前編
突如降り出した豪雨から逃げる様に、私が待機していたバス停にやって来た彼女は言っていました。
「人生において一番大事なことって、やっぱり楽しむことだよね」
それに対して何か言い返した様な気がしますが、自分が発した言葉はあまり覚えていないのです。
今でも人生において一番大事なことが楽しむことであるのかどうか、分かりません。
コンテンツというものは日々膨張を続ける生き物の様なものです。私のちっぽけな脳みそには収まりきりません。
だから私は彼女のことをただぼんやりとすごい人だと思っていました。胡乱な言葉ですねぇ。
「楽しむって……何を?」
あら、思い出せました。今日は頭が冴えているようです。
「何って何も、人生っていうか?」
「ぼんやりしてる」
「ええ……サクラは細かいなぁ……」
「しっかりしてるって言ってもらいたいけど」
私自身、己の性格の悪さというものは理解しています。ですがそれをさらけ出すことが出来る友人が彼女で、彼女だけなのです。
彼女は「うーん」と少し唸りました。
「例えば今、雨が降ってるでしょ?」
「うん。それが?」
「その音とかさ、風景とか、匂いとかを感じて……」
感じて?
「世界の美しさを味わうんだよ」
ああそれは本当に楽しそうだね、とは言えませんでした。その頃の私は今ほど大人ではなくて、ひねくれていたので彼女の言葉にただ口を噤むしかなかったのでした。
今でも彼女の様に世界を楽しむことは出来ていません。
ですがそれが悪いことではない事を知っているのです。人それぞれ、楽しめることは異なるのですよ。
ですからもう彼女の事は忘れてしまいましょう……と言うは易いことですね。出来たら苦労していません。
今でも彼女の事を思い出して、あのバス停の風景が頭に浮かぶのは、彼女がもうこの世にいないからでしょうか?
それとも彼女が私の机の上で首を括っていたからでしょうか?
× × ×
午前七時で満員のバスの中、私は他の人々と同じように思考に耽っておりました。
ああいや、隣の方を見ると目をとじておりました。疲れているんでしょうね、眠っていらっしゃいます。
同じようにバスには疲れて今にも目を閉じて、そのままもう二度と開かなくなってしまいそうな人々が大勢搭乗しております。
生きるための労働を行う場所へ向かうバスの中くらいは、思考という脳内カロリーの消費行為を抑えた方が、彼らの身になるのでしょう。きっと私以外、思考なんてしていないのでした。
ひたすらに空気が悪くて、私は早くこの鬱々とした人々で鬱蒼とした森のような場所を抜け出してやりたくなりました。
高校生はこのバスの中に一人だけで、それが私でした。
一週間後に迫った共通テストにひたすら怯えながら、しかし平常心を保ったまま、心の中と外の温度差で思わず風邪をひいてしまいそうですが、いえいえ受験生です。
風邪は天敵、絶対に引いてやらないぞと思いつつ、ここでインフルエンザにでも罹ってしまえば、叱られるでしょうがまあそれほどお咎めのないまま共通テストを回避することができるので、罹ってしまいたい欲求もそれなりにはあります。
人間、好きなことは好きですが、嫌いなことは嫌いという、複雑な脳みそを持ちながら至極単純な思考の生き物ですから仕方ないでしょう。生物性には逆らえませんね。
ふと、バスの車窓から外へ目を向けました。灰色の空と四角い建物とか、黒とか白とか落ち着いた色の車とか、道行く人々が目に入ります。
ちらほら、私の高校の生徒が増えてきて、ああそろそろバスが到着してしまう、と思いました。
はて、私はこのバスから降りたくないのでしょうか?
