Ⅳ.そんな訳ないでしょ。
「意味分かんねえよ!!!」
それが序盤の展開を読み終わった編集長の第一声だった。
そのあと彼は原稿用紙を皺が寄るほど握りしめ、何かの余韻に浸るように虚空を見つめる。そして、すっと大きく空気を吸い込んだかと思うと、息継ぎもそこそこに啖呵を切った。それは言葉の洪水。まるで山に降った雨水が手狭な川に流れ込むように、言葉が堰を超えて溢れだす。
「何これ、何なんなの!? というか、そもそもボルケイノ=松本って誰なんだよ!!! そんな名前で普通の高校生ってどういうつもりだ! 俺の中の『普通』が揺らぎかけてるわ! というか山田=クリスティーぬって何だ!!! この物語の登場人物はどれだけ名前がトリッキーだったら気が済むんだよ!」
坂田はその勢いに圧倒されながらも、隙を見つけては合いの手を入れた。
「まぁねぇ」
「まぁねぇ、じゃねーよ! 布団が恋人ってどういう設定だ! この主人公、バカか? バカなのか? そうかバカだよなー、そりゃあバカだよー。だって、ボルケイノ=松本だもんなー。バカじゃない方が奇跡だわ! それに何だよ、急に「Good bye」って! 文章の途中にいきなり英語って唐突すぎんだよ! あれか? 英会話習いたてか? 習いたてなのか?」
「まぁまぁ」
「たしなめてんじゃねーよ! というか最初から気になってたけど、どうしてクリスティーぬの、『ぬ』が平仮名なんだよ! キラキラか? キラキラネームなのか!? 両親どんな発想してるんだよ! 常識外れにもほどがあるだろ! てゆーか『間一髪のクリスティーぬ、略して間クリーぬ』って何だ!? この文章本当に必要か!? というかもう意味不明な所があり過ぎて、クリスティーぬの血筋の多彩さまで突っ込めねえよ!」
「いやいや、編集長はなかなかいい突っ込みしてますよ」
「え? そう? そうかなぁ、えへへ……ってバカか! もうそんなのに乗ってる気力がねえよ! それに、ついに出たな? 出やがったな? ディアゴスティーニ=松本がよぉ。こいつは主人公の義妹って設定は良かった。そういうのはやっぱり読者に受けるからな。だがよ。何でそんな名前つけちゃったんだよ、親父よぉ! 絶対あんたの仕業だよなぁ? だって、あんたんとこの長男、ボルケイノ君だもんなぁ!? そりゃあ、奇抜な名前もつけたくなるさ! でもよ。何だよ、ディアゴスティーニって! あれか? やっぱり1号目は190円でお届けするのか? バカヤロウ!!!」
「あー、なるほど」
「なるほど、じゃねーよ!」
そうしてしばらく編集長の話は続いた。
それを聞いていて、よくもまあそこまで細かく文章を追えるもんだなと坂田は少し感心させられる。
ただ、その勢いも時間の経過と共に徐々に翳りを見せ始め、彼の額に汗が滲むのが見てとれた。そして、最終的には息も上がってしまい、彼はきりのいい所で話を一次中断してコーヒーを口にする。
「それにさぁ……」
少し間を置いたあとで、低い声が部署内に響く。それは聞いた者が分からないほど僅かに、だが確かに震えていた。
「はい?」
それに答えたのは呑気とも思える緩やかな声。その語尾はまるで相手をあざ笑うかのように伸びきっている。彼女にそんなつもりはないのだが。
「俺の勘違いかなぁ?」
また、震えた声が返した。いや、先ほどよりも揺れが強くなっている。それは自身の体にも伝わって、原稿用紙を握る手がぶれて見えた。
「何がですか?」
それでもなお坂田の声は落ち着いている。一度、感情を爆発させたのがよかったのか、彼女の心は嘘のように穏やかだった。
「……幼馴染のクリスティーぬが分裂してんだけど」
対する編集長は今にも爆発しそうな。まるで限界まで空気を入れた風船のような緊張感を漂わせている。
「えっと、それは……」
「それは?」
坂田はそんな編集長を気遣って、なるべく彼を刺激しないような言葉を考えてみる。しかし、どれだけ思考を巡らせても無難な言葉が見つからなかったので、結局彼女はシンプルに質問に答えることにした。
「勘違いじゃないです」
その言葉がきっかけだった。その言葉がきっかけで、編集長の心はまた一気に噴火する。
「ありえねえええよおおお!!!」
声が響いた。今度は隣の部署どころか、フロア全体にまで声が伝わったかもしれない。そして、そのあと続く絶叫もしかり。
「どういうことだよ!!! 意味分かんねえよ!!! 何でクリスティーぬが食パンくわえて立ち去ったのに、最後は何食わぬ顔で主人公と一緒に学校に歩いて行ってんだ! 俺は読んでて、てっきり次元がねじ曲がったのかと思ったわ! 『運がないわね』、じゃねーよ! こんなのを読まされてる、俺の方が運ないわ!」
「まぁまぁ、編集長。落ち着いて」
「お前のせいだろうが!!! てゆーか、何!? 何なの? この状況はいったいどうなってんの? もしかして何かの伏線なの!? 幼馴染がもしかして何かの能力使いとか? そんな展開なの?」
はたから見て、編集長はかなり取り乱していた。今回はコーヒーのお代わりもやってこない。
坂田はそんな彼を気遣って、なるべくオブラートに包んだ言葉を考えてみる。しかし、やはり納得のいく言葉が見つからなかったので、結局彼女はシンプルに質問に答えることにした。
「ああ、それは」
「それは?」
「結論から言わせてもらえば」
「言わせてもらえば?」
「ぶっちゃけ特に意味はないです」
その言葉で、場の空気が一瞬凍りついた。二人の会話を盗み聞きしていた。否、盗まずとも十分に大きな声だったため話のほとんどを聞いていた同じ部署のメンバーの手が一斉に止まる。
そして、数秒後。
「じゃあ、なんでこんなことしたんだー!!!」
滝を割るようなけたたましさで、編集長の声が響き渡た。
至近距離で聞いている坂田はいっそのこと耳を塞ぎたい気持ちになったが、それはさすがに失礼だと思い、我慢する。
「まぁ、意味はないけど理由は一応あって。要は主人公が登校するときに食パンをくわえたツンデレの女の子とぶつかるってシチュエーションを書きたかったってことなんです。ですが、このとき既にツンデレの女の子は幼馴染で出してしまっていた。だからといってもう一人ツンデレの女の子を登場させるということは、せっかくのキャラがぼやけてしまいますから避けなければいけませんよね? よって苦肉の策でクリスティーぬちゃんに主人公とぶつかってもらった訳です。こうすればキャラもぼやけず、やりたいシチュエーションもできて一石二鳥でしょ?」
坂田はそれを流れるようにまくしたてると、自分の分の湯呑みを手に取り、口へと運ぶ。舌の上に広がったお茶はすっかり冷えてしまっていて、あまり深みが感じられない。こんなことなら最初から飲んでおけばよかったと彼女は思った。
「それよりも続きを読んでください。ここからが本当に面白くなるところですよ?」
唖然とする編集長に向かって坂田は笑う。彼女はもう、どんな結末をも受け入れる覚悟ができていた。