せるつもりでいた。


「何をしたんですか」


「エレジの耳を塞いだの」


「耳を?」


「ええ」


 二人は昨夜、鞭の音とエレジの大きな声を聞いて共有スペースへ戻っただけで、そこへ至るまでのやり取りは知らなかった。


「必要だと思ったからですか」


 リヒターは首を横に振った。


「違うわ。本当に必要だったわけじゃないの。エレジはまだ話せてたし、あの瞬間に何かされるわけでもなかった」


 マティアスには、その答えの方が意外だった。

 リヒターなら、必要だから動いたと説明する方が簡単だったはずだった。昨夜の彼女は傷を負ったあとでさえ、まずエレジをどう眠らせるかを決め、自分のことは後回しにしていた。

 それを今、あの時の行動は必要に迫られたものではなかったと自分から話している。


「じゃあ、どうして?」


 リヒターは、自分でもそこを何度か考えていた。


「身体が動いたのよ」


「考える前に?」


「そうね」


 ハッシュヴァルドの問いが少しずつエレジの答えを狭めていることには気づいていた。それでも、それだけならまだ口を出さなかったと思う。耐えられなくなったのは、その先だった。


「あいつの言葉なんて、あれ以上聞かせたくなかったの」


 二人とも、すぐには何も言わなかった。


「手を外せって命令されたけど、外さなかった」


 ヨナスはそこで、昨夜聞いた鞭の音がどこへつながるのか分かった。


「それで打たれたんですね?」


「そう」


「昨日の傷が、その時の?」


「ええ。腕か肩を狙ってたんだと思うけど、エレジの前へ身体をずらしたから、首の付け根に入ったの」


 マティアスは、共有スペースへ戻った時に見た傷を思い出した。襟際の布が裂け、首の付け根から肩へ赤い傷が伸びていた。あの時は、何をした結果そうなったのかまでは分からなかった。


「中尉が前に出たのは、そのあとですか」


「ええ。もう一度やろうとしたから、エレジが私の前に入ったの」


「だから、あんな声がしたんですね」


 昨夜聞こえた「リヒター」という声は、最初に打たれた直後だった。そのあと三人が共有スペースへ戻るまでの間にも、エレジはハッシュヴァルドの前へ立っていたことになる。


「それで、情を持ったって言われたの。対象に情を移すからそうなる、以前のお前ならそんなことはしなかった、弱くなったって」


「大尉は、どう思ってます?」


 ヨナスは、ハッシュヴァルドの評価が正しいかどうかではなく、リヒター自身がどこまでを認めているのか知りたかった。


「情を持ったってところは、間違ってないと思う」


「中尉のこと、大事ですもんね」


「ええ」


 リヒターにとって、そこにはもう迷いがなかった。

 ヨナスも、その答えを聞いても意外だとは思わなかった。リヒターが以前からエレジを気にかけていたことは知っている。


「それで弱くなったとは、俺も思わないです。大事に思う人がいることと、判断できなくなることは同じじゃないでしょう。

 昨日、大尉が中尉を庇ったのも、何も分からなくなって動いたわけじゃない」


「考える前に身体は動いたけどね」


「そこはそうです。でも、そのあと何をしてるかまで含めれば、弱くなったとは思いません」


 ヨナスの言葉に、マティアスも同じように考えた。リヒターがエレジを庇った瞬間だけを切り取れば衝動だったかもしれない。

 けれど、その後は傷を負ったままエレジの夜の過ごし方を決め、カイルへ託し、自分が一人になることまで選んでいる。少なくとも、判断そのものを失っていたようには見えなかった。


「俺も、弱くなったとは思わないです」


 マティアスがそう続き、二人ともそれ以上は言わなかった。

 慰めるために否定している感じがしないことが、リヒターにはありがたかった。


 今朝のヴェルナーは、長く自分を知った上で似たことを言った。今いる二人は、ここへ来てからの自分を見た上で同じところへ辿り着いている。

 その違いも含めて、リヒターは静かに受け取った。


 姿勢を変えた時、首の付け根から肩にかけて傷が引かれた。痛みを隠すほどのことでもないと思っていたが、マティアスには表情の変化より先に、傷のある側を動かさなくなったことが分かった。


「やっぱり痛むんですね」


「少しだけよ」


 ヨナスは、朝から本人が自分で処置したままになっていることも気になっていた。リヒターなら必要な処置はしているはずだが、自分で見えにくい位置だったことも覚えている。


「傷、見せてもらってもいいですか」


 リヒターも、ヨナスが傷の状態を確認したくて聞いていることは分かった。ただ、傷を見るには服をずらすだけでは足りない。


「服の下よ。脱がなきゃ見せられないわ」


「はい」


 返事はすぐに返ってきた。

 ヨナスも、自分が何に答えたのかは分かっているはずだった。リヒターは傷そのものを見られることには何も感じなかったが、二人の前で服を脱いで肌を見せるとなれば別だった。