変な疑問が頭にわきましたが、目的地に到着してしまったので、私はICカードをバス前部の四角の機械にタッチして降車しました。
このICカードの仕組みは良く分かりませんが、調べるほどの気力は受験生のこの私にはありません。
受験生という言葉は便利ですね。私はこれまで受験生という言葉を使って勉強以外の面倒くさい行為を回避することに成功してきました。今後もぜひ、使いたいものです。
もちろん、浪人は嫌ですが。
バスから降りてすぐ左側に我が校はあります。住宅街に立てられた校舎は、先生方と近隣住民とのもう何十年かに渡る日照権争いの火種となっています・
はあ、と溜息を吐いて白い息が出るのを確認しながら、一歩また一歩と校舎の方へ向かって行きます。
すると毎度の如く、
「あれ、サクラじゃん、おはよう!」
元気な声が後ろから聞こえてきました。声で既に誰か分かってはいましたが、振り返ってみるとそこには冬場にもかかわらず日焼けした肌の同級生、ナツメがいました。
彼女はあのバス内にいた人々と違ってはつらつとしていて、付き合っているとこちらが疲れそうです。
「おはよう、ナツメ。失礼ですが私には委員会の仕事があるのでこの辺で…」
「おいおい、あたしに嘘は通じないから。サクラが委員会に入ってないってこと、知ってるんだぞ?」
「脳内カロリーの消費を抑えるためです」
ナツメは私の言い方に少しだけ眉をぴくつかせましたが、すぐにその表情を消し去りました。
「相変わらず、自分にストイックな生き方だね!」
どちらかと言えばストイックとは真逆の方向に全速力で向かっていると思うのですが。冬でも早朝からランニングをしているらしいこの娘には分からないことなのでしょう。
彼女はよく私に話しかけてきます。いつからだったでしょう……思い出せませんけれど、それなりに昔から。
私としてはそこまで親密な仲という印象は薄く、あちらが一方的な好意をこの私に抱いているのかもなんて思う時期もありましたが、純粋に私は彼女の大勢いる友人枠に入っているだけでしょう。
とまあ、結局成り行きで彼女と教室へ向かう事になってしまったので、彼女と会話しながら、校門から教室までを互いに長く長く感じながら、やっとのことで、はい、我が三年五組の教室です。
ナツメが同じクラスにいる友達と会話しているのをよそに、私は自分の机へ直行しました。鞄を机の横に掛けて一息つくと、私の前の席に座る清純そうな女の子が話しかけてきました。
「おはよう、サクラ。今日はいっそう冷えるね」
「おはよう、マナカ。そうですね。朝から運動でもすればそんなこともないのでしょうけど、私はあのナツメの様にはなれないですね」
そう話すと、マナカはちょっと首をひねりました。
「サクラ、どうして敬語なの?」
「ああ、面接のときに敬語が出る様に日頃から出すようにしているんですよ」
「え、いつから?」
「本日です」
「それって効果あるのかな……」
「プラセボ効果です」
「思い込みじゃんか……」
思い込みで人は死にます。人を殺せる効果があるのだから、プラセボ効果は絶大な力を持っているのです。
ま、矮小なるヒト存在の生死などは、大いなる存在からしたら大したこと無いのかもしれませんが……
ここまでは言いませんでした。私の思想は現代JKからすれば到底意味の分からないもので、この思想・思考を解放してしまえば、私の机と椅子は教室から投げ捨てられてしまうでしょうから。
はあ、なんと息苦しい世の中でしょう。私の事を理解してくださる方は果たしているのでしょうか?いえ、きっといないでしょう。私はこのままこの世界で独りのまま生きて、独りのまま死んでいくのだと思います。
それもきっと一つの生き方……いや死に方?ただでさえお話が下向きなんですから、言葉は上向きにしましょうか。生き方です。はい。
さて、校舎中に響く予鈴が鳴りました。この音を聞くのもあと何回なのでしょうと思いを馳せながら、先生の登場を待ちます。そうしていると、予鈴の鳴りやむ丁度位で先生が教室に入ってきました。
「はい、皆おはよう」
「!?」
そのとき、この小さな教室、三十四人の鮨詰め状態のこの空間で、奇妙にもたった一人だけ立ち上がった者がいます。
私です。
クラスメイトが一斉にこちらを向きます。視線が私に集中します。私の視線は先生———いや、先生らしき服装の者に向いたままでした。
教室に入って来た先生(たぶんおそらく間違いなく)には、なんとびっくり!顔というものが存在しなかったのです。首から上は黒いクレヨンで塗りつぶされたようになっていて気味が悪かったのです。
あまりに気味が悪くって立ち上がった、という訳ではもちろんなく、私はこの現象に覚えがあり、心の中で、もう完結したはずの駄作の物語が連載再開されたかのような「え、どうして!?」が衝撃として来たために、思わず立ち上がってしまったのです。
あれは、中学時代に遡ります。
四年前の丁度今日、朝、教室の前まで行くと人だかりが出来ていました。私がやって来た瞬間、人だかりが全てこちらを見てきました。
モテ期でしょうか?
