Ⅱ.そんな訳なかった。
「……これは何だ?」
怒りの感情が乗せられた重低音が鼓膜に届く
びくりと肩を震わせる坂田。
「い、いや。あの……」
こういうとき、一度言い淀んでしまうと言葉があとに続かない。そのまま石のように黙り込んでしまった坂田に、彼は再び問いかける。
「もう一度訊く。これは何だ?」
「あの……その……」
しかし坂田は一向に要領を得ない。それどころか、視線がどんどん降下して今はそういう置物であるかのように頭を垂れている。まるで、悪いことをして職員室に呼び出された子どもだ。自分からは行動できず、相手からの言葉かけを待って黙っているだけ。
「はぁ」
そんな煮え切らない坂田の様子にしびれを切らして、彼はまた追求するように口を開いた。
「答えられないなら質問を変える。ボルケイノ=松本ってのは誰だ?」
「……主人公です」
坂田が答えを返す。まだ視線は合わない、さきほどからずっと俯いたままだ。
「じゃあ、山田=クリスティーぬっていうのは誰だ?」
「……ヒロインです。あ、ボルケイノ松本の幼馴染です」
その答えを聞いて、彼の眉毛が僅かに動く。そして、震える手でテーブルの上のコーヒーカップを掴むと、中身を一気に飲み干した。
「そうか。じゃあ、改めて訊く。坂田、これは何だ?」
「……」
坂田は黙り込んだ。それからしばらく待っても、その場に沈黙が流れるだけ。事態は一向に進展しない。
そんな状況についに耐えられなくなったのか、彼は声を張り上げた。
「こんなもん雑誌に載せられるかあああ!!!」
その音はおそらく壁を伝って隣の部署まで響いたに違いない。それほど大きな声だった。
「い、いや、でも……」
「でも、じゃねえよ! 坂田、俺はお前に何度も言ったよな? まともな作品を持って来いって。それが何だ、これは! こんなもの今時、小学生でも書かねーよ!?」
「し、しかし……」
「しかし、も案山子もないんだよ! どうするんだ、こんなもの持ってきて! お前、締め切りがいつか知ってるのか?」
「あ、明日です……」
「そうだよ! ご存じの通り明日、明日だよ! 一週間後でも、一ヶ月後でもなく明日。あ、し、た、なんだよ!」
「だ、だってぇ……」
「だって、って何だ! お前が言ったんだろ!? 締め切りを10日伸ばしてくれれば、ちゃんと作品を持ってくるって。しかも、これで二度目。二度も締め切りを伸ばさせておいて、こんな訳の分からないもの持って来られたら俺だってそりゃあ怒るわ!」
「う、うぅ……」
言い訳をする機会ももらえず、一方的にまくし立てられた坂田は今まで以上にがっくりと肩を落とす。
そんな坂田を見て、彼の憤りは更に高ぶることとなった。
「何だ、その被害者面は! 仕事だろう、仕事! 俺はちゃんと猶予も与えたぞ! それでもできなかったお前が悪いんだろうが!」
そんな様子を見かねてか、社員の一人がコーヒーのお代わりを机へ運んできた。
「おう、ありがとう」
お礼を言ってカップを受け取ると、挽きたての豆の香りが鼻孔を通り抜け少しだけ感情が落ち着いてくる。彼は、一度深呼吸をしてから坂田に視線を向けた。
「……」
冷静になって考えてみると、今回は少し言いすぎたかもしれない。そんな考えが彼の頭をよぎる。いや、頼まれた仕事が出来ていない以上、社会人としては失格でそこに同情の余地はない。ないのだが、彼女が最近、かなり追いつめられていたことを彼は知っていた。
普段の彼女は様々な場面で妥協をせずに頑張る努力家で、不器用な所もあるが社内からの信頼は厚い。かくいう彼も彼女の仕事ぶりには一定の評価を置いている。だから、今日持ってきた原稿に関して彼女は決して手を抜いたりしていないということは分かるし、懸命に自分からの指示を守ろうとしたのだろうということも予想がつく。だが、それとこれとは話が別だ。