 以前、二人が自分を女として意識したことは分かっている。自分も、それを嫌だとは思っていない。


「……本当に見たいの?」


「見せてくれませんか」


 言い直してもヨナスは同じだったが、リヒターは隣にいるマティアスのことも考えた。


「今、三人でいるのよ。ヨナスだけに聞かれて、ヨナスだけに見せるのも変でしょう」


 マティアスはすぐには答えなかった。

 傷が気になっているのは自分も同じだった。ただ、リヒターが服を脱ぎ、自分にもその身体を見せるのだと考えると、それだけの話ではなくなる。

 以前なら、こういうところで冗談を言って逃がしていたかもしれないが、今はそうする気にならなかった。


「俺にも見せてほしいです」


 マティアスがそう答えたのがリヒターは意外だった。けれど、もう断る理由はなくなった。


「……わかったわ。でも、ここじゃ無理ね」


 傷は首の付け根から肩にかけてある。襟を少し開くだけでは全部見えないし、街中で服を脱ぐわけにもいかない。


「どこか場所、取ります?」


「ホテルとかですか」


 マティアスが言うと、三人とも少しだけ言葉が止まった。

 傷を見るためなら、それで十分説明はつく。ただ、この三人でホテルへ行くことに、ほかの意味がまったくないとは誰も思わなかった。


 ヨナスは、だからといって今の返事をその先まで広げるつもりはなかった。リヒターがいいと言ったのは、傷を見せることだけだ。マティアスも同じらしく、冗談は言わなかった。


 リヒターは二人の反応を見て、少し安心した。意識していないわけではない。それでも、勝手に先を決めないことは分かっている。


「そうしましょうか」


 それ以上の意味を確認せず、三人は近くのホテルへ入り、部屋を取った。


     *


 部屋へ入ると、リヒターは上着を脱いだ。

 ここまで来てためらう理由はなかったが、シャツのボタンへ手をかけた時には、街にいた時より二人の視線を意識した。


 傷を見せるだけなら、これまでにも何度もある。必要なら服を脱ぐことにも慣れていた。けれど、今は相手がこの二人だった。


 リヒターは上のボタンを外し、傷のある側をはだけさせた。首の付け根から肩へかけては細長くガーゼが当てられており、その下に傷が隠れている。

 ヨナスは近くから固定の状態を見た。


「これ、外してもいいですか」


「いいわよ。替えは持ってるから」


 ヨナスは端からゆっくり固定を外した。皮膚を引かないようにガーゼを剥がすと、首の付け根から肩へ背中側に斜めに走った傷が現れた。赤みはまだ残っており、裂けたところは処置されているものの、鞭が当たった線ははっきり分かる。


 マティアスは昨夜も、襟際から首の付け根へ伸びる傷を見ていた。ただ、服の隙間から見えていた範囲だけだった。こうして全体を見ると、思っていたより長い。


「これで少しなんですか」


「動かさなければね」


「十分痛そうですけど」


「痛くないとは言ってないわ」


 ヨナスは傷の周囲まで確かめた。腫れは強くなく、処置も問題ない。出血ももう止まっており、新しく悪化している様子はなかった。


「処置は大丈夫そうです」


「だから言ったでしょう」


「はい。でも、見てよかったです」


「安心した?」


「それもあります」


 ヨナスは外したガーゼをまとめ、リヒターが持っていた替えを受け取った。傷へ直接触れないよう位置を合わせ、首の付け根から肩へ沿わせて新しいガーゼを当てる。


 固定するには、さっきより近くまで寄る必要があった。ヨナスの指が肩のすぐそばを通り、リヒターは傷の痛みとは別に、自分が今この距離で肌を見せていることを意識した。


 マティアスも、処置をしている間は傷の方を見ていた。けれど、ガーゼが新しく固定され、もう確認する必要がなくなってからも、すぐには視線を外せなかった。


 リヒターは見えにくいところまで確認できるようにずらしていたシャツを、まだそのままにしていた。新しい傷の下には、色の薄くなった古い痕も見えている。


「……その、下にあるのも昨日のですか」


「違うわ。昔の」


 リヒターは何でもないことのように答えた。

 ヨナスは、その傷の少し下の位置にも別の痕があることに気づいた。肩を出しただけでこれだけ見えるなら、服の下にもあるのだろう。


「他にもあるんですか」


「あるわよ」


「結構?」


「数えたことないわ」


 二人とも返事が止まった。

 リヒターには、その反応の方が不思議だった。傷があることは昔から知っているし、治ったものをいちいち気にしてはいない。脇腹にも背中にも腕にも残っているが、普段それを意識することはほとんどなかった。


 マティアスも、リヒターが無傷だと思っていたわけではない。ただ、肩を少し出しただけでいくつも見えるほどだとは考えていなかった。

 仕事の内容を知っていることと、その結果を実際に身体の上で見ることは違った。


「何?」


「いや……思ってたより、あるんだなって」


「大尉、自分では気にしてないんですか」


「治ってるものを気にしても仕方ないでしょう」


 強がっているようには聞こえなかったので、マティアスもそれ以上は聞かなかった。


 ヨナスも、古い傷そのものを問題だと思っているわけではなかった。ただ、本人にとっては何でもない痕の一つ一つに、それができた時がある。そのことを考えると、すぐに視線を外す気にはなれなかった。


 リヒターは、二人がまだ自分の肩を見ていることに気づいた。

 新しい傷なら、もう確認は終わっている。それでも二人の視線は残っていた。

 傷を見られることは何とも思わない。けれど、肩を出したまま二人の前にいて、そこへ視線を向けられていることは、もう傷だけの話ではなかった。


 マティアスもそれを意識し始めていた。

 古い痕があるからではない。服の下に隠れていた身体を、自分に見せるとリヒター自身が決めたことの方が気になった。


 ヨナスは、どこまで見ていていいのかを考えた。傷を見せてほしいとは頼んだが、それ以外まで好きに見ていいとは言われていない。

 そう考えたことで、自分が傷以外も意識していることに気づいた。


「もう、いいのよね?」


 傷の確認はもう終わっている。あとは服を戻せばいい。それでも、リヒターはすぐにはそうしなかった。

 二人が自分を見ていることも、その意味が少しずつ変わっていることも分かっていた。



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