いえいえもちろん違います。彼らが私の事を見たのは、教室の中で起きている出来事が、私に関連していたからなのです。
「サクラちゃん……」
人だかりの中の誰かが言いました。
「サクラちゃん……」「あ……近藤だ……」「サクラ……さん」「近藤さん……」「近藤……」「近藤さん……」「サクラさん……」「サクラ……」
人だかりが次々に口にしました。
なんなのでしょうか、いったい中で何が起こっているのでしょうか?
さて、気になった私は教室の中を恐る恐る覗きました。
あらあら、私の机の上で何者かが首を吊っているではないですか。
これでも私はグロには耐性がありますので、彼女の真紫になった顔、焦点の合わない目、唾液の垂れる半開きの口元、キリンの様に伸びた赤い首、体内の水分が貯留することによって異様に膨れた腹、糞便の垂れた股を見ても、その足元の糞便まみれの机の心配をしていました。あれは使えるのでしょうか?
まあきっと机は取り換えられるとして、次に私の頭に浮かんだ言葉は「あれは誰?」でした。
それが口に出ていたのかどうかは分かりませんが、人だかりの内の一つが言いました。
「あれはね―――」
その言葉が聞こえた瞬間、心のどこかで思っていた最悪の予感が、見事的中したことを知りました。
その日が授業にならなかったということは、想像に難くないでしょう。
クラスメイト全員が早退、私は気絶していたとのことで、気付いた時には病院のベッドの上でごろんでした。
そして、気付いたのです。心配で仕事を切り上げて私の様子を見に来た母親の顔が、黒いクレヨンに塗りつぶされたかのような、まばらな黒色に染まっていたことに。
回想終了。
場面は教室に戻ります。唐突に立ち上がった私は、まだ朝早く完全には起きていない頭をフル回転させて、
「先生、トイレ!」
しました。
先生トイレはどんなときにも役立つ便利な言葉です。「受験生」と同等か、それ以上に。
朝のホームルームではそれほど重要な話など無い事を私やクラスメイトはこの三年間で理解していましたので、教室を足早に去ることを何者も止めることはありませんでした。
トイレと言ってトイレに行かないわけにはいきません。今は一人になりたい気分でしたし、私はそのままトイレに駆け込みました。
便座にスカートのまま腰を下ろし、深く息を吐きました。
さあ、頭の中は大慌て。いったいどうしてまたこんなことになっているのでしょう。何が原因だったのでしょうか。
それの答えは過去にあると思い、私はあのとき精神科の医者から言われたことを思い出しました。
「(ちょっと覚えていない名前の)病、とでも名付けましょうか」
決して汚れることのない白衣を着た医者は言いました。
「精神に多大なストレスが掛かったためにこうなったのだと僕は思います。状況的に。なぜ他人の顔にクレヨン様のもやがかかっているのかは解明出来かねますがね」
「解明、出来ないんですか?」
「ええ」
と、白衣と黒いインナー、茶色の長ズボン以外が黒塗りになっている医者は言いました。
「脳には未だ人類には分からない事ばかりなのですよ。いや、それこそ人体自体、全て解明出来ているわけではありません。この世界は謎だらけなんですよ」
せっかく頼ったお医者様が「分かりません」じゃ不安になってしまいますよね。この時の私はそれはもう本当に不安で怯えていました。
「じゃあ……治らないんですか…?」
か細い声で私が言ったと思います。
医者は、恐らく手を顎に当てて「ふむ」と呟きました。
「治らない可能性は限りなく低いと言っていいでしょう」
「……?治らない可能性ですか?」
「ええ、治らない可能性が」
てっきり治らないものかと。言い方的に。
「精神的なストレス、今回近藤さんの身に起こったことが原因ならば、やがて治るとみていいでしょう。大半のストレス性の病は、時間という薬が解決してくれることも多いのですよ」
「……はあ」
大半の患者という、人のなかでも弱い生き物は手を差し伸べられることを望んでいるものでして、お医者様のその物言いは、実質的な「お前、終わったよ」宣言と変わりないのでした。
「……ここまでですか」
確かに今日つい先ほどまでは時間が解決してくれましたが……
