第30話 第一章終幕 未来を紡ぐ者たち
王都に戻ってから数日が経った。
戦の喧騒が嘘のように、街は静けさを取り戻し、春の光が石畳を柔らかく照らしている。
アリアは、テオドールの私室にいた。今日からまたこの部屋で家庭教師を再開する。
「……変わらないな、この部屋は」
小さく微笑みながらそう呟くと、ドアの向こうから静かな足音が聞こえてきた。
「お待たせしました、アリア先生」
扉が開かれ、テオドールが姿を見せた。
凛とした面差し。けれど、その瞳はどこか柔らかく、懐かしいものを見つめるような温かさを帯びている。
アリアは自然と一礼していた。彼に対する敬意は、戦を経た今も、いやむしろそれ以上に強くなっていた。
「また、こうして先生として来てもらえて嬉しいよ」
「こちらこそ。今日からまた、どうぞよろしくお願いします」
席についたテオドールの前に、アリアはそっと手をかざした。
静かに息を整え、言葉を発する。
「では、本日は“歴史と戦略”をテーマにした授業から始めましょう」
その声と同時に、空間に淡い光が走る。
ふわりと、空中に白い本のような像が浮かび上がった。
「“思念写本”です。私の記憶を視覚化し、教材として再構成したものです」
光に浮かぶページが自動でめくられ、そこには古の戦場図や兵の配置、英雄たちの言葉が美しく描かれていく。
「今日お見せするのは、異世界の英雄“ハンニバル”の戦法です。敵よりも兵数で劣りながら、巧みな包囲陣で勝利を収めた戦術の一例ですね」
テオドールは目を見開いて見入っていた。
そこに映し出された図は、まさに先日、彼らが実際に行った包囲戦と重なるものだった。
「この戦術、君が提案した作戦とそっくりだ」
「そうです。でも、私一人の力では何もできません。皆さんが信じて動いてくださったからこそ、形になったんです」
アリアは微笑み、そっと写本のページを切り替える。
「これからも、私にできる限りの知識を提供します。それが、私なりの戦い方ですから」
テオドールは、その言葉にゆっくりと頷いた。
「しっかりと学ばせてもらうよ、先生」
「光栄です、殿下」
ふと、窓から一陣の風が吹き込んだ。
アリアの金髪がふわりと揺れ、思念写本のページが、春の光に透けてゆらりと舞う。
それは、未来への希望を映す魔法のようだった。
*
アルシオン王国の東部に位置するユリウス領。
かつて王都で敗北を喫したユリウス一派が、戻ってきたその屋敷は、冷たい空気に包まれていた。
庭には人影もなく、扉は重く閉ざされている。
けれどその奥では、新たな策謀が静かに動き始めていた。
「戦に敗れた。それは認めよう」
ユリウスは、悔しげに唇を噛みながらも、椅子に深く座り込んでいた。
傍らには、エレオノーラ王妃と、数名の忠実な大貴族。
「だが、あれで終わったと思っているなら、テオドールは甘い」
その目は鋭く、わずかに狂気すら滲ませている。
王妃エレオノーラは静かに頷いた。
「私たちはまだ“完全に負けた”のではないわ!」
机の上には地図。ユリウスの領地とその周辺領地が描かれている。
「まずは兵を整える。今度は攻めてきたやつらを倒す!」
呟いた。
「奪われた信頼は、力で取り戻す。アルシオン王国は俺のものだ」
その言葉に、大貴族たちは押し黙りつつも、静かに頷いた。
再び立ち上がる野心が、冷たい風の中で燃え始めていた。
*
一方、王都。ヴェルナー・ベルトラムは、テオドールに一通の報告書を差し出していた。
「ユリウス公爵領の動きです。すでに各地で兵の雇用や、物資の調達が始まっているようです」
テオドールは目を細め、その地図を覗き込んだ。
「時間を与えると厄介ですね」
「はい。今度は、我々が受け身でいるわけにはいきません」
ヴェルナーの言葉に、テオドールは静かに頷いた。
「こちらから、攻め入る。戦はまだ終わっていない」
その言葉は、冷たい決意とともに、静かに王城の一室に響いた。