会社に属する人間である以上、我儘は許されない。例え、どんなに頑張ったとしても結果を出せなければここでは無意味なのだ。しかも、今回の小説はとても雑誌に載せられるような出来栄えとは言えず、はっきり言って致命的である。
彼はそこまで考えて大きく溜息をついた。
「はぁ」
しかし。しかしだ。こうなってしまったことは、もはやどうにもならない。最初の予定では当に原稿を印刷所に送って、今は完成の知らせを待っている段階だったはずである。それをどうにかこうにか遅らせて、ぎりぎりのスケジュールで編集を進めてきたのだ。だから、もうこれ以上はどうやったって締め切りを伸ばせない。それならとりあえず、ちゃんとまとまるかは分からないが二人で真剣に話し合って打開策を見つけよう。彼は自分の中にある非難めいた気持ちを理性でどうにか追いやって、改めてワイシャツの襟を正しながら彼女に向き合った。
しかし、彼のそんな真摯な気持ちは彼女が次に放った一言で脆くも打ち砕かれる。
「……まだ、序盤のページしか読んでないくせに」
坂田は視線を伏せたまま、ぼそりと呟いた。
「は?」
彼は思わず聞き返す。自分の耳にした言葉が信じられなくて。
「まだ、最初のページしか読んでないくせに、って言ったんですよ!」
だが、それは空耳ではなかった。
そして、突然ばっと顔を上げた坂田が目に涙をたっぷりと溜めて叫んだ。
「私だって頑張ったんですよ! ここまで来るのにどれだけ苦労したことか! それを何ですか、真っ向から全部否定して! しかも、話が始まってかれこれ1時間! いい加減にして下さい! そんなに言うなら、それだけ貶すなら、全部読んでからにしてくださいって話ですよ!」
思いがけず、牙を向かれた彼。それまでずっと我慢していたのか、坂田のスーツのズボンには拳の形をした深い皺できている。
しかし、彼だって何も無闇にただ叱っていた訳ではない。彼には彼なりの主張があって、坂田と話していたのだ。それをあたかもただの理不尽であるかのように言われて。そんな状況で、彼もすんなり黙っている訳にはいかなかった。
「はあ? こんなもの、全部読まなくても分かるわ! 最初のページがこれで、面白くなる訳ないだろうが!」
「そんなの読んでみないと分からないですー。もし、最後まで読んでみて面白かったらどうするんですかー?」
売り言葉に買い言葉。
坂田は互いの関係性を忘れて、むしろ彼を挑発し始めた。ただし、涙目で。
「ああ、いいぞ! そんなに言うなら、じゃあ賭けるか? 最後まで読んで面白くなかったら、お前はクビだ、クビ!」
「あー、良いですよ! 受けて立ちます! でも、私が勝ったら反対に編集長がクビですからね!」
「なんで、俺がクビにならなくちゃいけないんだ!?」
「あれー? 自信がないんですかー? あれだけ、偉そうに色々言ってたのにいざとなったら逃げるんですかー?」
「はぁ!? 逃げる訳ないじゃないだろ! 俺が、何年この職に就いてると思ってるんだ!?」
「じゃあ、勝負してくださいー。負けたら、編集長がクビでーす」
気が付くと、坂田は自分が泣いているのか笑っているのか分からなくなっていた。なんだか今が夢の中でのことのようで、全然現実味が湧かなくて。その場の空気というか勢いに、若干呑まれてしまっているような。
「分かったよ! もう、謝っても遅いからな!」
しかし、賽はもう投げられてしまった。
「はい、決まりでーす! ご託はいいから、さっさと読んでくださーい!」
それでも不思議と坂田の心に後悔はない。
いや、反対にわくわくしていた。この行く先の分からない船路を終えた頃に、自分達がどうなってしまっているのか。彼女は腕を組み、椅子に深く腰掛け、童心の記憶を辿るようにゆっくりと目を閉じる。