それ以上はあまり思い出せません。これも時間が解決してくださるので?お医者様。
トイレから教室に帰還すると、あらら、ものの見事に全員が真っ黒です。制服だけははっきりとしていますが、顔とか腕とか手とか脚とかは全部真っ黒。髪も真っ黒!それは相変わらず。全員、誰が誰だか分かりません。
「急にトイレに行ってびっくりしたよ。大丈夫だった?お腹痛い?」
教室に入って早々話しかけてきたそれはきっとナツメでした。声で他人の事を記憶していない私は、いちかばちかに賭けるか、誰に話しても変わりない内容の話を選ぶしかありません。
「大変でしたよ、本当に。朝のホームルームでは特に何も無かったです?」
「うん、何も。共テ前だから気を引き締めろって、それくらい。あと体調に気を付けろってさ」
「……耳が痛いですねぇ」
ええ、本当に。
さて、この摩訶不思議な現象をいったいどう解決してやりましょうか。
意気込みましたが、精神科の医者にも分からなかったことが、一高校生の私に分かるはずがないのです。
とりあえず私はその日の授業を雑に流し―――と言ってももう大半の授業が自習ですから、自分の机で参考書とにらめっこするだけで時間は過ぎてゆきました。
大変だったのは体育の授業。バドミントンでペアを作らなければならず、私は毎度の如くあのナツメとマナカの二人から選ぼうとしていたのですが、時間までに彼女達を見付けることは出来ず……隣のクラスの誰かも分からない人と組む羽目に。
ネットならば顔を知らなくてもコミュニケーションは容易いですが、面と向かっても面が分からない場合のコミュニケーションはこの人生において未履修の項目でした(先生が放任主義だったもので。)
ですから誰かも分からない人に「ドンマイ!」とか「ナイス!」とかそれらしい事だけ言って、何とか乗り切ってやりました。私は出来る女です。
ああ、あとこんなこともありました。
担任の先生に言われました。
「これを泥谷先生に渡しておいてもらえるかい?」
と、ピンク色のノートを手渡されました。
泥谷先生、というのを聞いたことはありません。どんな教科を担当しておられるのか、どのクラスの担当なのか、全て知りません。後程マナカさんに聞きましたが、彼女も知りませんでした。
「先生は渡さないのですか?」
それは咄嗟の逃避行動でしたが……
「これから少し用事があるから、今日はこのまま別の高校に行くんだよ。たった今渡し忘れたことに気付いたから、頼まれてくれないかね?」
あえなく撃沈。
ここで断れば内申点に傷がついてしまうやもしれません。大学受験にはそこまで関係ないでしょうが、
「わかりました。泥谷先生に、これを」
まあ信頼関係を保つことは重要ですからね。頼まれてあげました。
さあ、そうしてやって来たのは職員室です。数多くの影たちがそこではうごめいていました。まあ、廊下も影のように黒くなった存在でいっぱいでしたが……
「すみません、泥谷先生はいらっしゃいませんか?」
職員室の入り口で声を張りました。しかし、影たちはこちらに体をちらりと向けて、また自分たちのこれまで行っていた作業に着手しなおしました。
聞こえなかったのでしょうか?
もう一度声を張ろうとしたその時、誰かが私に近づいてきました。
ああ、これが泥谷先生なのですね。
「泥谷先生、これ、三浦先生(担任)から預かっていたノートです」
そうしてピンク色のノートを差し出しましたが、影は
「ああ、私は泥谷先生ではないですよ?家庭科の松田です。泥谷先生は今離席中なので、私が預かっておきますね」
「そ、それは申し訳ありません……ありがとうございます」
はあ。
とっととこの病気か障害かよくわからない何かを取っ払わなければならないようです。
それにしても、いったいどうしてまたこのような症状が出始めてしまったのでしょう?
一度消えたと思っていたけれど、もしかしてそうではなかった?
バスで彼女の事を思い出したから?
考えてもキリがないったら。とりあえず私はその日は家に帰りました。
顔の見えない親とご飯を食べて、
スマホの中に映る顔の見えない人物の動画を見て、
風呂に入って、私の顔は鏡を通して問題なく見えていましたが、
これからいったいどうしようと、布団に入って考えるのでした。