そしてそれは、新たな戦いの始まりを、確かに告げる音でもあった。
*
場所は、アルシオン王国の北隣オルデ王国の王都ルヴェール。
柔らかな風が吹く中、庭園の一角で、ひとりの少女が腰を下ろしていた。
陽光を反射して揺れる黒髪。その瞳は、青空のように透き通った翡翠色。
ティア・オルデ。オルデ王国の第一王女。
好奇心と行動力に富んだ彼女は、周囲の“王族らしさ”から少し浮いて見える存在でもあった。
「また読んでるのか、ティア」
背後から呆れ気味の声がかかる。兄である第一王子リオネルだった。
「うん。アルシオンの戦況報告。こっちにも回ってきてたから」
そう言って彼女が持ち上げたのは、情報局のまとめた文書の束だった。
そこには、アルシオン王国の内戦、テオドールの勝利、そして王都の急速な発展の報が記されていた。
「テオドール王子、すごいね。まるで戦の神様みたい。あと……」
ティアは文の一節に指を止めた。
「“アイゼンベルク家の令嬢アリア、回復魔法にて敵味方問わず治療”」
彼女は思わず微笑む。
「ねえ、お兄様。私、あの国に留学したい。テオドール王子たちが気になるの!」
その真剣な瞳に、ライエンは一瞬言葉を失う。
「父上に話してみるわ。もちろん“外交の名目”も立てて」
ふわりと立ち上がったティアのスカートが風に舞う。
「私、会ってみたいの。テオドール王子も、アリアって子も。あんな風に国を変えていく人に、触れてみたいのよ」
その背中に、春の風がそっと吹き抜けた。
それは、アルシオンに届くにはまだ遠い風。
けれど確かに、新たな出会いと波乱の気配を含んだ“未来”の風だった。
*
夜の王都は、戦の喧騒が嘘のように静かだった。
王宮の中庭にひっそりと佇む東屋に、二人の姿があった。
月明かりに照らされたその場所に、アリアはそっと立っていた。手には紅茶の入ったカップ。少し冷めているが、その香りが心を落ち着けてくれる。
その向かいから、軽やかな足音が響いた。
「遅くなってすまない。待たせたかな?」
そう声をかけたのは、テオドールだった。
もう「少年王子」ではない。幾度の試練を越えたまなざしが、確かな芯の強さを帯びていた。
「いえ。月が綺麗で、良い時間でした」
アリアは微笑んでそう答えた。
二人は、隣り合わせに腰を下ろす。風がそっと吹き、静かな夜の空気が流れる。
「ようやく一区切り、だね」
「ええ。ですが、これで終わりではありません」
アリアの声は穏やかでありながら、芯のある響きを持っていた。
「ユリウス派は、まだ完全に滅んだわけではありません。きっと、次は」
「こっちから攻める番だ」
言葉が重なった。ふたりは目を合わせて、わずかに笑う。
未来のことを話しながらも、その表情には不安よりも覚悟があった。
「アリア」
テオドールがゆっくりと顔を向ける。その瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。
「これからも君に助けてもらうことになる。僕にはまだ、足りないものがたくさんあるから」
「そんなことありません。殿下は、十分に立派なお方です」
「でも、君がいてくれると、僕は――もっと強くなれる気がする」
その言葉に、アリアは一瞬だけ視線を落とした。
そして、静かに頷いた。
「はい。私は、殿下の夢に賭けていますから」
遠く、塔の鐘が鳴った。
一日の終わりを告げる静かな音色が、夜空に響き渡る。
アリアはそっと立ち上がり、夜空を見上げた。
「この国の未来を、一緒に創っていきましょう。殿下」
その声は、まるで願いを風に乗せるように柔らかかった。
テオドールもまた、静かに立ち上がる。
「うん。約束する」
ふたりの影が、月明かりに寄り添うように並んでいた。
*
――こうして、第一章は幕を閉じる。
だが、物語はまだ始まったばかり。
未来へと続く道は、今、確かに動き出していた。




