第37話 証明不能な「潔白」
龍園蓮の、あの弁明は、目に見えない棘のように、綾辻澪の心に、突き刺さっていた。
抜くこともできず、飲み込むこともできない。
彼女は、彼を、完全に信じることは、できなかった。彼の署名がある、あの書類は、鉄壁の事実だ。
しかし、彼女は、もはや、以前のように、彼に、純粋な憎しみを、抱くことも、できなかった。
彼の言葉は、証明はできないが、しかし……反証することも、できなかった。
それが、彼女を、極めて、矛盾した状況に、陥らせていた。
彼女は、ひとまず、蓮への猜疑心を、脇に置き、全ての精力を、次の目標に、集中させることにした——
橘拓海。
蓮が黒幕であろうとなかろうと、拓海という、自らの手で彼女を地獄へと突き落としたこの死刑執行人は、最も、悲惨な代償を、支払わなければならない。
そして、彼女の婚約解消の申し出は、この「狩り」の、第一歩だった。
彼女が望んでいたのは、単に、この最低男を、振り払うことではない。彼が、最も、得意満面の時に、彼を、容赦なく、泥の中に、踏みつけることだ。
・・・
「ネクスト・イノベーション」社長室で、拓海は、焦燥に駆られて、行ったり来たりしていた。
綾辻グループの株主総会以来、彼の父である橘は、全ての株式を凍結され、会社も綾辻からの債務の取り立てに遭い、橘家全体が、巨大な財務危機に、陥っていた。
そして、彼を、さらに苛立たせていたのは、澪の、あの、突然の、一方的な、婚約破棄だった。
「あの女!一体、何を考えているんだ?!」拓海は、机に、拳を叩きつけた。「自分が、もう安泰だと思って、俺を、蹴落とせるとでも、思っているのか?!」
彼の秘書が、傍らで、戦々恐々としながら、言った。「社長、今、巷では、社長は……社長は、もはや、お嬢様に、相応しくないと……」
「ふざけるな!」拓海の目が、赤くなった。
ちょうどその時、彼のスマートフォンが、鳴った。
見知らぬ番号だった。
彼は、不機嫌に、電話に出た。「誰だ?!」
電話の向こうから、声を潜めた、謎めいた男の声が、聞こえてきた。「橘社長、取り戻したいとは、思いませんか……あなたに、相応しい、全てを?」
「どういう意味だ?」
「あなたが、『制御可能核融合』の新エネルギープロジェクトを、お持ちであることは、存じております。しかし、核心技術と、始動資金が、不足している。そうでしょう?」その声は、誘惑に満ちていた。「私がお助けしましょう。私が、技術サポート一式を、ご提供するだけでなく、五十億の資金も、注入いたします。」
拓海の心臓が、激しく、跳ねた!
「制御可能核融合」は、彼の、奥の手だ。彼が、起死回生を狙う、最後の切り札だ!この男は、どうやって、それを知ったのか?!
「お前は、一体、誰だ?条件は、何だ?」拓海は、警戒しながら、尋ねた。
「私が誰であるかは、重要ではありません。」その声は、笑った。「私の条件は、簡単です……綾辻グループを、あなたと、綾辻澪の、結婚式で、破産を、宣言させること。」
拓海の瞳孔が、急激に、収縮した!
・・・
綾辻グループ、社長室。
澪は、手にした、盗聴報告書を見て、その口元に、氷のように冷たい、弧を、描いた。
報告書には、拓海と、あの「謎の人物」の、全ての通話内容が、はっきりと、記録されていた。
これこそが、彼女の、いわゆる、「遊び方を変える」ということだった。
彼女が、自ら婚約を破棄したのは、拓海を、追い詰めるためだった。
彼女は、拓海の、あの、自惚れ屋で、無能な性格では、窮地に追い詰められた後、必ず、狂犬のように、手段を選ばず、起死回生の機会を、探すことを、知っていた。
そして、彼女は、とっくの昔に、彼のために、一つの「完璧」な、地獄へと続く、餌を、用意していたのだ。
あの、いわゆる「謎の人物」は、もちろん、彼女が、手配した者だ。
「お嬢様」と、彼女の目の前に立つ、腹心の秘書が、どこか、心配そうに、尋ねた。「この計画は、少々、危険すぎでは、ありませんか?万が一、橘社長が、本当に、あのお金と技術を、手に入れたら、我々は……」
「手に入れられはしないわ。」澪の口調は、平穏だった。「なぜなら、彼に電話をかけた、あの男は、間もなく、『事故』で、この世から、消えるのだから。」
彼女が望んでいたのは、ただ、拓海に、希望を手に入れたと、思わせることだけだ。
彼女は、彼が、この偽りの希望のために、自分の全てを賭け、狂ったように、綾辻を攻撃するのを、見たいのだ。
そして、彼が、まさに、成功しようとした、その瞬間に、再び、自らの手で、彼の全ての、幻想を、打ち砕くのだ。
これこそが、最も、残忍な、報復だ。
ちょうどその時、オフィスのドアが、ノックされた。
龍園蓮が、入ってきた。
彼は、机の上の盗聴報告書を一瞥し、そして、澪の、あの、興奮と憎しみで、わずかに輝く瞳を見て、その顔には、何の意外な表情も、浮かばなかった。
まるで、彼は、とっくの昔に、全てを、知っていたかのようだった。
「何か、お手伝いすることは?」と、彼は、単刀直入に、尋ねた。
澪は、彼を、見ていた。
この数日間、彼らの間には、この、奇妙な均衡が、保たれていた。
彼女が、布石を打ち、彼女が、計画を立てる。
そして、彼は、まるで、最高級の、「道具」のように、いつも、彼女が、最も必要とする時に、現れ、そして、最も正確な、助けを、提供する。
彼女が、口を開くことさえ、必要ない。彼は、彼女の全ての、意図を、推測することができるのだ。
この、暗黙の了解は、彼女を、驚かせ、また……抑えきれず、一筋の、依存心を、生じさせた。
「あの、いわゆる『謎の人物』」と、澪は報告書を指差した。「彼を……完全に、消していただきたいのです。そして、私に関する、いかなる痕跡も、残さないように。」
これは、汚い仕事だ。
そして、蓮に対する、もう一つの、探りでもあった。
蓮は、少しも躊躇することなく、頷いた。「よろしいでしょう。三十分後、彼が『交通事故に遭った』というニュースが、あなたの元に、届きます。」
彼は、それを、あまりにも、あっさりと言った。まるで、「コーヒーを一杯、買ってきて差し上げましょう」とでも、言っているかのようだった。
「それから」と、澪は、間を置き、目を上げ、彼の目を、まっすぐに見つめた。「橘拓海の、背後にある、あの技術の源泉と、資金の源泉……一体、誰なのか、知りたいのです。」
彼女は、疑っていた。前世で、まさに、この謎の勢力が、拓海の背後で、彼を支援し、最終的に、綾辻家を、万劫不復の深淵に、突き落としたのではないかと。
そして、蓮の、あの「弁明」が、彼女に、この勢力こそが、真の「黒幕」なのではないかと、疑わせ始めたのだ。
蓮は、彼女の、あの、探究に満ちた瞳を見て、初めて、その中に、一筋の……信頼の、萌芽を、見た。
彼女は、ついに、「調査権」の一部を、自分に、委ねる気になったのだ。
これは、良い兆候だ。
彼は、ゆっくりと、唇の端を、吊り上げた。
「仰せのままに、我が……女王陛下。」
彼は、踵を返し、その足取りは、落ち着いていた。
澪は、彼の背中を見つめ、盗聴報告書を握る手が、無意識に、固くなった。
彼女は、自分に、言い聞かせた。これは、ただの、利用だ、と。
彼女と、彼の間には、永遠に、利用と、被利用の関係しか、あり得ない、と。
しかし……
なぜ、彼が、先ほど、あの「仰せのままに」と言った時、彼女の、あの、とっくに氷のように凍てついた心が、竟に……一瞬、時を、止めたのだろうか?




